同情 03

 両親の死。


 避けられない事象であり、人生の分水嶺の1つでもある。


 誰もが経験することであると同時にあまり経験したくないことであるというのが一般的な解釈だろう。


 それは生物として日常と呼ぶのか、それとも人として非日常と呼ぶのか。


 それは人の価値観次第だけれど、僕はやっぱり非日常だと言いたい。


 こんなことが、あんな悲しいことが日常だなんて耐えられる自信がない。


 両親のという以前に死と向き合うことはいくつになっても、何度経験しても慣れない物だろう。


 慣れてはいけないなんて言い方も間違いじゃない。


 手のひら一杯にすくった砂粒が風に乗って彼方に飛んでいくのとはわけが違う。


 人間は砂粒ほどいるけれど、僕の知らない誰かはやはり砂粒同然で、僕の大好きなみんなは人間以上だ。


 手のひら一杯の砂粒が風に飛ばされても「せっかく集めたのに」のような一瞬の軽い悔しさが残るだけだけれど、僕が救い、また僕が救われた大好きな人たちが風に飛ばされて2度と会えなくなるのならば話は大きく変わる。


 言葉にできない苦しさや、何かできなかっただろうかという悔しさや、もう会えないという現実の辛さ、そして無常。


 自身の無力さに打ちひしがれ、代わりはいないもどかしさに頭を狂わされる。


 怨恨ややるせなさを誰に、何に対して向ければいいか錯乱し、八つ当たりを繰り返す。


 死というものはだれが被害者かを見失い、残されたものは立ち上がり方を見失い、そして目覚めたときには何もかも失っている。


 砂を巻き込む波のように世界は簡単に人の時間を巻き込んで離さない。


 時間を巻いて巻いて巻いて・・・・・・・・世界はどれだけせっかちなんだろう。


 閑話休題。




 そんな僕を引き取ったのは顔も見たことのない親戚だった。


 初めて会った時のあの苦虫を噛んだような表情は今でも忘れない。


 「厄介なものを拾ってしまった」と口には出さずとも表情に出すことは口に出すよりも堪えた。


 それならいっそ思ってることをすべて吐き出してくれよなんて余裕のある今なら言ってしまうかもしれない。


 まぁ、当時はなにもかもどうでもいいとやさぐれていたから見て見ぬふりをしたんだけれど。


 そんな親戚はどうも会社の経営者らしく、お金には余裕があった。


 夫婦二人で暮らす生活に余裕があり、僕を誰が引き取るかの話し合いで押し付けられた姿が目に浮かぶ。


 そんな親戚夫婦が僕を引き取った要因は、実のところもう1つ存在した。


 それは会社の株を上げるという事。


 僕を1つの肩書として捉え、認識し、僕の『惨憺』な境遇を利用したというのが最も親戚夫婦を軽蔑しきった言い方だろう。


 具体的に述べるならば、彼らの会社が運営しているブログやらなんやらに両親が亡くなった親戚を引き取ったことをアップし、同情を煽り、まるで彼らの会社が利益を目的に会社を運営しているわけではなく、あくまで我々一般人の生活を楽にするためいという人情味のある会社ですよというアピールのために僕は利用された。


 僕は彼らほどの守銭奴を見たことがない。


 軽い脱税も、下請け企業への無理強いも、パワハラもセクハラも、親戚夫の浮気だってバレてしまえばいいのにと何度も思う。


 だからこそ僕は死んだ両親の家に今も住み続けられている。


 僕の知っている会社や親戚夫の汚点をバラさない代わり、そして僕を利用する代わりにこの家とそして学費や生活費もろもろを受け取って。


 


 


 

 


 


 


 


 


 

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