第44話 黄昏 ⅰ

 大フチン号が沈んでから半月ほど経ったその日、ユーリイは引っ越すために自宅のマンションを出た。10年以上も住み続けた、心地よいマンションだった。その心地よさを放棄するのが贖罪しょくざいであり、新たな政府に対する支援のつもりだった。


 首相に就任したヨシフは、世界に対してフチン政府の戦争責任を明確にし、国民へは彼らの不満を解消するために、イワンの全財産と閣僚の私財の大半を没収、公務員の賃金を減額して戦後賠償の一部に充てると発表、実行に移していた。それは、イワンと共に不正蓄財に走った資産家や企業へも同様だった。そうした人物や企業を、ヨシフほどよく知る人間はなく、公正な措置が期待できた。


 不正蓄財に走っていた者たちは、ヨシフに金品を送って見逃してもらおうとしたが、そうした面々は逆に厳しく罰せられた。


 そうした政策と活動にユーリイは、敗戦を機会にフチン共和国を作り変えようとするヨシフの意気込みを感じ、好もしくとらえていた。そこで少しでも彼の助けになればと、住み慣れたマンションや金融資産を国庫に寄付することにしたのだ。ユーリイがそうした行動に出れば、他の元政府高官たちも追随しなければならなくなるのも計算の上だ。そうしなければメディアによるバッシングにさらされるだろう。


 ユーリイがエントランスから出ると、周囲に集まっていた群衆の中から「売国奴!」という声と卵が投げつけられた。彼の顔は一部のメディアによって〝イワンと同じ穴のムジナ〟として、ここ数日で有名になっていた。彼は顔に向かって飛んできた卵を軽くキャッチしたが、別の方角から飛んできたものが肩にあたって割れた。生卵の中身が、どろりとジャケットを濡らした。


「食べ物を無駄にするな」


 ユーリイが一喝すると、再び卵が投げつけられた。


 彼らを撃ち殺すのは簡単だが、そうはしなかった。やむを得ず卵をひょいとかわして地下鉄の出入り口に向かって走った。


 地下鉄に乗っても、ユーリイは多くの乗客から注目をあびた。しかしそれは、イワンと同じ穴のムジナとしてではなく、生卵でジャケットを汚した哀れな老人としてだ。どれだけメディアが報じようと、国中の人間が皆、ユーリイを知っているわけではなかった。


「おじいさん、ジャケットが汚れているよ」


 教えてくれる若者がいた。中には、自分のハンカチで生卵をふき取ってくれる者さえいた。


「ありがとう」


 ユーリイはただ素直に感謝した。


 4駅目で地下鉄を降り、近くの商店街にあるチーズケーキが評判の菓子店に入った。


 戦争をしたとはいえ戦場は遠く、ユウケイの都市と違って建物は無傷だ。火薬や火災の匂いではなく、菓子の甘い匂いと音楽が満ちていた。戦後補償という莫大な負債を抱えたとはいえ、平和のありがたさを実感する。


「チーズケーキを四つ」


 名物のケーキを注文し、BGMを聞きながらケーキが箱に収められるのを待った。


 ――世界にはさまざまな肌の色の人間がいる。様々な髪の色の、瞳の色の者がいる。みんな、自分の色が好きで、自分の色が嫌いだ。だから僕は、全ての色の絵の具をパレットに置いた――


 それは、平和維持軍支援全国集会で国家を歌ったあのロックバンドの曲だった。彼らは今も若者に人気があって、平和を祈って戦え、と歌っていた。


 全ての色を置いたら、混じったそれは真っ黒になるな。……胸の内で突っ込みを入れながら代金を払った。


 再び地下鉄に乗り、郊外に向かった。5駅先の公営住宅にエリスが越している。そこを訪ねるつもりだった。


 駅を降りて公営住宅へ向かう。住宅街は人通りも少なく、貧しい者たちが常に獲物を狙っているような場所だった。


「よお、ジイサン。金を貸してくれよ」


 まだ大通りだというのに、フチン陸軍の制服姿の若者4人に進路をふさがれた。ひとりは片目に包帯を巻いている。


「帰還兵か?」


「ああ、戦争でこいつは片目になった。かわいそうだろう。治療費を貸してやってくれよ」


「お前たち、ユウケイでもこんな風に市民の命や財産を奪ってきたのか?」


 ユーリイは腹が立っていた。戦場に送り込まれたことにも負傷したことにも同情するが、おそらく普通の人間から見ればか弱い老人に見える自分から金品を奪おうという性根が気にくわない。


