第43話 穏やかな海

 目の前にゴムボートがあって、差し伸べる親衛隊員の腕があった。ヨシフとユーリイは、彼に引き上げられた。


 ゼーゼーと喉が鳴り、胸が痛む。


 ゴムボートには6人乗っていた。小型のエンジンがうなり、それは海上を滑り出した。巨大な壁のような大フチン号が遠ざかる。


「助かった……」


 ヨシフの唇が安堵と寒さに震えた。生き残れたことを神とユーリイに感謝した。


 気持ちが落ち着いて頭を上げると、大フチン号の全貌が瞳に映った。


 船体は45度ほど傾斜しており、魚雷でできたであろう穴は水中にあって見えなかった。炎や黒煙もなく、船内で火災が発生している様子はない。


 沈まないのではないか? イワンが生き残ったら、どんな報復を受けるかわからない。……彼を見捨ててきたことが不安になった。


「もっと早くこうすべきだったのだろう。しかし、イワンは愛すべき友人だった。その感情が判断を誤らせた。ああもあっさり核のボタンを押せるとは……」


 背後でユーリイが言うのが聞こえた。彼はイワンの死を確信しているようだ。


 親衛隊員たちを乗せたゴムボートがヨシフの乗ったボートの周りに集まった。その中に、イワンとソフィアの姿はなかった。


「大統領はどこです?」「急いで助けなければ!」「大司教もいないぞ」


 数人の親衛隊員が救命ボートにイワンの姿がないことに気づいて騒ぎ出す。彼らはキャビンでの出来事を知らなかった。


「大統領は自らの意思で船に残られた。今は、ユーリイ様の指示に従え」


 隣につけたボートの親衛隊長が部下に命じ、ユーリイに向かって彼の無事を祝した。それを聞き、最初から彼もユーリイの仲間だったのだろうと推理した。それならそうと教えてくれたら無駄な気苦労をしなくて済んだのに、と不満に思う。


 多くの、特に若くイワンに心酔していた親衛隊員の顔は不満げに見えた。隊長の命令でも納得できないのだろう。すると、ユーリイが立ち上がった。


「大司教は私が撃った。核のボタンを独断で押したからだ」


 彼が黒いカバンを持ち上げて見せた。それだけで、親衛隊員たちの表情が変わった。核のカバンにはそれだけの権威があった。それから脱出者の関心は傾いた大フチン号に向かった。


「やはり、あのチップを抜いておいてよかった。よくやった、ヨシフ。君が世界を救ったのだ」


 自分の名が呼ばれたのを聞いて振り返ると、腰を下ろしたユーリイが悲しそうに大フチン号を見つめていた。


「いえ、ユーリイ様がメンテナンス管理者の暗号コードを手に入れたので、チップを取りはずせたのです」


 2人が話すチップというのは、黒いカバンの中の発信機に使われている暗号化の部品だった。それがなければ核兵器システムにとって、カバンから発信された通信はただのノイズにすぎない。


 数日前、ユーリイから連絡があり、それを抜き取るように依頼された。ヨシフは、を熟慮したうえで彼に従うことに決め、イワンの地下シェルターの設備の点検時にチップを抜き取った。作業は単純だったが、メンテナンス管理者の暗号コードを知らなければできないことだった。


「君は世界を核戦争から救った英雄だ。しかし、今日のことは君の胸にとどめておいて欲しい。ボタンが押された事実を知られたら、世界はフチン共和国を信じなくなるだろう。いや、すでに信じられていないが、国民のために、これ以上、国の信用を落としたくない」


 ユーリイの話を聞くヨシフは、彼が核のカバンを手放さなかった理由に思い至った。反抗的な親衛隊員を黙らせるためだけに、わざわざ持ち出したのではないということだ。カバンはあのチップを装着すれば再び使用可能になる。彼が、それを私物化する可能性が頭を過った。


「わかっています。本当に怖いものは何か……、それが平和や未来を失うことだと知りました。ご承知のように、私にも娘がいます。子供たちに放射能に汚染された世界を残したくはありません」


