第39話 ラプソディー・イン・ブルー
――ウフフフフ……、アハハハハ――
声が大きくなるのを抑えられない。このまま正気を失い、何もかもわからなくなってしまったら、どれだけ楽だろう。……エリスは心で泣いた。
「どうしたの? 大きな声で笑って……」
戻ってきたマリアがドアの前で驚いていた。
「だって……」
明日には世界が終わるかもしれないと説明した。
「そうなんだ……」
マリアは知っていたのだろうか?……とても落ち着いて見えた。
「……まあ、どうなるかわからないけれど、今晩は家族で最後の晩餐にしましょう」
「最後の晩餐って、どういうこと?」
問い質すと、「気が変わったわ」と彼女が応じた。
「パパが世界を終わらせるなら、私はここを出ていく。その前に、お茶にしましょう」
彼女が昨日買ってきたチーズケーキの箱を持ち上げた。大切な物として持ってきたのは、それだけだった。
「紅茶でいいわね……」と、彼女がキッチンへ向かった。
良い子に育ったわ。……マリアの背中を見てほっとする。美味しいケーキとお茶があれば、私の人生に核兵器はいらない。何よりも、子供たちを守りたい、と思った。
エリスは静かに立ち上がり、マリアが紅茶を
「どうして外にいるの?」
「執務中、大統領は、この中には誰もお入れになりません」
彼が
「まあ……」
ヨシフのことまで信用していないのだと思うと、イワンが憎らしくなった。
「もちろん、呼ばれれば入りますが」
彼が取り繕うように付け加えた。
「何をしているのか、
「はあ……」
ヨシフは困惑の表情を浮かべたものの、制することはなかった。
鍵がかかっている可能性を考えながら、エリスはドアノブに手を掛けた。
それは動いた。ドアをそっと押すと、隙間から音楽が流れ出してきた。百年ほど前に作曲されたラプソディー・イン・ブルーだ。
隙間を広げ、室内を覗く。イワンの背中があった。彼は壁に並んだ機械に向かってじっとしていた。大きなディスプレーに数字が並んでいる。それは遠目にも読めた。
「何の数字?」
声を押し殺して背後のヨシフに訊いた。彼も室内に眼をやっていた。
「アクセスコードと作戦コードです」
耳元でささやくような声がした。
「核兵器の?」
エリスにも、大統領と国防大臣、参謀本部長の内の2人が核兵器の発射命令ボタンを押せば、核兵器を使用した特殊作戦が発動するという程度の知識はあった。建前は3人が別々のボタンを押すことになっているが、ほとんどの場合、イワンの側にはふたつのボタンがそろっていて、単独で特殊作戦を発動することができるということも。
「はい。コードを入力しただけで、まだ、送信ボタンは押していないようです」
ヨシフの声に安堵の色があった。
イワンは自分の言葉に縛られている。……エリスは察した。ラプソディー・イン・ブルーは作曲が依頼されたという新聞の偽記事が発端で、実際に作曲されることになった
エリスはドアを押して書斎に足を踏み入れた。それをヨシフは止めなかった。彼も核戦争を望んではいないのだ。
「予告では、明日ではないのですか?」
声をかけるとイワンの背中がビクンと伸びた。
「ここには入るなと言ってあるだろう。男の仕事を邪魔するな」
彼は無表情を作っていた。
「その男の仕事に、女の命もかかっているのです。意見を言う権利ぐらいはあるでしょう。マリアがお茶の準備をしています。美味しいチーズケーキも用意しています。せっかくだからいただきましょうよ」
「今ならドミトリーを確実に
彼は再び壁の機械に向かい、パネルのボタンに手を伸ばした。
「イワン、いけません」
彼は度々嘘をつく。それは目的を達成するためだ。それで容認してきた。が、嘘で人類を滅ぼすのはだめだと思った。エリスはポシェットの中から拳銃を出して引き金を引いた。
――ドゥン――
炸裂音と同時に、数字が並んでいたディスプレーに穴が開いて光が消えた。
「エリス……」
振り返ったイワンの瞳は灰色の大きな穴のようだった。
拳銃を構えた腕はジンジンと痺れた。燃えた火薬の匂いが鼻に突いた。
「裏切るのか……」
イワンの声がラプソディー・イン・ブルーに溶けて消える。
「裏切り続けてきたのはあなたですよ。どれだけ私をバカにするつもりです」
「お前のために起こした戦いだぞ」
「イワン、あなた自身のためですよ。私の出自を消すために、真っ先にミールを攻撃し、兄とその家族を殺した。私が何も知らないと思っているのですか!」
イワンが目を細め「ユーリイか」とつぶやいた。
「あなたは祖国を裏切ったのです。あなたの祖国と私の祖国、あれほど愛していた祖国を、ふたつとも壊してしまった」
「ふたつの国をひとつにして再生するのだ」
イワンが立ち上がった。
エリスは、彼に向けた拳銃を下ろさなかった。近づいたら撃つ覚悟を決めていた。
「あなたが核兵器を使うのなら、マリアはシェルターから出ていくと言っているわ。その意味、わかるでしょ?」
「そんな馬鹿な……」
そう口にしたものの、イワンの表情は変わらなかった。
「この家から出ていって。私の居場所で核のボタンを押すのは許さないわ」
拳銃を構え直し、威嚇した。
「わかった。撃つな」
彼は両手を胸の前で広げて見せた。
「船に行くぞ」
イワンはヨシフに告げてドアを開けた。ヨシフが申し訳なさそうな微妙な表情をエリスに向け、黒いカバンを手にしてイワンを追った。
ひとり残ったエリスは、その場に泣き崩れた。
ラプソディー・イン・ブルーが終わり、再び曲の頭から始まった。曲が中ほどになったころマリアがやって来て、「パパは?」と訊いた。
「出ていったわ」
彼女を抱きしめ、エリスは泣いた。世界が終わる前に、溶けて消え去りたいと思った。
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