第一章 食料戦士の名の下に 2.蛋白源を確保せよ(2)

2.捕鯨船団復興

 出漁にあたって、一番の問題となるのは母船の調達である。戦前日本にあった捕鯨母船6隻はいずれもタンカーとして徴用され、戦火の中ですべて海の藻屑と消え去った。今から新造船を作る時間はない。もしあったとしても、資材がない。母船に適した大型のタンカーを改装するのが最良の策であるが、開戦時に就航していた大型油槽船42隻のうち、無事終戦を迎えることが出来たのは船齢17年のさんぢゑご丸(7,269t)ただ一隻であった。残るは戦争中に建造された戦時標準船(*1)である。


 それより前の昭和20年10月20日、GHQが敗戦で工事が止まっていた戦標船の建造続行を指示し、翌年1月には建造中止となっていた戦時標準船の建造工事の続行許可が発令されていた。


 大洋は三菱重工長崎造船所で建造中工事中止の状態で原爆に遭い、船台上に放置されていた3TLの型大攬(だいらん)丸を購入、製油工場設備を除いて6,291万円という大金を投じて改装した。同船は新契約建造第1350番船として進水し、昭和21年10月15日完成、捕鯨母船第一日新丸となった。3TLは元々主機関に出力1万馬力の蒸気タービンを搭載する設計であったが、どこでどう間違ったのか三菱では5千馬力ということになっており、大洋が気づいたときにはすでに出来上がっていて手遅れだった、という逸話がある(*2)。

 主な改装部分としては、船尾にスリップウェイを開口し、原型である油槽船の上甲板上にもう一層甲板を新設して製油工場を設け、その上を解剖甲板とした。もっとも、この解剖甲板は全体に渡って歪みが多かったという。船体前後部に新たに作業員の居住区画が設けられたこともあって総トン数はかなり増加し、喫水が1メートル余り深くなって復元性能が悪化したため、数百トンの固定バラストを搭載して調節した。それでもなおGM値は大きい方ではなかったが、乗り心地がよいと評判の船ではあったようだ。


 日水は自社所有船の1TL型橋立丸を捕鯨母船に改装することを決定した。同船は昭和20年1月に台湾で爆撃を受け大破、大阪に回航して繋留されたまま終戦を迎えており、日立造船桜島工場で捕鯨母船への改装工事に着手した。

 しかし、同船は右舷の4番油槽付近に直撃弾を受けており、被弾箇所付近の船腹は膨らんで甲板は波打ち、縦隔壁は跡形もなく吹き飛んでいた。さらに機関室は火災で全焼、船底は座礁のため全面に渡って損傷、おまけに船体が斜めにねじれているという有様であった。

 この半ば廃船同様の船をわずか5ヶ月の工期で母船へ改装するため、工事の内容は必要最小限にとどめられ、第一日新丸に比べて解剖甲板の面積も小さく、船内工場の設備も貧弱ながら、10月21日にはどうにか完成に漕ぎ着けた。


 両母船の建造は突貫工事で行なわれた。11月初めには出港しないと南氷洋捕鯨の漁期に間に合わない。許可が下りてからの期間はわずか3ヶ月である。

 しかし、造船所も戦争中の爆撃で被害を受けており、満足な食糧の配給もない工員たちは生彩を欠き、一向に仕事がはかどらない。インフレと低賃金のため、三菱長崎では随所に赤旗が翻っていたようだ。造船所のある長崎県や大阪府に米の特別配給を要請したり、工員達に支給する夜食を手に入れるため、漁船で魚を東北まで運んで米と交換するなどの非合法手段も行なわれた。時には「進駐軍命令」という超法規措置も動員し、なんとか完成に漕ぎつけた。


 捕鯨船団は鯨を解体し各種製品に加工する捕鯨母船の他、鯨を発見し捕獲する捕鯨船、母船から運ばれてくる鯨肉を加工・保存処理する塩蔵/冷凍工船、処理された鯨肉製品を持ち帰る中積運搬船、往航には船団の燃料油、復航には鯨油を運搬する中積油槽船などから構成されている。これらもほぼすべてが戦争で失われているため、新たに調達する必要があった。一番手っ取り早いのは現存する船、つまりは戦標船からの改装である。


 第一日新丸と同じく三菱長崎で建造中、艤装段階で原爆に遭遇し放置されていた3TL型ひらど丸は、新契約建造第1351番船として大洋の塩蔵工船天洋丸に生まれ変わった。購入価格は650万円であったが、その倍近い1,200万円を投じての改装である。なお、こちらは間違いなく1万馬力の能力を持つ蒸気タービンが主機として据え付けられたが、翌年主缶1基を取り外して第一日新丸へ移設したので、結局やはり5千馬力になったという逸話がある(*2)。

