第38話 カウントダウン

 エリスが催促すると、イワンがホッと息をついてから口を開いた。


「一昨日まで国営放送が報じていたのは、あるべき世界だ。政府の指導、いや、規制に従っていたのだ。多くのフチン国民は、そこで幸せを享受できた」


「今、報じられているのは?」


「現実だ。腐った人類の世紀末の世界だ。メディアまで政府の方針に反抗している」


「そこがわからないのよ。どうしてメディアが反抗しているの? どうして今が世紀末なの?」


 イワンの表情が深刻なものに変わっていた。


「メディアが政府の統制に従わないのは……、それはむしろエリスのほうが知っているのではないかな?」


「私が?……なにも知りませんよ」


 エリスはただ驚いた。


「そうか……」イワンがちいさくうなずいた。「……私は今、命をかけて失地回復に全力を費やしている。すべてフチン共和国とフチン人のためだ。成功すれば、フチンに豊穣ほうじょうの世紀がやってくる。今が分水嶺ぶんすいれいだ。誤った峰を越えれば、我々は大海の一滴と化す。ライス民主共和国と東亜大公国が世界を二分し、フチン人は祖国を失うだろう」


「大使館を辞めた時と同じなのね」


 エリスには、政治的なことはわからなくても、彼の気持ちだけは理解できるような気がした。


「そうだ。わかってくれ、エリス、マリア」


「私はわからないわ……」


 マリアが厳しい口調で言った。


「……大国の座を失うのが面白くないから一か八かの戦争を始めたということでしょ」


「マリア……」


 イワンが苦悩の表情を浮かべ首を振った。


「……諜報部の見立てでは、ドミトリーは政権を明け渡して国外逃亡するはずだった」


「それがユウケイ民主国を狙った理由?」


 マリアが迫った時、ヨシフが戻ってきて、設備に不具合がないことを報告した。


「そうか」


 イワンが応じ、彼女に向いた。


「議論している時間はない。私には仕事が残っているのだ」


 そう告げて立ち上がるそぶりを示した。


「核を使うのでしょ? そうしたら、人類は滅びるかもしれない。パパに人類を裁く権利なんてないわよ」


 マリアが食い下がる。


「もちろんそうさ。裁くのは神だ」


「パパって、そんなに信心深かった?」


 彼女は、呆れたように冷笑を浮かべる。


「歳をとったらマリアにもわかるさ」


「歳をとった私にもわからないわ」


 エリスが言うと、イワンの顔から表情が消えた。


「……イワンが戦争を始めたのは理解できる。勝つために核兵器を使いたいというのもわかる。でも、人類が滅びてもいいだなんて、傲慢にすぎるわ。そんなことをして、あなたの大好きなソフィアが死んでもいいというの?」


 エリスは、人生を共にしてきたイワンと死んでも構わないと思っていた。が、核兵器を使って美しい地球をミールのように破壊し、子供たちの未来を奪うのは許せなかった。ソフィアを持ち出したのは、精一杯の嫌味だ。


「ソフィアはシェルターにいるよ」


 イワンの返事は、エリスの気持ちが伝わらなかったことを示していた。


「パパは気にいった人間だけを生き残らせようとしているのね。でも、世界が核で焼き払われた後、パパの食べるパンは誰が焼くの? 牛は誰が育てるの?」


「それは生き残った人間だよ。マリアは人類が滅びるというが、自然の復元力を甘く見てはいけない。全面的な核戦争になったとしても、神はいくばくかの人間や動植物を地球上に残すだろう。それらの者たちによって、新たな世界が復活する。その時まで私たちは生き残る……」


 イワンが十字を切った。


「……書斎で最後の仕事がある。」


 彼はそう言って立ち上がった。その背中に向かって「イカレテル」とマリアがつぶやいた。


 イワンが出て言った後、無機質なリビングに残されたエリスとマリアは放心状態だった。


 しばらくしてから、エリスはやっとの思いで口を利いた。


「困ったわね」


 そう言ったものの、何に困っているのか、エリス自身が言葉にできなかった。


「パパの名前が未来の歴史の教科書に残るのね。人類を絶滅させかけた愚かな大統領として……」


「マリア、そんな風に言うものではないわ。父親なのよ」


 エリスはいさめた。


「だからよ。そんな人の血をひいているなんて……。残念だわ」


〝血〟という言葉に脳が刺激されたのだろう。ふと、イワンがミールを破壊した理由を思いついた。


「確かにイワンは、自分の名前を歴史に残そうとしているのかもしれないわね。大フチン帝国の後継者、大フチン民族の救世主として……」


「ママ、どういうこと?」


 怪しむマリアの顔は、父親によく似ていた。


「ユーリイに教えられたわ。イワンは今の権力に飽き足らず、死後もその影響力を持とうとしているって……。自分を伝説化しようと試みているのだけど、そのためには私がユウケイ人であることが問題らしいのね。離婚もそのためだろうって」


