第一章 食料戦士の名の下に 2.蛋白源を確保せよ(3)

3.氷海での闘い

 こうして両社共、出漁の期限までに何とか捕鯨船団を仕立てることが出来た。慌しく出港準備が行なわれ、母船が竣工してからそれぞれわずか3週間という驚異的なスピードで出港にまで漕ぎつけた。


 盛大な壮行会が催され、11月7日に捕鯨母船橋立丸、塩蔵工船多度津丸他からなる日水の橋立丸船団が大阪を、11月18日には捕鯨母船第一日新丸、塩蔵工船天洋丸、捕鯨船5隻他計9隻からなる大洋の日新丸船団が母港長崎を、相次いで南氷洋を目指し出港していった。

 それぞれの港には船団乗組員の家族や一般市民数千人が集まり、満艦飾の船団を見送った。船団に並走する紅白の幔幕をまとった見送りの船からは、万歳の声援と「蛍の光」、そして振られるハンカチの波が送られた。これらの船にはキャバレーのホステスや花街の女性まで乗船していたという。


 敗戦国日本の希望の星は、焼け跡から復興再建への期待と意気込みを背負って勇躍日本を発ったものの、にわか仕立ての悲しさ、船団にはたちまち問題が続出する。


 まず、日新丸船団の母船第一日新丸が、出航後一昼夜にして主機減速ギヤの軸受ベアリングを焼損し、長崎に帰る羽目になった。三菱長崎造船所の岸壁で修理を行い、2日後の22日に改めて南氷洋に向けて出港している。さらに、日新丸船団の塩蔵工船天洋丸も20日に二号主缶の空気予熱器のダンパーを焼損し、6日後にフィリピン沖から引き返してこちらも一週間ほど三菱長崎のお世話になっている。この時上陸の希望者は皆無であったというが、無理もないことであろう。天洋丸が再び出港できたのは12月5日になってからのことである。

 同じく大洋に所属する二十二号ディーゼルを装備した捕鯨船。主として東北地方からそれぞれの母港を出港し、洋上で母船に合流を果たしたものの、こちらは工作不良か、低質な燃料油と潤滑油か、はたまた取り扱いが悪いのか、頻繁に故障を起こして洋上修理を繰り返し、ただでさえ鈍足な船団の船足は一層鈍ることになる。


 こうして南氷洋までの航海に手間取っているうちに、ひげ鯨の解禁日(12月8日)を過ぎてしまった。当時、日本は国際捕鯨条約に加盟していなかったものの、他国の捕鯨船団に遅れをとったことになる。故障続きで手間取った大洋の日新丸船団が漁場に到着したのは、解禁日から半月遅れの12月23日であった。日水の橋立丸はまだしも順調で、15日に到着してすでに操業を始めている。

 出足につまづきこそあったものの、ここに記念すべき戦後第1回目の南氷洋捕鯨が開始されたのである。日本ではこの年の南氷洋捕鯨を一次として第何次南氷洋捕鯨(南鯨)という表現をするが、これは日本独自のものであり、世界的には1946/47年漁期と表記する。この年は他にノルウェー、イギリス、オランダ、ソビエトなどが南氷洋の母船式捕鯨に出漁している。


 日本の戦前と戦後の南氷洋捕鯨における大きな違いは、戦前は沿岸捕鯨との競合を避けるため許可されたもの以外は鯨肉の国内持込みが禁止されており(*5)、欧米式捕鯨と同様に鯨油の採取のみを目的としていたが、戦後は蛋白質供給のため鯨肉を塩蔵又は冷凍し日本まで運搬するという、新しい油肉併用方式を始めたことである。戦後も欧米諸国が採油コスト高を理由として、脂肪分の少ない赤肉を海中投棄していたのと対照的であり、これが後に南氷洋捕鯨船団の経営面において、欧米諸国との決定的な差となって現れてくるのである。


 しかし、時は未だ敗戦の翌年である。母船の欠陥は南氷洋で再び露呈した。大洋船団の日新丸では、パイプの接手やバルブで完全に締まるものがなく、ウィンチや暖房の蒸気が通りっぱなしになったり、随所で蒸気が漏れ放題になっていた。母船の船内工場では、鯨の骨や内臓など食用に適さない部分をクワナーボイラーに投入して鯨油を採取するのだが、蒸気を大量に使うため、製油工場が稼動し始めた途端に母船の速度は3ノットまで低下した。仕方がないので6基のうち半分の3基を止め、ようやく6ノットで走ったという。

 さらに、操業開始3日目にして圧力の落ちた主缶にクワナーボイラーの鯨油が逆流する事故まで起きている。日新丸はこの修理が終わるまで2昼夜に及ぶ休漁を余儀なくされた。ちなみに、橋立丸は日新丸が漁場に到着した翌日に同じ事故を起こしており、注意するよう連絡を受けた矢先の出来事だった。

 機関自体の故障も頻発していたらしく、船団長は機関長が近くに来る度に「また事故か」と冷や汗が出たという。なんとも頼りない母船達である。


 「5年も10年も使うような船には、今の手持ち材料ではとても無理だ」 造船所の技師が語っていた言葉は真実だった。


-***-


*5…1939/40年漁期(戦前第六次南氷洋捕鯨)より許可が下りたが、この年の鯨肉の生産量は6船団を合計しても戦後第一次南氷洋捕鯨の2船団の4割弱に過ぎない。戦前南氷洋捕鯨最後の年となる翌1940/41年漁期では6割程度まで増加するが、第二次世界大戦勃発による食糧不足のためであろう。当時、南氷洋から日本まで鯨肉を持ち帰る保存技術がなかったこともその理由である。

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