「何を偉そうに。誰のために戦争に行かされたと思っている。あんたのような老人に楽をさせるためだ。イワンがそうしたんだ。ここであんたが金を払うのは、全部、馬鹿な政治家の責任なんだよ」


 青年が真顔ですごんだ。


「自分たちがやって来たことを、他人の責任にすり替えるな。馬鹿な奴を政治家にしたのは、私やお前さんのような国民だ。そうして始めたのがユウケイ戦争だ。結果はどうあれ、国民として責任の一端は我々にもある」


「俺やあんたに、戦争が止められたか? 全部、あのイワンがやったことだ」


 道理を言っても、若者は理解しなかった。考えようとさえせず、感情に任せて迫ってくる。4人のうちの2人が左右に分かれてユーリイを取り囲んだ。


「あの戦争に反対した者以外、それを言う権利はないだろう」


 話しながら、ユーリイは彼等との間合いを計った。


「反対などできる状況になかった。俺たちが軍に入った時には、すでに戦争が始まっていたんだからな」


「いいや。私たち国民は知ろうとしなかった。ドミトリーがファシストだ、フチンは平和のために戦っているという、都合のいいニュースだけを信じて考えようとしなかった。……君たちのような若者の多くは、インターネットを通じて戦争が始まったことを知っていたし、街で抗議活動をする者もいた。彼らの声に耳を傾けようとしなかったのは、我々なのだよ。もしその時、君が彼らの言葉から真実の一部でも掘り返していたなら、もっと良い結末にたどり着いていたかもしれないのだ。被害者面をして現実から逃げるのは止めろ。いつまでも強盗のようなことをするわけにもいくまい。さっさと家に帰って軍服を脱げ。真っ当な仕事を探すのだ」


 すると、正面の若者が顔を赤くし、目尻をつり上げた。


うるさい!」


 彼が拳を振るう。


 ユーリイは頭を突き出した。拳の勢いがつく前にひたいで受け止めたのだ。


 ――ドゴン――


 ユーリイは鈍い音を聞いた。脳が揺れ、痛みもあったがえた。


「いてぇー」


 若者が拳をさすって後ずさる。


「敵の力さえ計れないから、ユウケイで負けたのだ」


 教えてやると、右側の若者が「年寄りのくせしやがって」と声を荒げた。そして、すかさず殴りかかってくる。


 ユーリイは、若者のパンチを右手の甲で受けた。彼が次のパンチを繰り出した。


「馬鹿者」


 パンチが届く前に、彼の腹に蹴りを入れた。


「このジジイ!……」背後にまわった別の青年が、ユーリイの首に太い腕を回した。「……殺してやる」


 ユーリイは、かかとで彼の足の甲を強く踏みつけた。そこには特別なツボがあって、そこを強く蹴られると死ぬ、と東洋では言われているらしい。


「グァ……」青年が悶絶する。


「この野郎!……」闘争本能に火がついた青年たちは諦めそうになかった。


「仕方のない奴らだ」


 ユーリイは片目の青年の蹴りをひらりとかわした瞬間に懐から銃を出して、リーダーらしい青年の額に狙いを定めた。


「動くな」


「ゲッ……」


 青年たちは魔法にでもかかったように硬直した。


「何度言ったらわかる。実力の差を理解しろ。さもないと死ぬことになるのだぞ」


 言ってから、ユーリイは自分の過ちに気づいた。


「……こんな風に、武器や暴力で命や自由を奪われるのは嫌だろう?……それがわかったら、消えろ」


 そう教えると、彼らは目と目をあわせてうなずきあい、風のように立ち去った。


「軍を止めても仕事がないか……」


 他国への無謀な侵攻で多くの世界企業がフチン共和国から撤退していた。一部の国内企業はその資産を使って市民を雇用しているが、それで開戦前の状況が戻るわけではなかった。逃げる若者らの背中に、イワンが築いた帝国の限界を見た気がした。

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