不可逆 ― Unforgettable You ―
1
人間にとって、最も重要な機能は何か。
そう尋ねられれば––––俺は、それは「忘却」だと答える。
人は日々新しい情報を得る。
それは記憶として蓄積され、感性を刺激し、その人そのものを形作っている。
ただし、同時にどうでもいい情報まで、ずっと記憶され続けることはない。
情報は取捨選択され、いらない情報は一度夢に加工され、いつしか忘却されていく。
もし忘却することができなければ、人間の脆弱な脳と精神など、あっという間に擦り切れてしまうだろう。
加賀曰く、人の魂は無限の時間を生きるという。
悠久の過去から、永遠の未来まで生き通し。
ゾッとする。
魂は永遠に死ねないのだ。
もしも人間に忘却という「機能」がなければ――人は生まれ落ちた瞬間に発狂するに違いない。
忘却さまさまだ。
ただ、一つだけ問題がある。
この機能が自動的なものである、ということだ。
忘却は、けっして自分でコントロールすることはできない。
知らないことを知ることはできる。
しかし、知っていることを、元通り知らないことにすることは、誰にもできない。
死ねば忘れることはできるのだろう。
脳を置き去りにして。
全てを無かったことにして。
そしてまた次の生を受ける。
だが生きている間は――不可逆!
知ってしまったことを、知らなかったことにはできないのだ。
俺が俺として……
人間とは――なんと不出来な存在なのだろうか。
▽
『……は、……であるからして、……学生の本分は……』
全校朝礼の体育館で、校長がダラダラと誰も興味のない話を続けている。
「……ねむ」
このところ、寝不足が続いていて、俺は眠くて仕方なかった。
あくびが出まくる。
隣のクラスの友人、遠藤がコソコソと話しかけてくる。
「千里、千里」
「ん、何?」
「今日、暇?」
「何で?」
「『人生』で、今日限定メニューがあんだよ」
『人生』とは、この辺りの学生の間では一番人気の二郎系のラーメン屋だ。
正しくは『ラーメン亭 人生をかけろ』。
ラーメン屋のくせにやけに壮大なネーミングだが、味は最&高。
安価かつ爆盛りが売りで、昼時だと2時間待ち3時間待ちは当たり前の超大人気店だ。
遠藤は『人生をかけろの伝道師』として知られる
「今回限定の『インド地獄』なんだけどさ、去年喰い逃したやつなんだよな。めっちゃ評判よかったのに」
「行きてぇな……」
「だろ? 行こうぜ!」
「そうだなぁ……」
『人生』の限定は、毎回だいたい旨い。
行きたい。行きたいが……。
「ごめん、パス」
「何で」
「……やんなきゃいけないことがあんだよ」
「あれ、千里、ヴァイオリンも書道もやめたって言ってなかったっけ。それか剣道? また再開すんの?」
「……ま、そんなとこ」
適当にごまかすと、遠藤はすぐに「じゃあ、しゃあねえな」と引き下がってくれる。
俺はもうずっと、あらゆることをやってきた。
ピアノから始まり、ヴァイオリン、書道、剣道、その他いろいろ。
スポーツは剣道以外あまり得意ではないが、それ以外であれば大体のことには手を出した。
そして、大体どれもそれなりに身について――だいたいどれも特別な才能はなかった。
特に妹の桜子にどれもこれもあっさりと追い抜かされて――それでストンと胸に落ちた。
ああ、俺って表現者じゃなくて、鑑賞者側の人間だわ――と。
そして、昨年一気に全部辞めた。
その時はちょっとした騒動になり、それまで気を遣われて滅多に誘ってもらえなかったカラオケやラーメン屋への誘いも増えた。
俺もそれが嬉しくて、大体の誘いには乗った。
だからこうして断るのは珍しい。
遠藤も少し驚いたようだ。
でも、申し訳ない……本当は習いごとじゃないんだ。
「時間あるときは付き合うからさ」
「いいって、気にすんな。気が向いたらまた行こうぜ」
「ああ、また誘って」
「あいよ」
▽
退屈な日常。
いつもどおりの学園生活。
校長の退屈な訓話。
しゃべるなと怒鳴っているバカな体育教師。
どこからどう見ても、何の変哲もない当たり前の風景だ。
あ、教師の中にも居眠りしてるやつがいる。あとで教頭に叱られやがれ。
しかし、俺にはそれが「あたりまえ」には見えなかった。
この世界が、いかに脆いのか、理解してしまったから。
システムメッセージを受け取ってしまったあの日。
おれは、この世界の脆さを知ってしまった。
俺たちはあの日のことを、単純に「ブレイクポイント」と呼んだ。
世界の常識が枝分かれした、まさに区切り点というわけだ。
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