第26話 テレビの前のエリス
平和維持軍支援全国集会が開かれたのは、かつてイワンが定めた〝英雄の日〟という祭日の午後だった。会場はトロイアスタジアム。その日は、消滅した大フチン帝国の建国記念日にあたり、念頭にある英雄は初代皇帝ヨシフに違いなかった。
昼食を済ませたエリスは、そのイベントに参列するように大統領秘書官のヨシフに
20人が座れるその部屋の正面に、高さ2メートル、幅3メートルもある150インチの液晶テレビがある。部屋の4隅には人の背丈ほどもあるスピーカーが据え付けられてあった。
オーディオシステムのスイッチを入れると、テレビにドローンカメラがとらえるスタジアムの全景が映った。スタジアムの中はもちろん周囲の公園に至るまで、豆粒のような人の頭で埋め尽くされている。スピーカーからはロック調に編曲された国歌が流れていた。
アナウンサーが、平和維持軍と大統領を支持するために、スタジアム内には10万人、その周囲にも同程度の国民が集まっていると告げた。カメラがズームすると人の頭の形がはっきりしてくる。
突然、カメラがスタジアム内の物に切り替わり、観衆の顔が映った。スタジアム席もアリーナ席も国旗を手にした男女で埋まっていた。予想外に、映る顔は若者が多い。
「こんなにパパを支持している?」
シャンパングラスを片手に、マリアが疑問を言った。
「そんなはずないでしょ。みんな、アイリスやガービッドを観に来ているのよ。でなかったら、上司の命令で仕方なく、というところね」
アイリスもガービッドも国内では人気のポップシンガーだ。他にもロックバンドや民族音楽演奏家が出演すると聞いていたが、エリスは彼らの名前を憶えていなかった。
「こんなことまでしなくちゃならないなんて、パパ、大丈夫なの? ネットではフチン軍が苦戦しているという噂だけれど」
「あら、そうなの?」
エリスは驚いた。イワンが苦境に立つなど、大統領になってから聞いたことがない。
「一度はセントバーグを包囲しかけたけれど、撤退したらしいわ。テレビでは、そんなこと一切報じないけど」
マリアが説明した。
「まあ、そうなの?」
「ママもネットぐらい使いなさいよ。テレビなんて、パパに都合のいいことしか報じないのよ」
エリスは言葉を失った。イワンの計画が上手くいっていないと知ると、目の前の映像もただのお祭りではないものに見えてくる。
「この際だから確認しておきたいのだけど……」
マリアがエリスを正視した。
「どうしたの、改まって?」
「離婚は、偽装なのよね?」
イワンとエリスが正式に離婚したのは10年ほど前だった。それから2人は誰とも再婚していない。
夫婦ではないのに、イワンはこの家に頻繁にやって来る。いや、家の名義そのものがイワンのものであり、生活費も家政婦の費用もすべてイワンが出していた。時折、男女の関係も結ぶが、愛しているからとはいえなかった。
「シッ……」エリスは人差指を唇に当てた。「……誰の耳に入るかわからないわよ」
「ここにいるのはママと私だけよ」
マリアが笑った。
「盗聴されている可能性だってあるのよ。イワンには敵も恨みを持つ者も多いのだから」
エリスの眉間にしわが寄っていた。
テレビの中でマイクを握ったアイリスが微笑んでいる。『愛国者よ。共に歌え!』彼女が観衆に向かって叫んだ。
「それじゃ……」
マリアがテレビのボリュームを上げた。
ロックバンドが現れて国家を歌う。それがオーディオルームに反響し、マリアの声が届かなくなる。
「……これなら大丈夫でしょ」
彼女がエリスに身を寄せて耳元で話した。
「仕方がないわね……」エリスはホッと息を吐き、マリアに頭を寄せた。「……イワンは家族をとても愛しているわ。妻の私も、もちろん娘のあなたのことも……」
エリスは、出会った頃のイワンの話を始めた。20代の希望にあふれた青年のころの話だ。それから大フチン帝国崩壊で彼が味わった失望と後悔を……。
『愛国者よ。祝え!』ロックバンドが叫ぶと、『祝え!』と観衆が応じた。『愛国者よ。戦え!』ロックバンドが叫ぶと『戦え!』と観衆が絶叫していた。しかし、エリスもマリアも彼らの声や歌を聞いてはいなかった。2人は自分たちの話に夢中だった。
テレビの映像は平和維持軍の雄姿に替わっていた。列をなす戦車、青い空に白い雲をひく戦闘機の編隊、ミサイル部隊の車列……。それらがロックミュージックに乗って流れていく。部隊を紹介するアナウンサーの声とスタジアムが割れるような大歓声が重なっていた。
歌は、映像の途中からアイリスのものに代わっていた。彼女の魅惑的な表情と、兵器の暴力的な映像が交互に映った。