「その通りだ。英雄の名誉を諦めてもらうことになるが、ピエールが別な褒美ほうびを用意してくれるだろう」


「ピエール?……首相もユーリイ様の仲間だったのですか?」


「もちろんだ。閣僚の半分は、こうなることに同意していたよ」


「それでは、チェルク軍が戦場を離脱したのや、国営放送が事実を放送しだしたのも……」


「ミカエルやドルニトリーの協力があってこそ、といえるな。まあ、決して積極的なものではなかったが」


「どうして今まで教えていただけなかったのです?」


「誰が敵で誰が味方か……。そうした噂が先行するのは危険だ」


「そうでしたか……」


 今回の件は、ユーリイが画策したクーデターだ、とヨシフは理解した。食えない男だ、と恐ろしく思った。


「ひとつ、尋ねても……」


 勇気を振り絞って尋ねることにした。


「なんだね?」


「どうしてそのカバンを……。もう役に立たないのでは?」


 あえて、そんな訊き方をした。


「君が抜き取った部品は、まだここにある……」


 ユーリイがポケットから小さなチップを取り出して見せた。


 やはり、とヨシフは思った。すると彼が気持ちを読んだように応じた。「……君が言いたいことはわかった」と。


「こんな物……」と小さく言って、ユーリイはチップを海に放った。が、カバンそのものは捨てなかった。


「……これには、まだ使い道がある」


 彼が少年のような笑みを作った。


 その時、「船が沈むぞ!」と親衛隊員たちが騒いだ。


 横倒しになった大フチン号が、重い船尾から沈み始めた。やがて船体は、塔のように海面に直立する。


「大統領とソフィアは、どうして逃げなかったのでしょうか?」


 ヨシフの疑問に答える者はいなかった。


 大フチン号の周囲に大きな渦が生じていた。海が、船を海底に向かって引きずり込んでいるように見えた。船首が海中に没すると、親衛隊員の中からため息がこぼれ、ある者は渦に向かって敬礼した。


「遭難信号は発しましたが、迎えが来るまでは時間がかかるでしょう」


 親衛隊長がユーリイに向かって言った。


「いや、もうそこまで来ているよ」


 ユーリイが振り返る。親衛隊員たちが彼の視線を追った。ヨシフも彼らが見る場所に眼をやった。


 海面が生き物のように盛り上がっていた。クジラか、と思ったが、現れたのはフチン海軍の潜水艦だった。その艦が、大フチン号を沈めたのに違いなかった。


 恐ろしい人だ。……ヨシフは、ユーリイの穏やかな横顔に眼をやった。


 浮上した潜水艦が作る波に、ゴムボートが揺れた。


「オーイ」


 親衛隊員たちは手を振り、速度を落とす潜水艦に向かってゴムボートを進めた。


 その日の夕方、潜水艦基地に上陸したヨシフはピエールに呼び出された。ユーリイはピエールが褒美をくれるだろうと話していたが、それにしては早すぎる。……ヨシフは首をかしげた。


 ヨシフは、大臣らに陰で狐と呼ばれ、嫌われていることを知っていた。イワンが死んだのをいいことに、何らかの責任を追及されるのではないか? それもまた、ユーリイの計画の一部ではないか?……彼を疑った。


 ユーリイやピエールに対する不信があるとはいえ、イワンが亡くなった今、ピエールがこの国の最高権威だ。彼の命令を拒むことはできない。指示通り、首相執務室を訪ねた。


「お帰りなさい、ヨシフ。今日はお疲れ様でした。まぁ、そこに……、すぐに終わらせます」


 机の前に座っていた彼に勧められてソファーに掛けた。


 ピエールが執務する様子は、それまで見てきた彼と違って見えた。イワンがいる時には背中を丸めて存在感を消していたが、今は堂々としている。どちらが本当の彼なのか、知りたくて仕事をする彼に声をかけた。


