9
トオルはみるみるうちに遠ざかり、点みたいになってしまった。
抜けるような青空をバックに、〈東京ブギウギ〉がよく似合っている気がした。
(……文字通りすっ飛んでいきやがった)
いつまでも眺めててもしょうがない。
目を離す。
無意識にため息を一つ。
こんなに自分が役立たずだと、もはや悔しいと思う気もなくなるというものだ。
いっそ笑えてくる。
それでも。
――先輩、ちゃんと見ててくださいね。
(見てるさ)
(それしかできねぇからな)
あいつとはまだ浅い付き合いでしかないが……トオルは思ったよりすごいヤツだった。
何がって、あの見かけによらない熱量だ。
最初は、やたら綺麗な顔をしてるだけの後輩って感じだったが、その人となりを知ると、驚くばかりだった。
まるで俺とは真逆――情熱的で、何にでも感情移入して、臆病だけど、絶対に逃げない。
震えながらも、前に進むことを絶対に諦めない。
その姿は、情熱が枯渇し、何にも必死になれない俺には眩しすぎて――。
(すげぇなぁ……)
(お前は自分のことを薄っぺらい人間だ、なんて言ってるけど……)
なぜか自己評価が低いトオルは、こんな俺なんかを、なぜか「すごい先輩」だとか誤解している。
違うよ、トオル。
すごいのは、俺じゃなくてお前だっての。
音楽にしても、剣道や絵や書道にしても――俺が持っているのは、何の熱もないただの技術だけで、そこには何の意思も込められてないんだ。
器用に生まれてきた自覚はある。
何でも努力すればすぐに上手くなったし、継続することが苦にならない俺は、人より上達スピードも速かった。
もしかすると、人はそれを才能と呼ぶのかもしれない。
でも、そこに熱が伴わなければ――そんなものは偽物だ。
そんなことは、誰よりも俺がよくわかってる。
メッキが剥がれれば――薄っぺらいのは俺のほうなんだよ、トオル。
(……それにしても)
すぐ横でぐるぐる音楽を奏でる蓄音機がうるさい。
いい曲だけど、緊張感のあるこの状況下では、ちょっと呑気すぎる気がする。
いや、この曲が生まれた頃は、緊張感のある中だからこそこの呑気さが救いになったのだろうけれど。
▽
「トオルが選んだキーはなかなか意外だったな」
と、食玩を組み立てながらオッペンハイム卿が言った。
「そうすか?」
「うむ、彼が好むのは、流行歌……JPOP と言われるジャンルや、ボーカロイドとかいう、いわゆるサブカルチャーだ。まさかドビュッシーが来るとは思わなかった」
「……はぁ、そうすか」
……この人、相変わらずサブカルチャーを下に見てるなあ……。
いいじゃん、ボカロ。
「『
「……さぁ……」
俺がとぼけると、オッペンハイム卿は出来上がったヴィネットを並べて満足そうに頷く。そして、
「……弟子が頑張っているんだ。私も少し協力しようではないか」
と言ってタクトで蓄音機のラッパを一つ叩いた。
と。
曲が変わった。
エキゾチックでハイテンポなピアノが高らかに響き渡る。
「……ケークウォーク」
「トオルのリクエストだからね」
「そんなことして大丈夫なんすか……?」
確か「東京ブギウギ」が聴こえている間だけ、落下ベクトルが変更されるという魔術だったはず――。
曲が変わったら、魔術の効果が切れて、ベクトルが変わったり、下手すると正しい方向に自由落下するんじゃ……?
「いや、もはや彼の使っている魔術は、元となった〈東京ブギウギ〉とは違う。沸き立つような気持ちになる音楽であれば何でも構わない」
「そんなもんすか」
いや、大丈夫なのか?
ちらりと加賀を見ると、ちょんと肩をすくめるだけだ。
まぁ、大丈夫なのだろう。
(って、あれ?)
