第28話 七月二十二日、午後五時五十一分。

 初めて知った。自分で決断するってことが、これほどまでに胸糞が悪いこととは。

「……はっ、……はっ、…………あぁ、くっそ」

 自業自得で済ませられれば、きっと、どれだけこの胃もたれを起こしそうな思いが軽減できただろうか。おかげさまで僕の心中は、蟻塚よろしく穴ぼこでこぼこもいいところだ。色々と踏み躙った自分の足跡は、彼女の面影と身勝手な後悔でできていると思うと尚更どうしようもなく嫌になる。

「……あー、もう、信号なんて待ってられん!!」

 通行人を掻き分け、時に無理やりどかし、向こう側の街道に渡る手段を模索する。

 目と鼻の先に横断歩道があるものの、信号が青に変わる気配はない。自動車の流れも止まりそうにない。だが、ジッとしている胆力も時間も僕にはない。他の手段に頼るなら、さっきの自販機前からも見えていた案内標識のぶら下がっている歩道橋を渡る以外にはないだろう。

 だったら、迷う必要はない。

 僕は飛びつくように歩道橋の階段を蹴飛ばす。

「……はーっ、…………はーーーっ」

 息が上がって仕方がない。段差を一段飛ばしに駆け上がっているものだから、体力事情なんて考えが及ぶわけもなかったのだ。階段の中腹辺りでは既に肩が上がり呼吸も絶え絶えであった。もうちょい運動しておけよ、この身体、と悪口ばかり捗る口を置き去りにして、上へ上へと目指す。

「……ひーーーっ、やっと、着いた」

 なんとか辛うじて歩道橋の頂上へと辿り着く頃には、滝行を終えたように汗だくだった。

 危うく夕食での胃の中の内容物をぶちまけそうになり口を抑え、いったん呼吸を整える。

 そのまま、確かな足取りで一歩、一歩と歩道橋を進む。

「……で、結局、こんなとこまで来てもうたけど、どないすりゃええねん」

 ご覧の通り、僕、もとい、この身体がへっぽこだ。荒事になんてなれば小枝で殴っている方が攻撃面で優秀だろう。そして頭脳はお馴染みの僕だ。キレの悪さなら出来の悪い石包丁ととんとんだろう。……だったら、僕に出来る事ってなんなんだ、ちくしょう。

「……ええい、そんなもん、後で考えてやる」

 こうなりゃ自棄ってもんだ。そもそも自棄でここにいるんだ。

 僕のむかっ腹を落ち着かせることぐらいしか考えが及ばない。

 ともかく今、僕はあの青年を一発、二発、ぶん殴ってやらないことには気が済みそうにないのだ。こんなもん、青年からしても、僕としても、心底アホらしい八つ当たりだろうが、そんなもん知ったこっちゃない。ただ僕がそうしたいから、僕はそうするだけなのだ。

 ……すなわち、これが『僕』だ。誰の意思も介在しない僕の意志のはずだ。

 ……生き恥晒しながらも、なんとかしてやりたいってのが『僕』の意志だ。

「……もうちょい、……もう、ちょいや」

 夢中で気付かなかったが、もうすぐ手前に降り階段がある。

 この下だ。丁度この下に、あの青年が凸凹金属バットを片手に暴れ回っている。いよいよ何も妙案浮かばずにここまで行き着いてしまったのだが、どの道もう後戻りはできないのだ。やらかすだけやらかして、自己中心的な考えのもと一人の女の子に辛い思いまでさせてここにいるのだ。

 やらかすだけやらかして、自己中心的な考えのもとで一人の女の子を裏切ってここにいるのだ。

 もうとっくに後には引けない。

 だったら、腹を括るしかない。

 ……あとは、この階段を下るだけ。

「……ちくしょうが。……なんでもいいから、なんとかしてや――――――」


――――――――――――


 思えば、思い返してもみれば、奇妙な節は其処らかしこにあっただろう。

 歩道橋から見下ろした景色、それは日常とは異なる非日常が、透明な水の中に滴る水彩絵の具のように交わっている。

――――――荒びた凸凹金属バットをぶん回し乱れる青年、

――――――それを囲うように、遠巻きに見つめる通行人、

――――――そこは、まさしく混乱の中心地であり、

――――――逆に言ってしまえば、それらが『すべて』であったのだ。

 このうちのどれか一つでも解決できればと思っていた。そうすれば芋づる式に問題は問題ではなくなると思った。あの金属バットを青年から取り上げれば、青年自身を押さえ付ければ、そのための助力を乞えば、なんだったら通行人を分散させれば。

 それでいいと、本気で、そう思っていた。

――――――「くるな」、彼はこう言った。

――――――「化け物」、彼はそう叫んだ。

 僕は、もっと吟味してやるべきだったのかもしれない。

 これらの言葉の裏の裏、その本当の意味のすべてを。

 だって、おかしいじゃないか。暴れ狂っているお前が、どうして苦悶な表情なのだ。だって本来は逆じゃないのか。お前は金属バットを振り回す秩序の加害者で、それだけの存在だろう。

 疑念が生まれた。「お前は、何を言っているのだ?」と。

 いいや、もっと、もっと、的確な言葉があるじゃないか。

 ……『お前は一体、『何』に追われているのだ?』、と。

 ……だが、その問いをする必要はもう無さそうだった。


「…………なんだ、『あれ』?」

 ……そうだった。この世界は、記憶喪失だって、人格の入れ替わりだって、幽体化だって、一晩で窓が全部破れてしまう事だってあるのだ。……だから、気付いてたってよかったのだ。……もはや、何が起こったって当然で、何が起こったって不自然じゃないことぐらいは。


 だったら、この世界には『化け物』が居たとしたって、不思議じゃないのだ、と。

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