4

 秋森しずくの逮捕から一週間ほどが経った。

 すでに彼女が殺人罪で逮捕されたことは大々的に報じられており、テレビをつければ嫌でも彼女のニュースに行き当たる有り様だった。報道の中には秋森の事情に同情する声もあったが、蓑田、須賀の殺害に関わった彼女を非難する番組がほとんどだった。世間的には事件はすでに完全に解決したと見られており、まだ捜査を進めている人間がいるなどとは誰も思ってもいないようだった。

 そのおかげもあって、光石の自宅アパートに赴くと、彼女は快く室内に迎え入れてくれた。

「それで、お話ってなんですか?」

 雑多な部屋の真ん中に置かれたテーブルにつき、光石はクッションに座って小首を傾げてみせた。いかにも感情が表に出やすい若者といった仕草だったが、速水はもうそんなもので欺かれたりはしなかった。

 隣に座った槇原に目配せをして「自分が主導権を握る」と伝えると、速水は光石に話を切り出した。

「事件について新たに聞きたいことが出てきまして、ぜひ光石さんのご協力が必要なんです」

「私にですか? もう知っていることは全部話したと思いますけど」

「いいえ。我々はあなたに、とても大事なことを聞きそびれていたんです」

 真っ直ぐに相手の目を見据えて告げると、光石はこちらの迫力に怯えたように身を引いた。だが構わず、速水は彼女に切り込んでいく。

「高樋光男に秋森しずくを襲わせたのは、あなたですね?」

 光石はぽかんとした顔をしてから、慌てて抗弁してくる。

「あ、あの……刑事さん、私と誰かを勘違いしてませんか? 高樋なんて人のこと、全然知らないんですけど……」

「そんなはずはありません。あなたはこの男に会っているはずです」

 言って、速水は高樋の生前の写真をテーブルに置いた。目立った特徴のない顔立ちには、大人になり切れていない子どもっぽさが滲んでいる。

「この顔に見覚えはありませんか?」

「えっと……見たことがあるような気はするんですが……」

「それはそうでしょう。この男の存在を我々に最初に教えてくれたのは、あなたなんですから。彼はあなたにつきまとっていた雑誌記者ですよ」

「言われてみれば、そんな顔してたかも……もしかして、その人が事件に関係していたんですか?」

「はい。事件の発端はこの男でした。ところで、あなたはどうしてこの男の顔を知っていたんです?」

 光石は質問の意図がわからないと言いたげに首を傾げるので、速水は説明する。

「蓑田と須賀の両名と直接関わった人物の中で、彼の存在を把握していたのは彼の上司と秋森しずく、そしてあなただけでした。高樋光男は秋森の元恋人でストーカーなので、彼女が顔を知っていたのはわかります。ですが、あなたはどうして彼の顔を正確に覚えていたんですか? あなたの供述した高樋の顔は、秋森の供述とも完全に一致していました。彼はアルバイトの記者でしたが、三年以上も記者の仕事を続けています。クビになっていないということは、それなりの実績もあったはず。それだけの経験と実績があるなら、顔を覚えられないように距離を取るなり、顔を隠すなり対策くらいはしていたはずです。だからこそ、あなたと秋森しずく以外に高樋の存在を把握できたものはいなかった。それなのに、どうしてあなたは彼の顔を正確に把握しているんですか?」

 にわかに、光石の顔に緊張が走った。一度だけ唾を飲み込んでから、光石は動揺を隠して答えてくる。

「私、目がいいんですよ。それで細かいところまで覚えていたのかもしれません」

「目がいいとしても、表情まで読むのは難しいでしょう。あなたは高樋のことを『表情が幼い』、『内面が子どもっぽい』と表現しました。表情を読み取るには、相手が何らかの反応をしているところを見る必要があります。取材対象を尾行している人間は、相手に気づかれないよう警戒しているはずです。そんな人間が取材対象に顔を見られて、露骨に表情を顔に出すとは思えません。そんなことをしたら、取材対象に警戒されるに決まっているんですから」