このケークウォーク、えらくハイテンポだな……。
それに、技術的にはさほど高くないというか、単にちょっとピアノが上手いやつが戯れに弾いてるだけみたいな――。
「……このケークウォーク、演者は誰です?」
「さて、私にもわからん。盤に書いてないかね?」
「…………」
……嫌な予感がする。
「さて、私は彼を追うとしよう」
「あ、俺も……」
「キミはここでトオルを待ちたまえ。彼もそれを望んでいるだろう」
「あ、そうすか……そうっすね……って」
と俺が答えた時には、もうオッペンハイム卿はいなかった。
(いつの間に……)
――無詠唱の、座標入れ替え魔術。
一体何者なんだ、この人は。
と、こっそり蓄音機の上でくるくる回る円盤を覗き見る。
(……やっぱり)
おそらくトオルのイメージする演奏を、何らかの形で再現しているのだろう。
確か、
分厚いレコード盤は妙にクリアな音質で――それこそそこで生演奏されているかのような音圧で曲を奏でている。
そして古ぼけたかすれた文字で書かれていたのは。
――Debussy: Children's Corner, L. 113 - 6. Golliwogg's Cakewalk
そして末尾には。
Senri Akutsu
とあった。
「……ちっ」
▽
(……これ、先輩の演奏だ……)
風に煽られて目を開けるのも厳しい状況で、トオルは思わず微笑んだ。
曲が変わったときには驚いたし、不安だった。
魔術の効果がなくなり地表へ自由落下するか、そうでなくともベクトルが変わって子どものところまで到達できなくなるのではないかと――。
しかし、そんなことは杞憂だった。
(まさか、また聴けるとは思わなかったな)
ちょっとアップテンポのケークウォーク――中学1年生の頃に聴いて衝撃を受けた演奏。
オリジナルの〈東京ブギウギ〉の発動原理は、この曲を聴いたときに感じる浮き立つような印象を、そのままベクトル変換するというものだ。
戦後、敗戦により暗く沈み込んだ日本人に、明るい未来への希望を持たせたという、名曲「東京ブギウギ」。
自分たちはまだ終わってない。
今は苦しくとも、これで終わりじゃない。
そうした未来への期待が込められたこの曲に、当時の魔術師は沸き立つような感動を得て、キーとして選んだのだろう。
ならば、曲は本来、何だって構わない。
キーの影響か、〈東京ブギウギ〉を聴くと確かに浮き立つような気持ちにはなるが、やはりこういうのはリアルタイムでその時代に生きていなければ、本当の感動は得られない。
いかにキーに込められた印象を受け取ろうが、その印象はその時代の中でこそ本領を発揮する。
現代人である自分が、正確にキーを受け取ることができなかったのは、むしろ当然だったのだ。
だけど。
「ゴリウォーグのケークウォーク」は短い曲だ。
すでに数度繰り返し演奏されている。
ボクにとって、これ以上の心の沸き立つ音楽はない。
もはや、直接音楽を聴いている必要もなさそうだ。
(うん。〈東京ブギウギ〉もいいど、ボクにはこっちのほうが向いてるみたいだ)
(オッペンハイム卿、気を利かせてくれたのかな)
自由落下といっても、速度は最大で時速200キロメートル程度だという。
少しでも速度が上がるよう、進行方向に頭を向けて、未だ落ち続ける子どもの元へ一直線に。
泣いても笑っても、ボクとその子どもだけでどうにかしなければならない。
クスリと笑う。
そういえば、この曲「ゴリウォーグのケークウォーク」は――。
(よし)
――ここからは、
▽
地方のピアノコンクールで優勝したと言っても、所詮は中二の頃の演奏だ。
稚拙だし、腕をひけらかすように速弾きなのが、なんとも言えず恥ずかしい。
あの時は、前年度の優勝者による
当日になるまですっかり忘れていて、慌てて着の身着のまま会場に向かったことを覚えている。
到着し、すぐにプログラムを見て、他の演者の演奏曲と被らずにすぐに弾けそうな曲が、たまたま「ゴリウォーグのケークウォーク」だった。
名曲だが、さほど難易度が高い曲でもない。
なんなら、小中学生のピアノコンクールでは定番曲と言っていい。
ならば、どうせならインパクトを狙って、アップテンポで――などというのは、いかにも浅はかな子どもが考えそうなことだった。
それでも、この曲は割りと好きな曲だったし、弾き始めるとスッと集中することができた。
誰かに聴かせるとか、何かを表現するとか、そんな考えはすっ飛んで、それこそ
我ながら稚拙な演奏だったが、拍手は喝采だった。
そのあと実行委員から「何だその服装は!」と叱られたのも、今となっては良い思い出だったりする。
▽
「ふぅん、これがケークウォークって曲なのか」
加賀が言った。
「あれ、聞いたこと無いですか? 曲名はともかく、曲自体は有名だと思いますけど」
「僕は普段、なるべく音楽が耳に入らないように生きてるからね」
「それは、魔術的な意味で?」
「そう。だから僕の
最近の音楽は刺激が強すぎて魔術向きじゃなくてね、と加賀は言う。
なんか、オッペンハイム卿もそんなこと言ってたな……。
「……ところで、オッペンハイム卿って何者なんすか」
ずっと気になっていたことだった。
「詳細は不明だね」
不明……?
