シェリー・カーターの非日常な日常〜ソルトリア男子寄宿学院備忘録〜

桃花 杏

第1話 ドニー・ソルトリアの憂鬱

 壇上の美しい少女はまつ毛を揺らし、高らかに言った。

「──今、俺のこと女子レディだと思ったやつ挙手!」

 はためくワンピース。

  イタズラっぽい笑顔。

  快活な、少年らしいよく通る声。

「「…………は?」」

「残念ながら皆と同じ未来の紳士候補なんだ。これからどうぞよろしく!」

「「…………は??」」

  教室中の酸素が、一瞬確かに消え失せた。

  

 ここは学校という名の公的な教育機関である。

 それも紳士にふさわしい英才教育がなされるパブリックスクールである。

 というより何より『彼』はただ、自己紹介をするようにと教室へ招き入れられただけのはずだ。

 ――しかし、彼は女装していた。

 その声と言葉を聞くまでは女性としか思えないほどの見事な変身ぶりだった。

 自他ともに厳しいことで評判の学院長が心底驚愕した顔を、生徒たちは初めて見た。

 別に見たくなかった。

 何をどうしたか一足先に教室内へ入った学院長にも気づかれぬように早着替えを行ったらしい。だが、その事実や正体を暴露されたところで、残念なことに褒めたりはやし立てたりするユーモアと余裕のある人間がいるはずもない。

(なんで??)

(正気か!?)  

 今後の人間関係を構築するうえで最も重要な場面シーン。この教室にいる者たち全員がその育ちゆえに理解しているソレの重さを、『彼』は天秤ごとぶち破ったのだ。

 無駄に素材の良さそうな純白のワンピースで。

「……シェリー・カーター。ただちに院長室に来たまえ」

「え? ……はい、院長先生」

 上品に研磨されかけている原石たちにあまりにも奔放なヒビカットを施した『彼』は、登場からわずか一分にして、学院長からの呼び出し最速記録を塗り替え、慎ましい生徒たちに恐怖にも羨望にも軽蔑にも似た強烈な衝撃を産み与え、教室を後にした。

 新学期が始まり、わずか数日後。男子専門の寄宿学校『ソルトリア学院』は、たった一人の転入生によるたった一つのイタズラにより、大混乱に陥った。

 さらに厄介なことには、そのホームルームでの前代未聞の事件は、『彼』による数々の『イタズラ』の、ほんの序章でしかなかったのだ。


 ※


 九月九日。

 その日、ソルトリア学院の院長ドニー・ソルトリアは、いつもより三十分ほど早く起きた。

 彼は日頃から規則正しい生活を送る、若くも模範的な紳士だ。しかし、その日は彼の経営する寄宿学院にとって珍しい予定があったのだ。となれば、院長としても教師としても、より一層の心構えで身支度の時間をとるのは当然であった。

 手早く身を清めてスーツに袖を通し、赤褐色の髪をオールバックに整える。秋の陽光が差し込む窓には鋭い翡翠の眼光が映り込んでいたが、仕上げに薄い四角フレームのメガネをかければ、気休め程度にはやわらいだ。

 ――コンコンコン。

 指定した時間ちょうどにノックが響き、ドニーはひとつ頷いた。

「入りなさい」

「失礼します」

 一人の少年が礼儀正しく入室し、ドニーの元へと歩み寄る。

 その落ち着いた仕草とは裏腹に、利発そうに弧を描く眉と、クルミのような大きな瞳とが、好奇心の赴くままに煌めいていた。

「おはようございます、院長先生」

「おはよう、カーター。よく眠れたか?」

「いいえ、全然!」

「…………」

 思えば、この瞬間から兆候はあった。

 お世辞にも優しげとは言えない鋭い視線をものともせず、堂々と茶目っ気たっぷりに答えてみせた彼こそ、件の転入生――シェリー・カーターだった。

「……新しい生活に備え、昨晩は早く寝るようにと伝えたはずだが」

「そうですね、仰る通りです。でも先生、ベッドにはきちんと入っていても、寝付けなかったんです。転校って初めてだし、どう挨拶すればいいか考えていたら月があっという間に沈んでしまって!」

「……そうか」

 ギリギリの長さで束ねた栗色の髪が、言葉に合わせて鳥の尾羽のようにぴょこんと揺れる。くすぐったそうにうなじをかく仕草にも年相応の愛嬌があったが、ドニーはそれに気づいてはいても、それ以上の問題に内心でため息をつくばかりだった。


