第44話 七月二十二日、午後五時五十分。+一周。

 歩道橋から眺望する、夕日と街道とショッピングモール。

「……なにがしたいんか、もうよくわからんくなってきた」

 ……いいや、僕よ、明快な回答を僕は有しているはずだ。僕よ、詭弁を弄すな。

 なにがしたくって、この場に居るのかだなんて。そんなもの、この異常事態をどうにかするって他に理由でもあるってのか。なにを迷う。なにを戸惑う。僕には、僕の、やるべきことがってのがあるはずだ。……そのために、僕は大切に思う人を裏切るような真似をしたのではないのか。

「……そうだ。あぁ、そうだ。僕は、僕以外の享受すべき『普通』を取り戻さなければならないはずだ」

 そのために、『僕』ってのがいる。

 それ以外に、『僕』ってのはいらない。

「……だから、例え『僕』がこの世から消えてしまったとしても、『僕』の痕跡が誰の世界からも抹消されてしまったとしても、僕はやらなきゃならない」

 そうだ。その通りだ。故に、僕が『僕』である証明なんてもんも必要ないのだ。

――――――騒然とした、雑然とした、街道のど真ん中で金属音が鳴り響く。

――――――カンカンカン、カンカンカン、と鳴り響く。

――――――あぁ、来たか、と僕だけが一人、確信する。

――――――そこには例の青年と、醜い形相の不可視の化け物がいた。

 さぁ、僕よ、僕のやるべきことを成せ。

「……あの青年と、化け物の間に、割って入れ」

 そして状況を聞き出せ。解決策を聞き出せ。未知の事実を聞き出せ。

 ……そうすれば、僕は確信に至るはずだ。

 ……あの化け物が、ただの化け物であることを。

「……僕は、聞かなきゃならん。たとえ塵芥の価値もない情報でも、解決の一握りとなるのであれば」

 見下す景色は過去と符合する。青年の焦り顔。傍聴する通行人。なんのそのな車両の往来。……恐れ慄く必要などない。寂寞に囚われた『化け物』の正体と青年の経緯、状況を把握をすればいいだけなのだ。そうすれば、僕は僕の成すべきことをしっかりと捉えることができるはずだ。

 僕は、『僕』であるかなど、どうでもいいのだ。

 僕が、『僕』であることの価値を示せればいい。

 それが、この赤錆目立つ階段を降りれば手に入れられるのだ。事実と対峙し、あるはずの真実を確認さえ叶えられれば、僕のすべきことが明瞭となる。そして僕のすべきことを完遂さえ出来れば、それで万事全てが順調に回り始めるはずだ。……それが、僕の最終地点なのだ。迷いが生じる隙も無い。

 ……そのための、ただ一歩をここから踏み出せばいい。

 ……そうすれば、ようやくもって僕に価値が生まれる。

 ……だから、迷う必要はない。

 ……踏み出せ。

 ……踏み出せ。

 ……踏み出せッ!!


「…………あぁ、いやだ。……こんなくだらない死に方は嫌だ」


――――――――――――


 けたたましいサイレン音。そして連行される青年。

 ……そうだった。もう全部、終わってるんだった。

『こんなところで何をしているのですか?』

 愛嬌がない、怜悧な文字列が持ち合わせのメモ帳の上に綴られ僕の目の前に落とされていた。

 どうやらへたり込んでいたらしい僕は、歩道橋の手すりを背にもたれかかっていたらしい。もはや事の顛末を見送ることさえしなかった。残っているのは、夕刻のざわめきと哀愁漂う匂いだけ。何も手にしていなかったはずなのに、何かを失ったような喪失感がグッと胸を空かせた。

『帰りが遅いので街中を廻りました。苦労したので、お礼ぐらい欲しいです。』

「……………………」

『どうしたのですか?本当に体調が優れないのですか?』

 落とされていた筆談を拾い上げ、読み、ただ心が濁った。

「……はは、あはは、ほら、見てみろよ。こんな人だぞ。……化け物のはずがない」

 これは盲目的な妄信なのではないか、そう理性は僕を咎めようとする。だが、それがどうしたのだろう。どれが正しく、どれが真実かなんて、もうほとんど意味を成さないではないか。……だから、僕は、『僕』を、笑って誤魔化すことしかできないのだ。

 そうだ、この通り、『岸辺織葉』が『化け物』な訳がないって。


 それに、調子良く息巻いていて、結局尻尾を巻いて逃げてしまった。

 ……だったら、もう、僕が何かをする権利なんて、ないじゃないか。


 これは諦観の極地だ。僕は既に全ての事由についてどうでもいい、と僕の心を説き伏せてしまった。

「……僕は馬鹿だな。大馬鹿野郎だ。……やっと、自分の身の程がわかった」

『なにか、あったのですか?』

「……ホンマ、下らんことや」

 以降、『そうですか。』と追求をやめる彼女に、僕は何も聞き返すことはしなかった。

 ひとこと、「よくここがわかったね」なんてことも絶対に口から零れないようにした。

「……お迎え、ありがと。……帰ろっか」

 山々の稜線が赤く燃え上がり、立ち込める暗雲に灼熱の斜光を伸ばす。まるでこの世の終わりのメタファーのような、ここで恒久の別れを決心させられるような、言い知れぬ感情を与える風景だった。きっと、こんな情状で風景を眺めていたのは、同居人が透明であるせいなのだろう、と僕は思うこととする。


「……あぁ、もう、消えちまいそうだ」、と。

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