血潮は流れ、旅路を巡る

黒ーん

遺書と美酒と苦酸っぱい液体

「ねぇねぇプルート」

「…………」

「ねぇ、プルートってば!」

「なんだ白蝙蝠しろこうもり。うるさいぞ」

「あっ、やっと反応した。ってかその反応……。いつも思うけど、プルートってなんか冷たくないっすか?」

「要件を言え。言わないなら黙れ」

「うんまぁ、言うけどさぁ。っていうかこれって、ヤバくない? あれ、ほら」


 車を走らせる先、俺たちの視線の先、遥か遠くに見える空と地平線の淵が赤く染まりつつあった。時計に目をやると、車内のデジタル時計が丁度六時を指す。間もなく日の出の時刻だ。本当ならば三時か四時までには目的地の小さな町に到着する予定だったのだが、残念ながら目的の街は地図から消えてしまっていた。


「車中泊だな。カーテンを閉めるぞ」

「えぇー⁉ やだやだ‼ 車中泊なんていーやーだ‼ 日が昇ると熱いし、車の中は狭いし‼ そもそも、もう二日も車中泊じゃん‼ プルートだっていい加減汗臭いぞー‼」

「なら外で寝ろ」

「そんなの永遠の眠りに就いちゃうじゃんすか⁉ やだやだー‼ 外で寝るなんてずーっとー、もーっといやー‼」

「うるさい女だ」

「ね、ね、後二十分! あいや、もう十分だけで良いから頑張ろ? ね?」

「どこで寝ても同じだ」

「プルートはデリクシー・・・・ってものが無いんだよ‼ 私は女の子なの‼ 車中泊なんてぜーったい嫌なんだから‼」

「デリカシーだ、馬鹿め。人にデリカシーを求める前に、お前は教養を身に付けろ」

「うーわ……ちょっと長く喋ったと思ったら、すぐそうやってダメ出しをする……。あー、私は傷付いたぞー! 柔らかいベッドで寝ることを要求するー! この心の傷はベッドで眠らなければ治らなーい!」

「……はぁー……。…………、あと五分だけだ」

「やったぁ‼ へへへ、ちょろいぜ」

「車中泊か?」

「あーッ‼ ウソウソ‼ プルートさんだーい好き‼」


 全く、無駄なことだ。五分やそこら車を走らせたところで街なんて見つかる筈も無いのに。そもそもこの辺りに街があるなど地図には載っていないのだから。


 だがもしもここで車を止めてしまえば、この女はいつまでもずっとしつこく壊れたスピーカーのように喚き散らかし、事ある毎に今日のことを蒸し返すのだ。よって端から俺に選択肢など有りはしない。


 そもそもこの女は能天気が過ぎる。吸血鬼が昇る太陽の方に向かって車を走らせるように要求するなど、どう考えても自殺行為ではないか。隣人の吸血鬼としての自覚の無さに腹を立てるというこの意味不明な状況に、俺の頭はもうどうにかなってしまいそうだった。


 まぁ、それでもあと数分も車を走らせればきっと満足するだろう。それでもぐずるようなら、俺はもう知らん。勝手に灰にでもなってしまえば良い。


「…………? ん、んんー……? えっ、あれ……ね、ねぇプルート! あれって、家じゃない⁉」

「……どこだ?」

「ほらあそこ‼ ここから南東の方に二キロ先‼」

「あのな、俺は人間なんだ。そんな先まで見える訳が無いだろう」

「フフ―、脆弱な人間め……♪」

「家の方向を教えてくれてありがとう。お前はここから徒歩で先を行け」

「ちょーっと待って下さいよプルートさんーッ‼ ちょ⁉ マ、マジで外に蹴り出そうとしないで下さいって‼ ちょっとしたヴァンパイアンジョークってやつじゃないですかー‼」

「次に同じことを言ってみろ、絶対に車の外へ蹴り出してやる」

「ハイ……血潮に誓います……」


 家があると言ったが、それはまたこの女の戯言だろうか。いや、どのみち前へは進まねばならないのだ。例え今のが妄言だとしても、まずは前へと進もう。


 腹を決めると、俺はオンボロメルセデスのギアを上げて、一気にアクセルを踏み込む。車はぐずるように軋んだエンジン音を鳴らすが、ここまで来ては加減をする訳にもいかない。蝙蝠女の言ったことが戯言ではないことを信じ、指を差す方へと車を加速させる。