 ソルトリア男子学院は、中流及び上流階級の、もしくはそれらに成り上がりたての家柄に属する子息のためにドニーの手によって造られた、少人数制の寄宿学校だ。

 立ち上げた当初ドニーはわずか二十五歳であったが、ソルトリア家が代々自らもパブリックスクールに通い優秀な大学教授や教員になる者を輩出するような家柄だったために、若人が経営する新設校としては近所の前評判は良すぎる程だった。定員を上回る入学希望者を正当な試験をもってふるいにかけ、ほぼ定員通りの人数で開校したのが約二年前のことだ。

 今年も無事新年度を迎えたかと思いきや、わずか数日後に突然、我が子を他校からこの学院へ転入させたいという申請が届いた。シェリー・カーターの両親からのものだ。

 ソルトリア学院は他の一般的なパブリックスクールと同じく、13歳から18歳までの男子の教育を請け負っている。シェリーは今年15歳になることから、受け入れは可能だった。

 しかし、それまでは以前の学校で二年間教育を受けているはずだ。どうして学年が変わってわずか数日という妙にズレたタイミングで急に転校することになったのか。引越しをしたわけでもなさそうだった。

(なにか、いわくがある訳ではあるまいな……)

 申請書を片手に、ドニーがそう疑っても仕方のないことだった。しかし、教育という形で若者を立派な紳士に育てあげることにやりがいを感じるたちであったため、年齢や家柄の基準をクリアし正式な手順を踏みさえすれば、誰であっても受け入れてきた自負がある。

 どうせなら新年度の開始に合わせて手続きをして欲しかったが、入学に足る試験を想定以上の点数でパスしたこと、ある程度の作法や言葉遣いにも問題なかったこともあり、ドニーは彼の転入を承諾したのだ。

 ――承諾、したのだが。

「カーター」

「はい!」

「今朝のホームルームで、君を皆に紹介するということは伝えてあったな」

「はい」

「……そのトランクはなんだ?」

 後ろ手に持っていたそれを指さされると、シェリーはより一層瞳を輝かせた。

「さっきお伝えしたじゃないですか! どうやって挨拶しようかすごく悩んだって。これはそのための秘密兵器です」

 頭痛がした。

 そう、これだ。試験の際はじめて顔を合わせた時は、一般的な子息たちと同じ落ち着いた雰囲気があった。だと言うのに、転入が正式に決まってからというもの、別人のようにはしゃいだ様子を見せ始めたのだ。

 もちろんドニーも、無邪気な子どもを見たことがない訳では無い。ただ、二年間関わってきた生徒たちとは、あまりに性質が違うのだ。

 簡単に言ってしまえば、ここに通う子息らしくない。内面はともかく、他人に接するときの態度はまるで違う。彼のような子どもを生徒として教育したことが無いため、ドニーは顔には出ないものの、大変戸惑っていた。

 シェリーの実家は宝石やそれを使った宝飾を専門に扱う商家だったはずだが、両親は彼を今までどう教育してきたのか。他の生徒と家柄で言えばあまり変わらないはずだが、それにしては違いすぎる。

 ――彼を、紳士に育てられるだろうか。いや、育てなければならない。そのために、彼はここへ転入したはずなのだから。

「……秘密兵器、とは?」

「院長先生、それを言ってしまっては秘密兵器ではなくなってしまいますよ」

「…………」

 そうだが、そういうことでは無い。

 ドニーは自身も紳士教育を慎ましく受けてきた弊害により、シェリーのような言動に耐性がない。これまでもこれからも、シェリーのような生徒と関わることはないと思っていたし、本来ならその通りになるはずだった。一度受け入れた以上やり遂げるしかないことは分かっていても、どうにも先行きが不安だ。

「カーター、それは本当に必要なものか? 転入初日の挨拶は、身一つで行うものだ」

「ええ、分かってます。これも身一つみたいなものですから、大丈夫です!」

 大丈夫では無いだろう。恐らく。なんなら嫌な予感もうっすらしている。しかし、ドニーは生真面目な男だった。初めて接するような性格の生徒には、今まで通りの対応をするべきでは無いのかもしれないと考えた。

