第27話 ――――――――――――

「……なぁ、何しに行くん??」

 その、たったの一言で、全ての雑踏は何事でもない背景へとボヤけてしまった。

 そこに佇んでいたのは、久遠詩織、一人のように思えた。実際は一人なんかではないのだが僕の視界には久遠詩織か、それ以外か、だった。鈴の音のような声の音も、女性らしい甘い匂いも、さっき食べた菓子の味も、ズキンと痛む心臓の感触も、僕のすべては彼女のもののようだった。

 彼女の尋ねる質問は、とてもシンプルである。

 しかし、僕はそれに、逡巡してしまっている。

「……ほーら、もう帰ろうよ。学校。クラスの子たち、誰も怒ってないってさ」

「…………」

「私たちもさっさと帰って、文化祭の準備を手伝って、そんで、さ…………?」

 夕暮れどきに犯されそうな哀愁のせいか。

 どうしようもなく儚い笑みのように感じた。

「……そや、コンビニで買い食いでもせーへん?フルーツたっぷり載ったデザートでも食べ合いながらさ、琵琶湖沿いの歩道をゆっくり散歩しよや。二人で!!……まー、クラスの子たちに迷惑かかるかもやけど、許してくれるやろし。……そんで、そんでさ、帰りの電車の中で今日の反省会!!」

「…………」

「楽しかったもんなー、今日のデート!!」

「…………」

「いっぱいお買い物できたし、戦利品も沢山。織葉にも着て欲しい服もあるし、戦利品漁りにうちに来なよ。なんやったら泊まってもいいよ!!……そしたらさ、きっとさ、明日はもっと、……もっと、さ?」

 おもむろに、久遠さんは僕の手を握った。強く、強く、握った。

 ずっと近くなった久遠さんの顔は、夕日のせいなんかじゃなく紅葉色で。

 握られた手から、これが彼女の意志であることが痛いぐらいにわかった。

「……もう、いいでしょ。……危ないよ、そっち」

 気付けば、ここは奇しくも最初の待ち合わせ場所だった。

 遠くには時計台があり、僕を悩ませた自販機も横にある。

「……全部、見なかったことにすればいいじゃん」

「…………」

「……どうせ、偽善なんて辛くなるだけだから」

「…………」

「……だったら、知らなかったでいいじゃんか」

「…………」

「……ずっと、ジッとしていたらいいじゃんか」

「…………」

「……善処するって、言ったじゃん」

 彼女の表情から、はっきりと笑みが消えた。

 繋がれた手に、ギュッと、力が篭る。どこにも行かないで欲しい、ここに居て欲しい、約束を守って欲しい。それだけは、言葉を交わしたわけではないのだが、ちゃんとわかった。……そして皮肉にも、そんな言葉の外の訴えを以て、僕は『僕』のしたい事に気付いてしまうのだ。

 

 ……あぁ、そっか、僕、あっちに行きたいんだ。

 ……あの向かい側の街道の、騒ぎの元凶の元へ。


「……ごめん、なさい。……でも、やっぱりアレを止めたい」

「……止めたって、どうせ無駄。どうせ、全部、全部、全部、無駄になるだけ。……きっとそんなことを後々に知って、馬鹿をやったことを後悔するだけ。……嫌な思いするだけ。……私の言うこと、聞いときゃ良かったって、そう思うだけっ!!」

「……そうかも、しれない」

「……だったらどうして!?」

 久遠さんは握った手を手繰り寄せ、僕と肉薄する距離となる。

 相変わらず端正な顔立ちで、いい匂いで、とても優しい人だ。

 そんな彼女の思いってのを、どうして、僕は裏切ろうとしているのだろうか。


「…………それは、僕が岸辺織葉ではないからだ」


 この言葉は、きっと彼女だけを不幸にする最悪の言葉だ。

 僕は、彼女に、ずっと謝らなければならない罪悪感を抱えていた。君の微笑みかけるその人は、君が照れるその人は、君の好きなその人は、すべて岸辺織葉ではないのだ、と。……そいつは、君は赤の他人の、どうしようもない大馬鹿者なのだと。

 もっと早くに、そう告白するべきだったのかもしれない。

「……僕は、アレを止めたいと思ってしまった」

 それが仮に誰かの迷惑になろうとも。

 それが仮に誰かの邪魔になろうとも。

「……誰に言われるわけでもない。……僕は、目先の暴力を止めないといけない思った」

 ……それがかえって、二次被害を招くことになろうとも。

 ……それが例え、君を傷つける結果に繋がろうとしても。


 それが、代替物ではない僕の、『僕』の意志なのだと思う。

 

「……なんで。……なんで、さ」

「……ごめん。本当に、ごめん」

 結局、僕は『僕』を殺すことなど出来なかった。たぶん、これから僕は自らの犯した業の深さを痛感することはあれども、本当の意味でわかってやることなどできやしないのだろう。だからこそ、これは僕の罪であるのだ。

「……本当、意味わかんない」

「…………」

「……全然、全然、意味わかんない」

 彼女の手は、僕からそっと離れた。

 深く俯き、口を閉ざしてしまった彼女の横を僕は通り過ぎる。

 そこに本来あったはずの『日常』が崩壊する音を聞きながら。


 最後に、「嘘吐き」と、彼女はそう呟いた。

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