 同じく神戸川崎造船所で建造中、艤装段階で工事中止となり放置されていた1TL型多度津丸は竣工後日水に売却され、塩蔵工船となった。こうして2隻共に第一次南氷洋捕鯨船団に加わっている。


 堪航性の高さを買われ、そのほとんどが特設駆潜艇として徴用された捕鯨船は、戦争中に多数が沈没または行方不明となり、終戦まで生き残ることが出来たものは僅かであった。これを補充するため日水は350t型、大洋は300t型と呼ばれる捕鯨船をそれぞれ1隻及び6隻発注し、川崎、三井、三菱神戸などの造船所が建造を担当した。

 日水、大洋共に、当時三井造船所が在庫として持っていた潜水艦用二二号ディーゼルを1台50万円で払い下げを受け、定格2,100馬力から1,600馬力にスペックダウンして主機に使用することとした(*3)。これに残存船も加えて日水は5隻、大洋は6隻が捕鯨船団に参加した。

 こちらでも工員達の食料を調達するため、近海捕鯨で取った鯨と米を物々交換し、いわゆる「闇米」を造船所に運び込んだこともあった。


 乗組員や作業員(*4)には事欠かなかった。戦争で乗るべき船を失った船員や漁船員はいくらでもいた。職にありつくのさえ難しい時代、鯨の解体作業に従事する作業員の募集には応募者が殺到して、南氷洋に行くには捕鯨関係者に米1俵くらいの袖の下が必要、との真偽の定かでない噂が流れていた。

 国家的事業である捕鯨船団は、農林省をはじめ大蔵、商工、運輸、厚生各省が全面的に支援し、当時の食料不足と物資欠乏の中、主食は航海中は1人1日5合5勺(約825g)、操業中は8合(約1,200g)の米換算率で配給された。当時の米の配給量が2合3勺であったのと比較されたい。さらに、1ヵ月あたり砂糖2斤(1.2kg)と酒1升、1日あたりタバコ10本が特別配給になった。衣類は船舶工兵のものが支給された。捕鯨船団に参加すれば米の飯が食べ放題、これを目的に乗船したものもいたという。

 そして何より、金銭的な実入りが大きかった。捕鯨船団に参加すると、月給、諸手当以外に歩合金という生産トン数に基づく手当が支給される。その金額だけでも母船の下級士官で約16万円、作業員で約10万円というものであった。当時最も額面の大きい紙幣は百円札であったから、10万円ともなるとその厚さは10cmを超える。当時はインフレの真っ只中であったが、20万円あれば大都市の市街地に庭付の一戸建が買えた時代である。




-***-


*1…戦時標準船とは、太平洋戦争における船舶需要の増加に伴って、統一規格で船舶を建造することによって生産性の向上を図ったものである。特に後期に計画されたものは短い工期と少ない資材で隻数を確保することが重要視されたため、速力や耐用年数の低下を忍んで構造や艤装が大幅に簡易化されていた。


*2…この2つの逸話は裏が取れていないが、後者のうち少なくとも『第一次南氷洋捕鯨後、天洋丸から21号水管缶改を1基陸揚げ整備し、第一日新丸に移設した』のは事実であるようだ。

 3TLは21号水管缶2基/蒸気タービン1基1軸/10,000HP/19.0kt(最大)が標準仕様である。戦後どのような改設計が行われたかは定かでないが、昭和30年の日本船舶明細書には第一日新丸(錦城丸)が水管缶3基/円缶1基、天洋丸が水管缶2基で登録されている。

 ただ、「天洋丸の主缶半分を転用した」ので5,000HPになったとの記述もあり、これに順ずると天洋丸は2基のうちの1基を供出したことになるが、整合性がとれなくなる。一般配置図も調査したが、詳細は現在のところ不明。


*3…当時捕鯨船に適当な舶用中速ディーゼルが他になく、旧海軍の二二号十型や二三号八型などが搭載された。よほど不調に悩まされたのであろうか、後に機関換装工事を行なっている船も多い(単に速力の強化を図ったという見方も出来るが)。

 なお、参考までに二二号十型は10気筒単動4サイクルディーゼルで、主として戦時建造の潜水艦の主機として用いられた。出力は2,350hp(高過給)~1,850hp(無過給)。


*4…母船/工船上で鯨の解体や鯨肉の加工などの作業に従事する人員のこと。当初は季節労働者扱いだったが、大洋では組合が組織されると職員に昇格して事業職員と称するようになった。

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