 幸いここは荒野でなんの障害物も無いが、それでもお世辞にも道が良いとは言えない。頼む、頑張れ、もう少しだ。心の中でそう車にエールを送ると俺の祈りが届いたのか、ガタガタと揺れながらも車は勢いを増して疾走する。


「おぉー‼ 良いぞーベンちゃーん‼ その調子だー‼」

「変な名前を付けるなと言ってる。それに喋るな、舌を噛むぞ」

「ハハーン、吸血鬼の私が、そんなへ――マ"⁉」


 言わんこっちゃない。が、これで暫くは静かになりそうだ。


 日の出まで残り十分。仮に家があったとして、車から降りて移動するまでのことを考えると五分は欲しい。もう、タイムリミットか。


「白蝙蝠、最悪の状況を想定してカーテンを用意しておけ」

「ンー‼ アホホー‼ ホウフフホホーッ‼」


 なにを言っているのか全く分からん。しかし切羽詰まったこんな状況でこんなことを考えるのはあまりにも呑気かもしれないが、今はいつにも増してマヌケな顔だな。


「ンンーッ‼ ンーッ‼ ンーーーッ‼」


 突如蝙蝠女が突如けたたましく前を指さして叫び始める。ふと指を差す方へ視線を向けると、正に目と鼻の先に小さな家が佇んでいた。マズイ、蝙蝠女のマヌケ面に気を取られたか。家を目前にハンドルを切って急ブレーキを踏む。体がベルトに引っ張られ、タイヤが荒野の砂を巻き込み、車は激しい砂埃を立ち昇らせながら一気に失速する。


 次に目を開けたとき、車の右隣には家の壁がピタリと張り付いていた。幸いなことに、ほんの数センチ手前で止まることができたらしい。


 俺は胸を撫でおろし、ホゥ、と一息吐く。


 ………………。


 それどころじゃない‼


 慌ててベルトを外すと、助手席を跨いてドアを開け、放心しているオリビアを担いで家のドアを探し当てて中へと倒れ込む。中へ入ると、担いでいたオリビアをその辺に放り捨てて、俺はすぐに後ろのドアを閉め、急いで部屋の中を見回して窓の位置を確認する。幸い窓には遮光カーテンが備えられていて、全ての窓のカーテンを閉め切るだけで良さそうだ。そうして全てのカーテンを閉め終わった頃、ようやく俺は落ち着くことを許されたのだった。


「……はぁ。なんとか、間に合った、な……」

「……あの、プルートさん? ちょっと思ったんですけど、流石にこの扱いって、いくらなんでも酷すぎじゃありませんか?」


 声の方へ目をやると、そこには逆さまに壁にもたれかかるようにして、下半身を折り曲げてこっちを睨みつける蝙蝠女の姿があった。


「気にするな」

「ハァーッ⁉ 気にするな⁉ 気にするなって⁉ それだけ⁉ 酷いじゃん、あんまりじゃん‼ 車はガーってやるし、私のことは投げ捨てるし‼ プルートにはモナク・・・ってものが無いんだよ‼」

「モラルだ、馬鹿め。そもそもお前の顔が悪かったのが悪い。お相子だ」

「…………⁉ か、顔が……わわわ、悪い……? お、おぉぉい⁉ おま、お前ぇ‼ だ、誰の……一体誰の顔が悪いのかもう一度言ってみろこらぁ‼」

「騒ぐな、無駄に腹が減るぞ」

「…………ッ‼ …………、……あぁ、そう言えばさ、お腹が、空いたよねぇ……」


 俺を見るオリビアの目は深紅に染まり、得物を狙う吸血鬼のそれへと変貌する。俺は咄嗟に腰の銃を抜いてしまいそうになるが、それをどうにか自制して手が銃に伸びないように努めた。何故なら、この女は――。


「…………、この家を見つけたのはお前の手柄だ。ほら、先に・・吸わせてやる」


 そう言うと、俺はシャツの襟をまくって首筋を差し出してやった。するとオリビアの目は青ざめたように色が変わり、見るからに慌て始める。


「……えっ? あ、うん……いや……そ、その……。……あっ! そ、そうだ! ほら、プルート、それより先にこの家を探検しようよ! ね?」


 俺の了解も得ず、誤魔化す素振りを隠そうともせず振舞う蝙蝠女。いや、誤魔化すなんて高尚な芸当、端からこの女には無理なことだったか。


 まぁ良い。先に家を見て回るということには俺も賛成だ。ここでもしも食料を見つけられたなら、わざわざ不味いもの・・・・・を口にする必要は無くなるのだから。とは言えこの家の惨状を見るに、食料を見つけられる可能性は望み薄なのだろうが。


