第三章 栄光の光と影と 7.遥かなり南氷洋(3)

3.落日、そして

 規制の強化と共にヨーロッパのかつての捕鯨国が次々と南氷洋母船式捕鯨から撤退していく中、日本が最後まで商業捕鯨を継続できた理由は何であろうか。


 最も大きな原因は、国内の鯨肉市場の存在である。畜肉に比べて安価だった鯨肉は学校給食にも用いられ、全国的に消費する習慣が形成された。この安定した需要を元に、日本の捕鯨業は鯨油よりむしろ鯨肉の生産に重点を置いた経営を行っていた。対する欧州捕鯨は鯨油の採取のみを目的としており、その収益は油脂市場に大きく左右されるものであった。さらに大豆やパーム、綿花などから採取される植物油やアンチョビーを原料とする魚油が安定して供給されるようになると、鯨油はこれらの安価な油脂に代替され、需要そのものが減少していったのである。

 それ以外にも先述したように通年操業を可能にし、設備の稼働率を高めた北洋捕鯨の存在、意欲的な新技術の導入と既存装備の強化に加え、徹底した目標管理による生産性の向上など、日本独自の経営手法が高度経済成長に先駆けて南氷洋捕鯨でも威力を発揮していたのである。


 欧州捕鯨にも固有の弱点があった。それは、ヨーロッパの南氷洋捕鯨は日本のように水産会社ではなく、海運会社の兼業部門が行っていたことである。このためどうしても本業である海運業の方が優先され、捕鯨業は配船の優先度や設備投資などの面において何かと後回しにされがちであった。日本の捕鯨船団が他社船団との競争の結果、捕鯨に高度な生産技術を投入しはじめると、とても太刀打ち出来なくなったのである。

 そして一たび南氷洋捕鯨事業の採算が悪化すると、将来性に見切りをつけて次々と捕鯨母船を日本に売却、南氷洋捕鯨から撤退していったのである。


 日本の母船式捕鯨三社は捕獲枠の減少に対し、捕鯨母船を減船して船団を減らすことで対応してきたが、ここに至ってついに三社三船団の維持が不可能となった。各社は不採算部門に転落していた捕鯨部門を切り離し、さらに沿岸捕鯨三社を加えて日本の捕鯨業を集約した日本共同捕鯨を設立した。昭和51年(1976)春のことである。

 以後も捕鯨枠の削減は進み、昭和54年(1979)には北洋捕鯨から撤退、そして昭和61年(1986)を最後に南氷洋捕鯨からの撤退が決定された。



 昭和62年(1987)3月14日、第三日新丸率いる第四十二次南氷洋捕鯨船団が操業を終了し、帰国の途についた。この船団を最後に日本の南氷洋における母船式商業捕鯨の灯は消え、日の丸捕鯨船団は五十余年の歴史に幕を下ろした。



 遥か万里の彼方、南氷洋。かつて極光広がる南の果てで、祖国のために命を賭した幾多の人々の存在を、我々は記憶に留めておくべきであろう。


(了)




-***-


*1…1930/31年漁期において、南氷洋における総捕獲頭数37,438頭、鯨油生産量3,608,348バレルの記録があり、戦前戦後を通じて史上最高記録である。大戦中2年の休漁期間を挟んでも鯨資源は回復せず、戦後もさらに資源の減少が続くことになる。


*2…当時捕獲対象となっていたナガスクジラ等の大型ヒゲ鯨に関してであり、現在捕獲対象とされている小型ヒゲ鯨のミンククジラ等に関しては別に議論する余地がある。

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