第45話 七月二十三日、午前八時二十九分。+一周。

地方メーカーの宣伝が貼られた段ボールを窓枠にはめ込み、降り止まぬ雨を凌ぐ。

 三日目の朝、僕は何をするでもなく、布団の上で胡座をかいていた。考えをまとめるわけでもなく、休養に努めるわけでもなく、ただ呆然と座っていた。時間が流れる電子時計。濁流のようにとめどなく、せせらぎのようにゆっくりと、時間は奔流する。無駄で、無意味で、無価値な、ありふれた時間。

「……今頃、我らが西大津高等学校では文化祭開催中なんやろな」

『無為に時間を消費するぐらいであれば、参加すればいいのでは?』

「……参加したいように見えます?」

『我が顔ながら、怠そうな顔です。』

 ……やる気も、根気も、瓶底に穴が空いたように空っぽだ。おかげで朝ご飯を食べる気力すら湧かない。なんにもないのだ。身体に四肢が生えていることさえ億劫に思える現象を『脱力』とは呼ばないのであれば、これは『糸の切れたマリオネット』とでも呼ぼうか。存在そのものが、意味を持たない存在。

 それに、昨晩はまるで眠れた気がしなかった。

 悪夢から這い出すように、何度も目が覚めた。

「……今日は三日目やってのに、お互い随分と気楽なもんやな」

『馬鹿の分際で私の心をわかったように語らないでください。』

「……さいですか。それは失礼しました」

『何が言いたいのですか?』

「……いや、ね。たぶん、お互い本当は焦るべきなんやろうとは思うのですよ。だって、今日は三日目なんやで。明日が二十四日なのか、はたまた二十一日なのか。事の次第によっては、僕たちは現状にてもう取り返しのつかない事態であることを認識しなければならない。……そうやないんやろか、」

 僕達は、僕達の明日は、確約されていないのだ。

 それは、無期の牢獄生活を言い渡されたも同義。

「……でも、これはひどい諦観の末路なのかもしれんけど、……もう、どうしたって明日は二十一日なんやろうなって」

 つまり、明日の朝、それは明日ではないのだろうと。気怠さの残った二十一日の朝なのだろうと。きっと、これは『時間遡行現象』ではない。『時間監獄現象』なのだろう。なんの確証もないけれども、どういう理屈か僕には既にそう思い込んでしまっている。……いいや、薄々、理由は知っているのだ。

 ……なんでも知っている『彼女』が、僕を名指しで救世主と謳ったのだ。

 ……その『僕』が何も成していないのだから世界も守られるわけがない。

 熟慮もせずにこれとは、怠慢だろうか。

 否、きっと、熟慮したって怠慢なのだ。

『馬鹿ですね。そんなもの、この世の神様すら存じ上げないでしょうに。』

 そうか、神様でもわかんないか。それならば、僕がどうこうすれば済む問題でもないわけだ。そうか。それならば、ずっと気が楽になる。能力が伴わなければ、責任なんぞ背負える道理がないのだから。使命や宿命なんてもんだって、出来ないのであれば無いも同然の『運命』てもんと変わらないのだ。


――――――――――――

 

 ……だったら、そうだな。今日は一日ずっと、デジタル時計の進む速度でも測ってやろうか。

「……流石に暇やな。……岸辺さんは休日は何をして、……あー、やっぱいいや」

『どうして、話途中で自分の質問を遮りやめてしまうのですか。不愉快です。』

「……いや、どうせ勉強漬けなんやろ?……そんな現実聞かされてもおもんないし、真面目な奴等のサクセスストーリーに出てくる蛍雪の功自慢なんて国庫から補償が出たっていいレベルの公害やし。死ねばいいと思う。いや、割とマジで死ねばいいと思う。そういう奴に限って無駄に他人にも厳しいし。クソが」

『なるほど。馬鹿が僻みを拗らせれば残るのはコレなのですね。哀れ。』

 ……ちくしょう。なんも言い返せねぇ。

『安心していいですよ。教養が生み出す産物は社会的地位と自己満足だけです。』

 ……何を安心して欲しくって僕にこの話をしてくれたのかわからないが、ひとまず安心していいのであれば安心しておこうと思う。そっか、社会的地位と自己満足か。……あれ、この世の全てじゃね。これ、逆説を解けば教養のない僕はこの世の全てを手に入れていないといえる。なんだそれ。マジ卍なんだが。

 こんな風に楽しそうに話していらっしゃる岸辺さんだが、これも自己満足の一環なのだろうか。

「……なーんか、こんな珍事でもなければ岸辺さんなんて関わりない人種なんやろうな」

 記憶は結局のところ端くれだって無い訳だが、勤勉とは程遠い人格だったのだろう。

『そうですね。私も馬鹿の世話なんてお金を支払われようとも請け負いませんから。』

 ……あ、あれれ。その言い草だとまるで僕が馬鹿で、その馬鹿な僕を君が世話をしているような言い分じゃないか。馬鹿は千歩譲ってその通りだとして、しかし君に世話を焼かれた、だと。確かに風呂に入らせてもらったり、寝床まで運んでくたりはしたけれども、あれは世話じゃない。介護だ。世話じゃない。