アイリスは数曲歌った。歌い終えた彼女は聴衆に手を振り、クルリと向きを変えるとステージから姿を消した。
「ええ、その頃の話は何度も聞いたわ」
マリアは辛抱強く耳を傾けている。
「イワンは頑張ったわ。大統領になるために。その時にかなり無茶をしたのね。あなたにも話せないようなことを沢山していると思う」
「見当はついているわ。私の物心がついてからだって、沢山の政敵を蹴落としているし、亡命した諜報員や科学者が暗殺されているもの。全部じゃないけれど、そのうちのいくつかはパパの命令でやっているのだと思うもの」
「マリアも大人になったのね……」
エリスの胸に暖かなものがじわりと湧き上がってくる。彼女の頭をそっと引き寄せて額にキスをした。
「もう28よ」
マリアが苦笑した。
「イワンは、家族に危害が及ぶことを恐れているのよ。私たちの安全を、ライスや西部同盟に取引の材料に使われてしまうようなことをね。そのために離婚したの。もう、10年になるわね」
「ママは、パパに騙されていない?」
「どうしてそんなことを言うの?」
「離婚したから、パパは自由になったわ。他の女性と堂々と関係を結ぶようになったし、財産を私たちの名義に分散して隠している」
その口調は、明らかにイワンを非難していた。テレビにはイワンの顔があって、ライス民主共和国や西部同盟諸国を口汚くののしり、平和維持軍の活動を賞賛し、フチン聖教が描く未来を輝かしい運命と礼賛している。『……フチン聖教はセントバーグで生まれた……』と聞こえた。
「女性関係はともかく、財産は最終的にはあなたたちのものになるのよ。それを悪く言ってはいけないわ」
「パパの娘でよかったと思うことは多いけれど、今回はちょっとね。どうだろうって思うわ。露骨に暴力的なのも、宗教的なのも……」
彼女の視線がテレビのイワンに向いた。濃紺のダウンジャケットをまとった彼はステージ上に堂々と立っていて、聞くのが恥ずかしくなるほど事実を強引に捻じ曲げ、自分自身の判断の正統性を主張していた。
「……老いたのかな? パパ、変わってしまったような気がする」
マリアの話を聞きながら、エリスも首をかしげた。思い当たることがあった。
「確かに少し変わったかもしれないわね。ソフィアを近くに置くようになってからだわ」
「ソフィアって、……まさか、あのソフィア?」
「そうよ。マリアの同級生だったわね。あなたがイワンに紹介したのよ」
エリスは、大学生の娘がソフィアを自宅に招待したときのことを思い出していた。7年前のクリスマス、彼女は露出度の高い白いドレス姿だった。何かと理由をつけてはイワンにすり寄り、身体に触れ、言葉を交わしては微笑んでいた。妻や子供の目の前で……。後でわかったことだが、彼女はイワンに気に入られるために、ドレスに全財産をつぎ込んだらしい。
「彼女が政治家を目指したいというから……」
マリアが不服そうに唇を尖らせた。
「ソフィアがイワンをそそのかしたということはないかしら? そんなことでもなかったら、ユウケイを武力で併合しようだなんて、あの人がするはずないのよ。だってユウケイは私の母国なのよ。早く終わってくれないかしら……」
「さっさとドミトリーが降伏すればいいのよね」
2人は戦争の終結を願いながらシャンパンを口に含んだ。
『紹介しよう』
ステージ上のイワンが位置を左に変え、右手を水平に伸ばした。すると、さっきまで彼が立っていた場所の床が割れて縦横4メートルほどの正方形の穴ができた。
黒い穴にスポットライトが当たる。10万人の観衆が、何が起こるのかと想像して息をのんだ。
ステージの下から静かにせり上がってくるものは、スポットライトを浴びてダイヤモンドのように輝きを放つ、クリスタルで飾られたフチン正教の巨大な十字架だった。
それが半分ほど姿を現した時、観衆がざわついた。十字架の前に人間の頭を認めたからだ。
――ウォー……、十字架が完全にステージ上に現れ、その根元に立っている人物の姿が明瞭になるとスタジアムがどよめいた。多くの者は歓声を上げ、一部の者は悲鳴を上げ、また別の者は声を詰まらせている。
「あら……」スピーカーから流れる歓声を聞いたエリスは眼を見張った。テレビに自分に似た女性の姿がある。
「あの人、ママに似ているわね」
マリアもその人物に気づいていた。
「そうね。正確には、若いころの私に……」
エリスは首をひねった。イワンは何をしようというのだろう?
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