「貴族ってのは……」
「本人がそう名乗ってるだけで、よくわかってないみたいだ」
「へぇ……」
オッペンハイム。
まぁ、多分偽名なんだろうけど。
「……あの人、魔術を行使するのにコールしてないんですが、そんなことが可能なんですか?」
「いや、不可能だよ」
「……でも、たしかに無詠唱だと思うんですが」
「あれね。わざわざコールした事実を相手の脳から吹き飛ばしてるだけ。コールしてる姿はエレガントじゃないとかなんとか」
「……なんじゃそりゃ?!」
ゴミ箱魔術もそうだったけど、本当に無駄な魔術ばっかりだな……!
「管理者じゃないんですよね?」
「うん、野良の魔術師だね」
「放置してて大丈夫なんすか?」
「本当は駄目だけど……あの人、嗅覚が凄まじく敏感でさ」
「は?」
「蒐集家の名は伊達じゃないってことかな。僕ら管理者じゃ感知できないような、どんな魔術でも彼は見つけ出すんだ」
「つまり、有用だから放置されてるってことですか」
「そういうことだね」
……信条よりも実益ってことなのか。
「卿は魔術のコレクターだ。しかも攻撃的なものはほとんどないし、まぁ放置だね」
「その割に堂々と魔術行使してますが」
あと、野暮なツッコミをした俺を吹き飛ばしたりしていたが。
しかし、加賀は興味がないようで、ちらりと空に目を向ける。
「そんなことより、そろそろ小林くんが子どもに接触しそうだよ」
「……そうすか」
じゃあ、ちゃんと見とかないとな。
なんせ、それが俺の唯一の役目だから。
▽
『子ども、発見しました。5歳くらいの女の子です』
いきなり、蓄音機からトオルの声が聞こえてきた。
「トオル?!」
『オッペンハイム卿から連絡が入って、蓄音機を通して会話できるって』
「最初に言っとけよ……」
『それより先輩、子どもが気絶してます。あと、ものすごく寒いです』
「寒い?」
こんなに天気がいいのに?
『そんな高度じゃないと思うんですけど、気温が低く感じます』
「ずっと風に当たってるからかな……大丈夫そうか?」
『ボクは大丈夫です。でも子どもにはちょっと厳しいと思います。とりあえず、もうすぐ接触します』
「そうか。……無事だといいな」
手順としては、とりあえず子どもを確保し、再度〈
自由落下なので当然時速200キロオーバーでやってくるわけだが、そこは加賀お得意の作用と反作用を一方に押し付ける魔術でカバーする。
この魔術は落下時の衝撃は地面にだけ向かい、本人には一切ダメージがない。
効果範囲は狭いが、まさに物理法則を無視した魔術だ。
その分、衝撃音だけはやたらでかくなる副作用があるが、まぁそんなことはどうだっていい。
蓄音機からトオルの上ずった声がする。
『子ども、つかまえました!』
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