「それは……すみません。私、ゴシップ記者の人に対して偏見を持っていました。嬉々として人のプライベートを暴くような仕事をしてる人って、きっと人の迷惑を考えてない、悪気のない子どもみたいな人なんだろうなって。高樋さんの実際の表情と一致していたのは、ただの偶然だったんだと思います」

 うまい切り返しだ。ただの偏見による印象だったと言われれば、それ以上追及するのは難しくなる。速水は思わず舌を巻いたが、このまま光石を逃がすつもりはなかった。

「でしたら別の話をしましょう。実は、高樋光男は自宅に手帳を残していたんです。そこには、彼がいつどこでどんな調査をしていたのか、誰と会っていたのかが詳細に記されていました」

「……へえ。そうなんですね」

 光石の表情が一気にぎこちなくなる。やはりここが急所になるようだ。速水は相手に考える隙を与えないよう、素早く畳み掛けることにした。

「彼が殺害される直前、彼はある人物に会っていたようです。その人物に何かを吹き込まれ、それが原因で高樋は秋森しずくをレイプしようとして、返り討ちにあったというのが我々の見解です。高樋の当日のGPS情報を追ったところ、彼は下北沢や表参道、中目黒方面にいたようです。我々はGPS情報の履歴を元に、実際に高樋がいたと思われる場所を特定し、付近の防犯カメラ映像を集めて調査しました。高樋はアルバイトの記者という職業柄、人と会う機会は少なかったようですね。会社との連絡も週一で本社に行く以外は、基本的に長濱とケータイで連絡を取るのみ。それ以外は基本、取材対象の尾行に専念していました。そのため、彼が死亡直前に会った人物はただひとり……下北沢の路上で十数分ほど居合わせた、サングラスに帽子、マスクをつけた人物だけのようでした」

 光石の顔から徐々にあどけなさが消えていき、明確な敵意がむき出しになっていく。そのことに確かな手応えを覚えつつ、速水は続ける。

「その人物は相当顔を見られることを警戒していたようですが、幸い特徴的な体格をしていたので助かりました。高樋との比較から、身長はおよそ一五〇センチほどで、体格と髪型から女性であることはほぼ間違いありません。顔を隠さなければならないのは、もしかしたらその人物が有名人で、男性と一緒にいるところを見られるとまずい立場だからかもしれませんね。偶然、私にはその人物に心当たりがありました」

「それで、私のところに来たんですか? でもそれだけじゃ、私だと断定できませんよね?」

「そうですね。ですが、我々はそれからも徹底的に捜査を続けました。幸い、高樋はその人物と会った日は必ず日記をつけていました。該当の日付の彼のGPS情報を調べ、下北沢周辺の移動箇所の防犯カメラ映像を探したところ……この映像にたどり着きました」

 言って、速水は一枚の拡大写真をテーブルに置いた。そこには、光石の自宅付近の路上で張り込む高樋と、彼に近づいて話しかけている光石の顔がしっかりと映されている。

 ようやく観念したのか、光石は深い溜め息を吐いた。

「……ったく、男ってホントバカ。蓑田のおっさんの盗撮癖といい、なんであいつらって何でもかんでも記録に残したがるわけ? 高樋なんて秋森しずくをレイプしに行ったくせに、わざわざ証拠になるような日記を残しておくなんて、頭イカれてるわ」