 だから、なんだ。そのお母さんヅラはやめろ。

「……あー、イヤだなぁ。世話焼かれてんのかな。この人に、、、」

『焼いていますよ。それに気付かないから馬鹿なのです。馬鹿。』

 ……ぐぐぐ。マジでぐうの音も出ないとは、、、

『休日の話でしたね。理系科目は割と好きで得意ですので、趣味も兼ねて関連書を眺めていますよ。』

「……趣味を語っている最中に学校教科を答えるんじゃないよ。今の、現代文だったら減点もんだぞ」

『馬鹿が国語を語らないでください。私、国語は嫌いな部類の教科ですが、苦手では無いのですよ。さしずめ、今の貴方の気持ちを答えるのであれば「腹が減ったなぁ」か「お散歩にでも行きたいなぁ」ぐらいでしょう。試験対策に『源氏物語』を読破した私に貴方如きの感情を理解できないわけがないのです。』

「……『源氏物語』で僕の気持ちが推し測れちゃうのか」

 ……いや、待て。紫式部は滋賀に縁のある人物であると聞く。

 ……貴様、それは本当に試験対策のために読んだものなのか?

「……しかし、おいおいナメんなよ。僕をそこいらのデキの悪い量産型愛玩動物並の思考と一緒にしないで頂きたい」

『では、動物にはない人間様の知性ある回答を、どうぞ。』

「……正解は「ちょーっとだけお腹が空いたなー」でした」

『そうですか。私としたことが満点解答だったのですね。』

……そうですね。貴方は聞き方から再履修が必要じゃありゃしませんかね。このままだと君、教養で得られるはずの社会的地位が底無しに危ぶまれますよ。グッラグラのガッタガタです。危うく自己満足だけの化身じゃないですか。……あれ、これ、僕以上に反社会的素養があるのでは?……僕、ちょっと心配。

『でも、ちゃんと空腹ならばよかったです。今にも死にそうな顔をしていましたから。』

「…………そんなに?」

『ええ、馬鹿が私の身体に感染したのかと心配になる程度には。杞憂で良かったです。』

 ほんっと、杞憂でよかったですね。馬鹿が感染するってんなら、僕の馬鹿の感染元を徹底的に探る必要性がありましたから、ね、岸辺さん。……しかし、岸辺さん相手にそんな顔をしてしまっていたのであれば反省せねばならない。彼女に僕に関する心労を掛けるのは、なんか、すごく嫌だ。

 なにが出来るわけでもないので、元気ですよ、のポーズとして力こぶを見せておく。

『なんですか、それ。まったく。元気そうで良かったです。』

「……その、詫びってわけじゃ無いけど、どっか遊びに行く?あんまりこのへん知らんけど」

『私はね、馬鹿。自慢じゃ無いけれど俗世には疎いのです。案内なんて碌に出来ませんよ?』

 なんだそれ。お前は深窓の令嬢か。そのうち僕を民草とか言い出しそうで怖い。

「……別に、案内は求めてへんよ。……適当に歩けばそのへんに楽しみぐらい転がってるもんちゃうの。ほら、カラオケとか、ゲーセンとか、あと琵琶湖とか」

 ……く、くそう。言い出しておいてなんだが、レパートリーが乏しすぎるぜ、滋賀県。

 なんだったら、雨の日の琵琶湖なんて釣り人でさえ寄り付かなさそうだ。だが、一人の滋賀県民として琵琶湖の趨勢を担い、十二分に琵琶湖を楽しむってのは義務なのではないか。僕は滋賀県民なのかは知らんけれども。琵琶湖、うん、いいじゃあないか。行こう、琵琶湖。たぶん岸辺さんも好きやろ、琵琶湖。

『ゲーセン、好きなん?』

「……関西弁出てますよ、お嬢さん」

 ……なんだ、意外。琵琶湖以外に食いついた。

 本人は関西弁を気にする様子もなく、次の紙。

『数十秒で支度してください。時間が勿体無い。』

 突飛な発言の岸辺さん。その語気の凄みが文字越しながら台風のように押し寄せる。

 ど、どどど、どうしよう。ちょっと引くレベルで過去一テンション爆上げなんですけど。これ、虎の尾を踏んだ的なやつなのではないか。若干誤用な気がしなくもないが、岸辺さんが「にゃー(かわいい)」と鳴く猫とは天地がひっくり返っても思わないので、虎で正解なのだろう。

 ちょっと、ちょっとだけですけど、ちょっとキモいですよ、貴方。

「……あの、出発の前に飯と風呂を――――――」


 間隙を縫う、とはまさしくこのことなのだろう。

 僕がダラダラと文句を垂れるその隙に買い置きの飯は用意をされ、風呂も沸かされ、身包みも剥がされた。今の僕はスッポンポンである。慣れとは怖いもので、もはや岸辺さんも僕に裸体を晒す行為に恥じらいは皆無らしく、僕も岸辺さんに霰もない姿にされることに抵抗もない。だが、これは、ちょっと、、、

 いや、それを抜きにしても恥を知ってほしい諸行為の後、また僕に一枚の紙が渡される。


――――――『数えて九十秒、それで支度させてあげます。』

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