 外から見た感じ、大戦時代よりも前に建てられた平屋というところだろうか。よくもまぁ、こんな辺鄙で道のど真ん中にあるような家が、なんの被害も無く無事に今日まで残っていたものだ。


 さて、それじゃあまずは、本命のキッチンにでも――。


「キャァァァァッ‼」


 家中に響くオリビアの悲鳴。俺は咄嗟に腰の銃を抜き、悲鳴のした方へと駆ける。視線の先には半開きになったドア。声の出所はそこか。可能性として高いのは、野生化した生体兵器。次点に、人間か吸血鬼の生き残り。いや、それは限りなく低いであろうが。


 意を決してドアを蹴り開く。するとその半ばで、ゴツンとなにかにぶつかるような抵抗感。と共に、「グェッ⁉」と間の抜けた声が聞こえる。半ばで止まったドアを押し開き、なにかがぶつかったと思われる場所を覗き込んでみると、そこには頭を抱えてしゃがみ込むオリビアの姿があった。


「お前、そんなところでなにをしている?」


 ドアがぶつかって痛いのか、或いは別の理由があるのか、オリビアは口を開かずに体を震わせながらゆっくりと自分の前を指さした。指の差す方を見ると、そこには椅子に座る人の影。いや、これは。


「良く見ろ、死んでいる」


 椅子に腰かけていたのは、人間の亡骸だった。もう随分に死んだものであるらしく、その殆どが白骨化していて匂いもしない。


「……死ん、でるから、安心、とか……そういうこと、じゃ……ないじゃんかぁ……プルートの……バカぁ……ヒッグ……」

「馬鹿はお前だ、馬鹿め。死んでいるなら、なんの脅威にもならないだろう」


 むせび泣く蝙蝠女を他所に部屋を見渡してみる。どうやらこの部屋はキッチンであるようだ。遮光性は低いが、何故かこの部屋にはカーテンが引かれている。蝙蝠女の様子を見るに、この程度まで光を遮断できるならば命に別状は無いらしい。


 パッと見た所目に付くのは、恐らくこの亡骸の主が飲んだであろう酒瓶の山々。幾つかを拾い上げて匂いを嗅いでみるが、どれもこれも残り香すらとっくにどこかへと揮発してしまっていた。


「おい蝙蝠女、泣いていないで食べられるものを探せ。死んだ人間より生きている俺たちだ」

「……すんっ……。プルートの、薄情者……」


 だったらお前は馬鹿者だ。という言葉は飲み込んだ。どれだけ馬鹿を馬鹿呼ばわりしたところで、こいつは生涯馬鹿のままなのだから。


 大体、こいつはどれだけ考え無しなのだ。偶然キッチンにもカーテンが引いてあったお蔭で死ぬことは無かったが、一歩間違えれば朝日で丸焦げになっているところじゃないか。前から新しい拠点を探索するときには先行するなと言っているのに、この馬鹿蝙蝠マヌケ女は――。


「ねぇプルート、これ、なんて書いてあるの?」


 イラつきながら辺りを物色していると、蝙蝠女が一冊の厚手のノートをこちらに差し出していた。


「どこにあった?」

「テーブルの、この人の前に」


 ノートを一瞥すると、そこには丁寧かつ几帳面そうな字がびっしりとなにかが書き綴られていた。これは、恐らく――。


「遺書だな」

「イショ?」

「死ぬ前に書き残した言葉だ。この者が最後に書き残したのだろう」

「へぇー。……ねぇ、それにどんなことが書いてあるのか教えてよ」

「そんなことより食料が先だ。それは置いておいて、手を動かせ」

「えぇー⁉ やだやだやだッ‼ そこになにが書いてあるのか分からないんだったら私はなんにもしないー‼」

「……うるさい女だ」

「いいじゃん! プルートがそれを呼んでいる間に、私がちゃんと食べ物を見つけておくからさ! ね?」

「……読み終わるまでに食料の一つでも見つけられなければ、分かっているだろうな?」

「ヒッ……。わ、分かってますよ~旦那~……へへへ……」

「……はぁ」


 なにやらこの女に言いくるめられたような気がして、どうにも釈然としない。が、体を動かすよりかは、文字を読んでいる方がエネルギーの消費は少なく済ませられるというものだろう。


 あまり期待はしていないが、座って体を休めている間に保存食の欠片でも見つけられたならば僥倖、というくらいに考えておく分には、落胆も少なくて済むだろう。そうして俺は、椅子の者の最後の言葉を読み始めた。