 顔をしかめて忌々しげに吐き捨てる姿には、先程までのしおらしい元アイドルの姿は欠片も残っていなかった。

 予想以上の変貌ぶりだったのか、隣に座った槇原が不愉快そうに眉を寄せている。だが速水にとっては予想通りだったため、そこまでの驚きはなかった。

「それで、あんたらは私が高樋と何を話したのか知ってるわけ? どうせ防犯カメラ映像なんて、音声までは撮ってないでしょ」

「ええ。おっしゃる通り、残念ながら集めた防犯カメラ映像ではあなたと高樋との間で交わされた会話の内容までは特定できませんでした。しかし、大体内容は想像できます。大方、『秋森しずくは誰とでも寝る淫乱女だから、高樋でも頼み込めばヤラせてくれる。もし拒絶されたら、それは秋森がお前のことをただのストーカーとしか思ってないってことだ』とでも言ったのではないでしょうか。それで高樋は秋森に会いに行き、『こんな噂を聞いたが本当なのか』と聞こうとした。しかし秋森さんは当然、ストーカーである高樋を激しく拒絶した。それに逆上した高樋は秋森さんをレイプしようとして、秋森さんの返り討ちにあった。つまり、あなたの言葉によって高樋は秋森しずくをレイプするよう突き動かされ、結果的にその後の秋森しずく、峰村良子の両名による殺人事件を引き起こしたことになります」

「刑事さん、綺麗な顔してえぐいこと考えてんのね。そんな想像するなんて、欲求不満なんじゃない?」

「高樋は完全に自分の妄想に取り憑かれていました。それくらいインパクトの強いことを言わないと、彼の行動を変えることはできなかったのでしょう。彼がレイプ未遂で殺害されるひと月前、あなたは高樋に別のアプローチも試していましたね。高樋の日記に書かれていましたよ。あなたが『秋森しずくはもっと高樋の気持ちに応えるべきだ』と言っていたと。しかしそんな生ぬるい言葉では、高樋が秋森をレイプするように誘導することはできなかった」

「……あのクソ男、ホント余計なことを」

 光石は悪態をついてから、すぐに反論してくる。

「でも日記に書かれてること以外は、結局全部刑事さんの妄想でしょ? そんな証拠もないことで私に文句言われたって困るんだけど。大体、私が高樋にそう吹き込んだとして、それを罪に問えるの? 芸能界でよくある根も葉もないゴシップを教えて、高樋がこれ以上秋森さんに付きまとわないようにしたつもりだった――って言ったらどうするわけ?」

「ええ。そう言われると思いました。しかし、あなたが同じような教唆を繰り返していたとしたらどうでしょう?」

「……どういう意味?」

 光石が警戒心をむき出しにするが、速水は構わず別の紙をテーブルに置いた。

 それは、蓑田と須賀のメッセージアプリのやりとり内容をプリントアウトしたものだった。彼らが高樋死亡後に光石とやりとりした内容と、秋森とやりとりした内容とがまとめてある。