「あなたがクーデターを考えていたとは驚きです」


「すべてユーリイの計画だよ……」


「もちろんそれはわかっているつもりです。しかし、彼の計画にあなたは同意した」


「なるほど……」


 ピエールが立ち上がり、ヨシフの前に移動した。


「……しかし、クーデターに加担したという点では、ヨシフも同罪だよ」


 ピエールが口角をあげた。


「はい。あなたもユーリイの仲間だと聞かされた時には、まさか、と腰が抜けそうでした」


「彼が言っていたよ。誰が仲間か、敵か、知らない方が安全だということらしい。彼にとっても、我々にとっても」


「なるほど。諜報員らしい……。それで、ご用件は?」


 もてあそばれているようで、ヨシフの心は穏やかでなかった。ユーリイの足元にも及ばないとわかっていても敵愾心てきがいしんが頭をもたげた。


「まあ、そういきり立つな。イワンがいなくなっても、君にはこれからも働いてもらわなければならない」


「私に何をしろと?」


「大統領が亡き今、政府の規定によって、私が臨時に大統領代行に就任する。そこで空席になる首相の椅子に、君に座って欲しい」


 ピエールは、さっきまで自分が座っていた席を目で指した。


「私が首相に?……」それが、ユーリイが話していた褒美ということだろう。「……しかし、私はただの秘書官です。大臣の皆さんが、イワンの狐と笑っておられた……」


「まあ、まあ……」ピエールが苦笑した。「……だからこそ、だ。君はイワンの仕事を全て見ていた。この国のことなら何でも知っている。政治も経済も、そしてそれらが抱えた欠点も……。君ほど首相にうってつけの人材はいない。もっとも、次の大統領が決まるまでのことだが」


 褒美というほど、首相の椅子は快適な場所ではなさそうだ。……ヨシフは困惑した。


「私は政治家ではありません。国の舵取りなど……」


「……君が政治家ではないからこそ、政府や議会に対する国民の不信感をぬぐうことができる。……ということらしい」


「らしい?」


「ユーリイがそう言っていた」


 ピエールが口角をあげた。


 なるほど、褒美はユーリイの推薦らしい。……彼への敵愾心が泡のように弾けた。


「これをユーリイ様から預かってきました。大統領閣下の持ち物です」


 ヨシフはあの黒いカバンをピエールに差し出した。


「ほう……」


 カバンを手にした彼は、感慨深げにそれに眼をやった。


 そのカバンは、核の発射装置としては機能しない状態だったが、そのことはピエールには話すな、とユーリイに言い含められていた。「二人だけの秘密だ」潜水艦を降りた時、その言葉と共にカバンを預けられたのだ。


 翌日、フチン政府は、大フチン号が沈没し、そこで病気療養していたイワンが友人の大司教と共に死亡、事故海域は深く遺体の回収は不可能、と発表した。


 同時に、ピエールは大統領代行に就任し、ヨシフを首相に指名、彼の手によってユウケイ民主国との平和条約交渉と戦後補償交渉を進めるとした。


 それらの発表によってフチン社会が震撼した。数日前からメディアが戦場の真実を報じていたとはいえ、多くの国民はいまだにイワン大統領に心酔していたし、自分の国が隣国に侵攻していたという事実も受け止めきれずにいたのだ。


 ピエールがユウケイ民主国に対して軍の撤退を通知し、ヨシフが平和条約交渉に入ると、前線の戦闘はぴたりと止んだ。


 ほどなくフチン共和国に対する各国の経済制裁は解除され、経済活動が回復の動きを示した。が、喜ぶ者は少なかった。戦後補償という莫大な負担と、戦争によって失われた兵隊の家族の悲しみや憤りは、都市の景色を色褪せさせていた。


 イワンの死で自由度を増したメディアは、まるで報復のように、イワンと彼の周囲で権力と利益を享受した政治家や資産家、企業のバッシングに熱を上げた。そうした者たちの中にユーリイの名前も挙がっていた。


 報道によって、イワンが率いた政府に自分たちは騙され続けてきた、と自覚した国民が変わった。愛国者から、悪政の被害者という認識と感情に……。彼らは憤り、非難し、あるいはなげいた。


 ピエールは、大統領選挙を告示した。イワンが他界した今、彼が戦争責任を取る形で古い政治体制を刷新する必要があった。大統領選挙には20名を超える有象無象うぞうむぞうの立候補者があった。彼らの多くは、イワンの後釜に座り、利権を貪ろうとしていた。

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