 ***



「フー……」


 目頭を揉み、肺の中に溜まった息を吐き出す。薄暗い部屋の中で想像以上にディープな内容の遺書を読んでしまったことで、思ったよりも体を疲弊させてしまったようだった。


 馬鹿な蝙蝠女にも分かるように軽く内容を整理すると、疲れた頭で辺りを見渡してみる。さっきから随分と静かにしているようだが、ちゃんと食べ物の一つでも見つけられたのだろうか。


 蝙蝠女はすぐに見つかった。部屋の隅っこでいびきをかき、鼻提灯を膨らませ、まさに馬鹿を全開にした様相で眠っているではないか。


 ちょっとここまでのことを思い出してみよう。俺は不眠不休でこの場所まで何時間も車を運転し、家の安全確保を済ませ、食料を探そうとしていた。対してこの女は我儘を言って俺に読み物を強要した挙句、結局自分はなにもせずにグースカいびきをかいて寝ていやがる。……この野郎――。


 俺は足音を立てないように蝙蝠女に近寄ると、すっと手を差し伸べ、口の中に親指を突っ込んで頬を引っ張った。


「ウェヒッ⁉ ウワイ⁉ ワ……ヒャ、ヒャメヘ‼ ヒャメヘフワハウィー‼」

「おはようオリビア。俺の方は仕事を終えたが、そっちの進捗はどうだ?」

「ウィ⁉ ゴエンヤハイ‼ ワゥイヲミフヘハヘ――」

「聞こえんな。ちゃんとした言葉を話せ、この馬鹿蝙蝠」


 そうして俺は良く伸びる蝙蝠女の口を散々弄んでやった。事が終わった後、鋭い目でこちらを睨みつけてきたが、それに対して俺が優しく微笑んでやると、蝙蝠女は視線を逸らし、ガタガタと震えて壊れたようにただ一方的に謝罪をしていた。



 ***



「あ、あのー、プルートさん?」

「あっ?」

「ウヒッ⁉ ……も、もしかして、ですけど、怒って、いますか……?」

「…………」

「ご、ごめんなさいー‼ 食料は見つけられず、しかも寝ちゃって本当にごめんなさいでしたー‼ ウワーン‼」

「……もう良い。それで、聞くのか?」

「すんっ……。えっ、なにを?」

「もう良い、寝る」

「あぁーッ‼ ウソウソ‼ 聞きます聞きます‼ その為に起きてたんだから‼」

「起きてた、だ?」

「い、いえ、あのその……」

「……言っておくが、楽しい話じゃない。吸血鬼のお前には特にそう感じるかもしれん。それでも良いのか?」

「…………、うん。だって、この人はきっと、それを誰かに知ってほしかったから、こうしてイショを残したんでしょ? なら、それを見つけた私たちは、それを知らなくちゃいけない、と、思うんだけど……どうかな?」

「……そうか。まぁ俺も、そう思う。なら――」


 そうして俺は、遺書の内容を話し始める。


 椅子に座っているこの男は、やはりこの家の主であったらしい。先の大戦で幾多もの吸血鬼を葬ったとされるこの家の主は、諸事情あって、退職金代わりに貰った酒を一人楽しみながら、この家で余生を過ごしていたのだそうだ。


 そんなあるとき、男の元に弱った一人の女吸血鬼が訪ねて来た。年月は経っているとは言え、元は吸血鬼を殺す為のスペシャリスト。当初男は、弱った吸血鬼の一人などどうとでもできると考えたようだ。


 が、男は吸血鬼を殺さず、自分でも理由が分からないまま、吸血鬼を同居人として家に迎え入れたのだった。


 男は吸血鬼になにも求めはしなかった。毎日二人でただ酒を飲んで過ごし、ただ普通に会話し、ただ普通に時間だけが過ぎて行った。吸血鬼も必要最低限の血を求めはしたものの、それ以上はなにも求めなかったらしい。


 奇妙な同居人との生活を始めてから何年かの月日が経ったとき、男は病に蝕まれていることに気付いた。どうと言うことは無い。酒の飲みすぎで体を壊したのだ。


 全身に広がる黄疸。吐血。ついにはベッドからも起き上がれなくなるほどに衰弱し、とうとう男は自らの命の終わりを悟ったという。この段になって、ようやく男は自らの終わりが近いであろうことを同居人に伝える。