 ミノダ『二十三時に自宅。 ――十月四日 二十一時十七分』

 ミノダ『本気で潰されたいのか? ――十月四日 二十三時十五分』

 しずく『あなたには無理です。 ――十月五日 〇時三分』

 ミノダ『覚えておけ、クソ女。 ――十月五日 〇時六分』


 おと『今日どうですか? ――十月二日 二十一時二十五分』

 ミノダ『〇時に自宅。 ――十月二日 二十一時四十六分』

 おと『楽しみです! ――十月二日 二十一時五十三分』

 ミノダ『〇時に自宅。 ――十月六日 二十一時三十四分』

 おと『待ってました! ――十月六日 二十一時四十六分』


 おと『今日もダメ? ――十月二日 十四時二十九分』

 和馬『今日も舞台の練習。 ――十月二日 十八時三十七分』

 おと『今から会えない? ――十月八日 十五時四十三分』

 おと『つらいことがあったから、話聞いてほしい……。 ――十月八日 十五時四十五分』

 和馬『今気づいた。そっち行こうか? ――十月十日 二時十二分』

 おと『来て! 待ってる! ――十月十日 二時十四分』


 和馬『蓑田さん死んじゃったみたいだね。 ――十月八日 十五時四十八分』

 しずく『急になに? ――十月八日 十八時十四分』

 和馬『しずくと蓑田さんのこと、俺知ってるんだよね。 ――十月八日 十八時十八分』

 しずく『何のこと? ――十月八日 十八時二十四分』

 和馬『しらばっくれても無駄だよ。今からお金持ってこれる? ――十月八日 十八時二十六分』

 しずく『バカにしないで。 ――十月八日 十八時三十五分』

 和馬『強がんなよ。せっかくのキャリアが台無しになっちまうぞ? ――十月八日 一八時四十二分』

 和馬『おい、無視すんな。 ――十月八日 二十時五十一分』

 和馬『どうなっても知らねえからな。 ――十月十日 十二時二十五分』


「これを見れば一目瞭然ですが、あなたはまるで高樋が殺害されたことを把握していたように、彼の死の翌日に蓑田と須賀の両名に連絡を取っていますね。そして二人とも、あなたと会ってから殺害されるまでの間に、秋森しずくに対して決定的な脅し文句を送っています。あなたに焚き付けられたことで、彼らが秋森しずくに対して嗜虐的な感情を抱かされていたとしても、私は驚きません」

「ひどい言いがかりなんだけど。大体、また証拠もない妄想じゃん。大体、そんなことして私に何のメリットがあるわけ?」

「あなたは高樋との度重なる接触で、蓑田や須賀の行状について知悉していた。その過程で、秋森しずくが二人の毒牙にかかっていたことを知り、高樋が彼女のストーカーであることを知った。あなたがバラエティの仕事でのし上がっていくには、次世代のバラエティ女王の呼び声高い秋森しずくは邪魔で仕方なかったのでしょう。秋森さんの弱点を知ったあなたは、高樋を使って秋森を陥れることを考えた。そして数ヶ月かけてようやく彼を思い通りに操り、彼を秋森しずくと接触させることに成功した」

 速水の推理を聞きながら、光石は射殺さんばかりの目を向けてくる。だが構わず、速水は自分の推理を説明する。

「おそらく、あなたは高樋と最後に会った時、次の待ち合わせ場所と時間を口頭で伝えおいて、翌日に結果報告を聞くつもりだったのでしょう。だが、十月一日に高樋はその場に現れなかった。考えられる理由は三つ。一つは高樋が秋森をレイプしようとし、警察の捜査を恐れて雲隠れした。二つ目は高樋は秋森を信じることに決め、あなたとの一切の連絡を断つことに決めた。そして三つ目は……高樋が秋森をレイプしようとして、反撃されて殺された。結果としてどれが正解だったとしても、あなたが次に取るべき行動はひとつでした。蓑田と須賀の両名に連絡を取り、秋森に精神的なダメージを与えるような動きを取るように煽る。秋森さんがレイプされたとしても、高樋を殺していたとしても、更に精神的負荷を与えることで長期休養に追い込めるかもしれない。高樋が秋森に会わなかったんだとしても、蓑田か須賀がスキャンダルを世に出せば、秋森の仕事は確実に減る。もちろんあなたのことだから、蓑田や須賀を直接的な言葉で煽るようなことはしなかったでしょう。蓑田にしろ須賀にしろ、秋森しずくを手放す気はなかったのですから、あなたが『秋森しずくは最近売れててすごい。こんな人と付き合える男は勝ち組』とでも言えば、二人とも彼女と連絡を取ろうという気になったんじゃないでしょうか。あなたと会った翌日に蓑田や須賀が殺されたのは偶然なんかじゃありません。あなたは蓑田や須賀経由で秋森に精神的な負荷をかけていたんですから、あなたが彼らと会った翌日に、秋森たちが殺人を決行したのは当然のことでした。あなたはそれをわかっていて、あえてアリバイを作らなかった。何故なら、あなたは警察の捜査を受けたかったからです。殺人事件の捜査を受けてニュースになれば売名にもなりますし、自分の疑いがすぐ晴れることにも確信を持っていたでしょうからね。高樋の情報を我々に漏らしたのも、警察の捜査があまりに進まないので、秋森しずくが逮捕されないのではと焦っていたからなのではありませんか?」