「パパが保守的な愛国者だと理解していたつもりだけど、そんな差別主義者なの?」


「そう考えれば、アテナが処刑されたことも理由がつくわ。特殊部隊のヘリを落としたのが問題ではなく、ミール出身者が英雄視されたのが問題なのよ」


「それじゃ、私がママの娘だということも問題だというわけね」


 マリアが苦笑した。


「イワンは情報を書き換えて、あなたを純血のフチン人にすると思うわ。もしかしたら、もう変わっているかもしれないわね」


 戦争を起こし、核兵器まで使って様々な証拠を消し去ったところで、マリアがユウケイ人の血を引く者であることは変わらない。そんなこともイワンはわからなくなってしまったのだろうか……。話す間にも、エリスの中の闇が深まった。


「今日が最後の晩餐ばんさんになるかもしれないわね。ママも大切な物、取りに上がる?」


 隣のマリアが立つとソファーが弾んだ。


 大切な物、何だろう?……エリスは思いつかず首を振った。


「そう……」


 マリアがするりとドアの向こうに消える。


 エリスはテレビをつけた。それに地上の世界が映っている限り、地上は無事なのに違いない。映ったのは、世界中の人々がフチン大使館の前で開く抗議集会の様子だった。都会で、農村で、戦争反対を叫ぶデモ行進があった。


『……ドミトリー大統領のメッセージが世界各国首脳やメディアに届き、世界中の人々を震撼しんかんさせ、世界中で抗議行動や暴動が発生しているのです』


 アナウンサーが、冷静に解説していた。


 テレビには、ガラスドアを打ち破ってスーパーマーケットに強奪に入る群衆があった。人の住まない山岳地帯に向かい、森を分け入る避難民の姿もあった。


 イワンが拳銃を持ち歩けといった意味が実感できた。画面にあるような暴徒が、この家にも来るのかもしれない。あるいは避難民が、この地下室に入れろと迫るのかもしれない。ポシェットの中の拳銃が重みを増した。


 ユウケイの大統領が何を話したというのだろう。そんなもの核兵器の前には紙切れのようなものなのに……。


 ほどなく、無精ひげの伸びた疲れた顔が大写しになった。ドミトリーの顔だ。


『……3日以内に我が国が降伏しなければ、首都セントバーグを核兵器で焼き払うと、最後通告ともいえるメッセージがフチンのイワンから届いた……。百万の市民の上に核が落とされるのを阻止するのか、黙認するのか、……今、人類そのものが試されている……』


 彼はいつもの深刻な表情で、強い口調で核攻撃の危機を世界に訴えていた。


 イワンはすでに、ドミトリーを屈服させるために首都で戦術核を使う、と通告していたらしい。エリスは、両手で顔をおおった。


 暴動は核戦争の中でも生き残ろうと、食料や安全な地下施設を求める人々が起こしたものだった。山岳地帯へ向かう避難民の目的も同じなのだろう。皆、生きたいのだ。


 ドミトリーが降伏せず、核攻撃が実行されたら……、それに対抗してライス民主共和国や西部同盟が核ミサイルを撃ち返したら……、たちどころに世界は終わる。イワンはそれを覚悟していたが、ドミトリーはどうなのだろう?


「3日以内……」


 カウントダウンは始まっている。残された日は、あと1日だった。その間にドミトリーが降伏しなければ、イワンは核兵器の発射ボタンを押す。そのために、彼はここに来たのだ。『……ユウケイ民主国に栄光あれ』そう締めくくるドミトリーの真剣な眼差しと、マリアがつぶやいた言葉が脳裏を過った。――イカレテル――


 数百万、場合酔っては数十億の命が、魂が、明日には消滅する。……考えると胸が張り裂けそうだ。


 ニュースは教会や寺院に集まって祈る市民を映していた。彼らが救いを求めているのか、あるいは、イワンを呪い殺そうとしているのか、それは見当もつかない。


「イワン、あなたは核を使わなくても歴史に名前を残せたわよ。ホント、イカレテル」


 声にすると、腹の底から怒りと笑いが込み上げた。

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