 男は吸血鬼に自らの命を委ねようと、最後に全ての血を吸ってほしいと懇願した。が、その願いが叶うことは無かった。衰弱した男の願いを聞いた吸血鬼は突如なにを思ったのか、太陽の照り付ける真昼の空に飛び出して、自らの体を焼いてしまったのだという。


 男は絶望した。無尽蔵にあると思われていた家中の酒を片っ端から飲み干し、ただひたすらに自らの死を望んだ。


 しかし皮肉なことに、吸血鬼が死んでから暫く経っても、男は死ぬことができなかったようだ。恐らく長く吸血鬼に血を吸われていた為、自らの不死性が強まったのだろうと考察されている。


 確実な死を選ぶため、男は銃を咥えたという。が、ここに来て重大なことを忘れていることに気付く。あの吸血鬼の墓を作っていないではないか、と。


 男は急いで外へと繰り出し、簡易的な墓をこさえ、そこに灰になった吸血鬼を埋葬した。


 これで思い残すことは無い。そう思った男は再び銃口を咥えるが、何故だがどうして、次々にやらねばならないことが思いついてしまう。


 どういう訳か思いついたことを片付けずにはいられなかった男は、あれよあれよと次々に思いつくことを消化していった。またそうする度、吸血鬼が外に身を投げ出したときの光景が脳裏を過り、そのとき口にした言葉が耳元に響くのだ。


『生きて、――――』


 逃れることができなかった。それはきっと、あの吸血鬼の呪いの言葉だったのだろう。そう、乱れた字で書かれていた。


 とうとう男は残す最後の一本の酒を飲むことも叶わなくなり、いつ終わるとも分からない苦しみの中で許しを乞いながら、終わりを待ち続けたという。


 何日、何十日、何か月そうしていただろう。あるとき男は、自らを終わらせる方法に辿り着く。自らの墓を作れば良いのだと。男はギシギシと軋む体を引きずり、もう随分と前にこしらえた吸血鬼の墓の隣に、もう一つの墓を作り始めた。


 根拠などどこにも無く始めたことだったが、墓を作り終えたとき、男は自らの体を縛り付けていたなにかが手を放し、酷く解放されたような気分になったらしい。


『これでやっと終われる』


 そう几帳面で丁寧な字で締めてある一文の横に、最後になにかを言い忘れたかのように『最後の一本は――』と、殴り書きのような文字が書き綴られていた。彼はきっとここで力尽きたのではないだろうか。


「そういう話だ。おい、聞いていた、か……」

「フーッ……ン……、フーッ……」


 ノートを閉じ、オリビアの方を覗き見る。すると、いつの間にか再びその目が赤く染まり、次の瞬間――。


「待っ――ヅッ……」


 首筋に走る鋭い痛み。飛び掛かって来たオリビアに噛まれたらしい。息を荒げながら牙を突き立て、その合間からこぼれた血に舌を這わせて舐めとろうとするこの様子を見るに、もうとっくに限界だったのだろう。


 首筋の痛みはいつしか、溺れてしまいそうな程に濃く深く、甘い痺れを伴うような快感へと変わっていた。


 粘度を伴うどこまでも沈み込んでしまいそうな快楽の底。それに沈んでしまわないようしっかりと気を張り詰めると、オリビアに組み付かれたまま、なんとか俺は立ち上がった。


 ベッドはどこだ。


 よろよろと、寝室を探して歩く。途中何度も意識を失いそうになりながらも、首筋に嚙みついたオリビアをタップして制御を試みる。が、今日は本当に腹が減っていたようで、全く口を離す気配が無い。