 光石が無言で睨み続けてくるので、速水は更に続ける。

「何なら、かつてあなたが所属していたアイドルグループの解散についても言及しましょうか? 解散理由は人気のあるメンバーが揃ってスキャンダルで大炎上して、収拾がつかなくなったからだそうですね。そのスキャンダルを雑誌に売った人物や、ネットにばら撒いた人物もあなただったのではありませんか? それが立証できれば、あなたのライバル潰しは常習的な行動と断定できます」

 彼女は相変わらず仇でも見るような目でこちらを睨んでいるが、その表情にはいくらか余裕が戻っていた。

「長々とご高説どうも。でもそれってあんたの妄想で、証拠はないってことでしょ?」

「ええ。ここまではただの推理でした」

 過去形で言うと、光石の表情が再び固まった。

「お忘れですか? 蓑田茂に盗撮癖があったことを。彼の自宅に設置されたカメラの中に、あなたと彼の間で交わされた会話の内容が記録されていました。あなたはやはり、秋森しずくのことを彼に話しかけていましたね。そして須賀のアパートは壁が薄く、隣室の住民があなたと彼との会話を聞いていたようです。こちらでもやはり、あなたは秋森しずくの名前を出していましたね。そして最後に、高樋は腐っても記者でした。彼のスマートフォンの録音アプリには、彼がとある人物と交わした会話の内容が記録されていました。どんな内容だったか知りたいですか?」

「……遠慮しとく」

 光石はこちらから目をそらし、逃げ道を探すように視線を泳がせた。しばしそうしてから、速水を見返して開き直った。

「しっかり捜査してきたってわけね。でも、それが何? 私のしたことが罪に問えると、本気で思ってるわけ? 私はただ話をしただけ。高樋に秋森しずくをレイプしろなんて言った覚えはないし、秋森に蓑田や須賀を殺せと言った覚えもない。それで殺人教唆や強姦教唆に問えるっていうの?」

「どうでしょうね。少なくとも、私はこれを立件させるために全力を尽くします」

「無駄な労力だと思うけど」

「そうかもしれませんが、試してみる価値はあります」

 覚悟を決めた目で光石を見据えると、彼女は青ざめた顔でそっと視線をそむけた。

 光石の自宅を辞去してから車に戻ると、助手席に座った槙原がうなるように言った。

「……とんでもない変貌ぶりだったな。世間知らずで後先考えない若い女だと思ってたが、あれが本性ならすべてをわかってて仕組んでたとしてもおかしくない。だが、本当にあれを立件できると思うか? もし立件して無罪になったら、検事のキャリアにケチがつく。有罪判決が確実だと思わせられないと、検事は動かせんぞ」

「わかってます」

 あんな薄弱な証拠で検事が動くかどうかは、速水にとっても分の悪い賭けだった。

 だからこそ、速水は今日光石に会いに来たのだ。

「言ったでしょう? 光石音乃は裁かれざる悪人だ、と。今の司法制度では彼女は裁けません。それでも、私は彼女の悪行を見過ごせないし、見過ごすべきではないと思っています」

「じゃあどうするって言うんだ? まさか、秋森しずくみたいに犯罪に手を染めるつもりじゃないだろうな?」

「そんなことしませんよ」

「だったら、これからお前は何をするつもりなんだ?」

 槇原が真剣な眼差しで問うてくるのに、速水は肩をすくめた。

「別に、何もしません」

「……何?」

「私たち警察ができるのは、捜査して証拠を集めて、検事が立件するための材料を集めることだけです。もし誰一人彼女を立件しようという検事がいないのなら、私にできることはもう何もありません。だから、私はわざわざ光石に会いに来たんです」