 生徒の自主性をまずは尊重し、間違いがあれば正せば良い、と。自己紹介と挨拶に対して積極的で、早くこの学院へ馴染もうとする姿勢自体は素晴らしいとも考えていた。

「……他人を害するものではないと誓えるか?」

「はい、院長先生。俺の名誉にかけて!」

 先ほどまでより真面目な顔つきできっぱりと言いきったシェリーに、ドニーは内心ため息をつきつつも、とうとう頷いた。

「ならば……良いだろう。ただし、私の判断によっては――」

「やった! ありがとうございます、先生! 俺、すぐにみんなと仲良くなれると思います!」

 シェリーはくるりとその場で一回転したかと思うと、あろうことかドニーの片手をとってぶんぶんと上下に振って見せた。

 ドニーは驚きのあまり声も出なかったが、一拍おいてどうにか咳払いした。

「……シェリー・カーター。他人の身体にむやみに、それも許可なく触れるものではない。君はもうこの学院の生徒なのだから、常に紳士の心構えでいなさい」

 シェリーはその言葉にハッと我に返った様子で、すぐにドニーの手を離した。

「すみません、院長先生。うれしくて、つい」

「……以後、気をつけなさい」

 はい、という返事を聞き、ドニーはやれやれとこめかみを揉んだ。

 ひとまずは、在校生たちとの顔合わせだ。何はともあれ、それが終わらなければ始まらない。

 ドニーはなんとか気を取り直すと、時間ぴったりにシェリーを連れて、在校生たちの待つ教室へと向かった。

 

 そうして、冒頭の事件――後々生徒たちに『シェリーの一発目』と名付けられた――が起こってしまった。

 あの衝撃的な事件を、生徒たちはもちろんドニーも一生忘れられないだろう。


「今日から皆とともに生活することになった、転入生を紹介する」

 そう告げたときは、その転入生が何かをしでかすなんて考えもしていなかった。

 在校生たちはその言葉に微かに色めきたったものの、行儀よく教室の扉へ視線を向けていた。

「シェリー・カーター君。入りなさい」

 ドニーが声を掛け、扉が開く。

 その次の瞬間、教室の時は止まった。

 滑らかな光沢が揺れる、上品な白いワンピース。ニキビひとつない健康的な肌。ひとつに束ねた髪は艶やかで、クルミ色の瞳はきらきらしていた。

 ――紛うことなき、美少女だった。少なくとも、全員にそう見えた。

 ほんの一瞬、在校生たちの頭は麻痺した。

 (転入生は女子か……)

 と。

 男子校であるソルトリア学院に、女子が入学するはずはない。が、それを忘れるほどにその姿が自然すぎた。

 そして次の瞬間に、ありえない幻想は打ち砕かれた。

「──今、俺のこと女子レディだと思ったやつ挙手!」

 はためくワンピース。

  イタズラっぽい笑顔。

  快活な、少年らしいよく通る声。

「「…………は?」」

 何人かが思わず、彼らにしては珍しい、少々乱暴な声を漏らした。理解が追いつかなかった。少女が、少年の声と少年らしい言葉を発している。

 あまつさえ挙手を求められていた。もちろん誰も手を挙げなかった。条件は生徒たち全員が満たしていたが、混乱した脳は単純な言葉の理解なんて置き去りにしていた。目の前の情報だけで、いっぱいいっぱいである。

 生徒たちが人生でおそらく初めての感情と表情で固まっている中、シェリーは心底楽しそうに笑った。

「残念ながら皆と同じ未来の紳士候補なんだ。これからどうぞよろしく!」

 そう言った本人の格好は、立派な淑女である。

「「…………は??」」

 次にいくつか漏れ出た声は、明確な意志を持っていた。戸惑いと怪訝とドン引き、まとめて『理解不能』の意だった。

 生徒たちどころか、それ以上に困惑していたのがドニーである。彼はシェリーに紳士の心構えであれと言った。淑女であれとは言っていない。おまけにシェリーの言っていた「身一つ」の意味が最悪な形で繋がってしまった。どうしてこんな形で理解させられなければならないのか。

 こんなことを企画しておきながら、なぜああも自信満々に「すぐにみんなと仲良くなれる」などというセリフが言えたのか。

 ――まさか。

 ドニーはうっすらと胸にあった嫌な予感が、とうとうひとつの形になるのを感じていた。未だかつて幸か不幸か出会ったことのない、ドニーにとっては未知のソレ。

(あれが……かの有名な……)


 ――問題児、か……!


 さらにドニーにとって運の悪いことには、彼はシェリー・カーターを教育し、立派な紳士に育てあげなければならなかった。もちろん淑女ではなく。

 彼は一度天を仰ぎ、頭痛から来るめまいを気のせいだと言い聞かせ、憂鬱な心をどうにか覆い隠して、絞り出すように言った。

「……シェリー・カーター。ただちに院長室へ来たまえ」

 

第一話 ドニー・ソルトリアの憂鬱 (終)

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