「どういう意味だ」

 槇原が本気で疑問に思っているようだったので、速水は説明する。

「自分が警察に狙われてると知れば、光石は嫌でも今後の行動を制限されることになる。警察が自分を監視しているかもしれない。雑誌に情報を売られて、タレントとしてのキャリアを踏み潰されるかもしれない。もしかしたら本当に立件されて、破滅するかもしれない。彼女の胸にそんな疑惑を植え付けることができれば、それで十分なんです。それで彼女のタレント生活にヒビが入ってくれれば、もっといいですね。光石が秋森にしたことと同じです。些細な精神的負荷を積み重ねることによって、人生を狂わされる人もいる。彼女には自分がしたことの重みを、身を以て思い知ってもらいます。そうでなくては納得できませんから」

「目には目を、歯に歯をってわけか」

「言っておきますが、復讐のつもりはありませんよ。ああしておけば、光石が同じことを繰り返す可能性は低くなる。今後起きるかもしれない犯罪を予防できる可能性のほうが高いんです」

 速水の目を見て、こちらが本気だということを察したのだろう。槇原はそれ以上、速水の行動を追及して来なかった。

 代わりに、独り言のように言葉を漏らす。

「……ったく、やっぱ女ってのは怖いね。覚えてるか? 俺が蓑田のことをゼウスみたいだって言ったこと」

「奥さんが三人もいるのに、他の女性を何人もレイプしたっていう神様ですよね」

「それだ。ゼウスが手篭めにした女は、ほとんどが悲惨な結末を迎えてる。だが彼女たちが不幸になる決定的な要因は、ゼウスの所業じゃないことがほとんどだ。ゼウスの嫁――ヘラっていう女神がゼウスの浮気に嫉妬して、ゼウスの愛人に凄惨な仕返しをしたのさ。愛人を呪って出産を妨害したり、愛人が産んだ子どもを惨殺したり、ゼウス自身の手で愛人を殺させたり……とにかく徹底的に愛人を叩き潰したんだ」

 胸が悪くなりそうな話に、思わず速水は眉を寄せた。それを確認してから、槇原はため息を漏らすように言った。

「つまり……結局女にとって最大の敵は、無責任な男よりも嫉妬深い女なのかもしれねえな」

 何の気ない一言だったのかもしれないが、その言葉は速水の胸に棘のように刺さってしまった。

 才能と美に恵まれた秋森しずくは、高樋光男、蓑田茂、須賀和馬、長濱京次郎のような無責任な男を否応なく惹きつけてしまった。彼らに散々に利用されながらも、彼女は負けずに夢に立ち向かい、なんとか自らの成功を掴み取った。しかし男たちの手によって人生を破壊されそうになり、秋森はやむなく剣を取って、凄惨な復讐に走ってしまった。それを裏で操っていたのが、嫉妬深い女――光石音乃であったことに気づかないまま。

 悲しいけれど、この事件はこの国の――この世界のどこでも起きている、ありきたりな出来事だったのかもしれない。この世界の女性のほとんどは、いまだに蓑田のような無責任で欲深い男たちによって支配されていて、光石のような嫉妬深く冷酷な女によって追い打ちをかけられている。神のように無慈悲で残酷な彼らの手から、無力な女が逃れるのは決して簡単じゃない。

 速水は自分の無力さを改めて痛感し、途方もないやるせなさに襲われた。

 こんな仕事をしていて、本当に意味があるのだろうか。自分のしていることは、本気で助けを求めている誰かを助けられているのだろうか。

 胸に去来する虚無感に抗って、速水は強く、車のハンドルを握りしめた。

 ――例え自分が無力だと感じても、汚れに満ちた世界に絶望したとしても、それでも必死にもがいて、一歩ずつ前に進み続けるしかない。腐った世界と戦い続けるしかない。

 不実な神が支配する、この不完全な世界を変えるために。

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不実な神が支配する 森野一葉 @bookmountain

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