 薄れ行く意識の中、どうにか寝室を見つけると、俺はオリビアに噛みつかれたままベッドに仰向けになって倒れ込む。


「ハッ……ハッ……ハッ……。……おい、もう良い、だろ……。このまま、だと……死ぬ……」


 そう言いながら、首筋に噛みついたオリビアの首元に手刀を見舞う。すると。


「ヴェッ⁉ …………、あっ、えっ……あ、えっと……あの……」


 目を白黒させて呆けた顔をする。どうやら意識を取り戻したようだ。


「……ハァ……もう、十分……だろ……ハァ……」

「あ、あぁ‼ う、うん……その、ご馳走様、でした……」


 呑気な奴だ。こちとら貧血で今にも死んでしまいそうだというのに。


「そ、その……ごめん、ね? だって、あの……イショの話を聞いていると、なんだかとっても、お腹が空いちゃって……」

「……ハァ。……一体お前は、どういう感性をしているんだ……」

「だけどいつものことながら、プルートの血は本当に美味しいねぇ。正に最後の晩餐にはもってこいだよ」

「…………、おい、ギブアンドテイクだぞ」

「えっ……? キャッ⁉」


 俺は体を反転させ、オリビアをベッドに押し倒して抵抗されないように両腕を固定すると、おもむろにこいつの首元に顔を近付ける。


「や、止め……プルート……こ、怖い、よ……」

「うるさい。俺だって、腹が減った。お前のも、寄越せ」


 オリビアの首に巻かれているレース生地をまくると、そこには幾度も噛みついてできた青あざが残っていた。俺に牙は無いが、こいつの血を吸うのにはもう慣れたものだ。首筋に噛みつくと、薄い皮膚の下にあるトクトクと脈を打つ物を目指して顎に力を加える。


「あっ……や……んんッ……」


 嬌声にも似た声。思いの外容易く裂ける皮膚。そこからブワッと口の中に広がる液体。渋く、酸っぱく、やや冷たく、そしてただただ苦い。しかしその赤い液体から香る果物のような香気が、俺の中のなにかを刺激して、もっと、もっとと、その液体を欲しているかのようだ。


 あるところで俺の奥底にある理性が働き、首筋から口を離すと、視界の先に、痛みか、或いは別の何かをじっとこらえるように目を瞑るオリビアの姿が目に入った。その様子を見た俺は――。


「お前の血は……飲めなくはない。が、渋くて酸っぱくて、旨いとは冗談でも言えないな」


 頭の中のなにかを払拭すべく、そう罵倒の言葉を吐き捨てた。


「――――⁉ はっ⁉ ハァー⁉ いやいやいや‼ そんなことは無いでしょ⁉ 私の血は世界一おいしい血に決まっているんですけど⁉ 吸血鬼界でも、人間界でだって他に比類することのできない極上の一滴に決まっているんですけど⁉ 比べたことはありませんけど‼」

「そうなのか。なら、確かめる為にもう一口寄越せ」

「ウヒッ……ちょ、ちょっと待――。……あっ、ちょ! ね、ねぇ、あれ、あそこにあるのってさ……」


 再び首筋に口を付けようとすると、オリビアが俺の後ろを指さす。そこには、並々と中身の残った一本のワインが鎮座していた。それを見つけた俺たちは、意図せず顔を見合わせる。



 ***



 台所に戻って来た俺たちはその辺からグラスを拝借し、残ったテーブルに腰かける。用意したグラスは四つ。俺と、蝙蝠女と、それにこの家の主の前に一つと、その向かいに一つずつ。随分と古い物のようなので、コルクを割らないように恐る恐るスクリューを捻じった。デュン、と音を立てて無事にコルクが抜けると、まずはこの家の主と向かいの席のグラスに並々とワインを注ぎ、それから続いて残った俺たちの順番だ。


「こういうとき、何か言った方が良いのかな?」

「何か、とは?」

「いやほら、人間は神様にどうたらこうたらとか、感謝いたしますとかなんとか、そんなことを言うんじゃないの?」

「知らん。俺は無神論者だ」

「それじゃあ、ワインについてのうんちくとか?」

「お前、語れるのか?」

「そうね。そう、例えばこの香りは……なんか、高原の、……高原が、……高原によって……」

「お前の頭の中には高原しか言葉が存在しないのか」

「そんなこと言ったって‼ ワインのことなんてなにも知らないし‼」

「なら黙って飲め」

「で、でもさ‼ これってきっと大切な一本だったんじゃないの⁉ しかも、もしかしたら世界で最後のワインかもしれないんだよ⁉ 黙って飲むなんて、そんなの、なんかこう……勿体ないでしょ?」

「俺たちにできることなんて、この二人を見届けてやるくらいさ。別に運命がどうとか言うつもりも無いが、これが人間と吸血鬼が残した最後の一本だって言うなら、人間と吸血鬼である俺たちがその最後の思いを見届けて、忘れないでいるくらいなんじゃないか」

「……ねぇ、プルートさん? その素敵な台詞ですが、私が言ったってことにはなりませんかね?」

「結果だけで良いなら好きにしろ」

「ほ、本当っすか? へへ、やったぜ!」

「その代わり、お前は生涯馬鹿蝙蝠のままだがな」

「あー‼ またそうやって私のことをバカにしてさー‼ 思いを見届けるって言うならさ、もっとこの二人みたいに……なんて言うか――」


 ギャアギャアと騒ぐ馬鹿蝙蝠を無視して、俺はグラスに注がれた液体を口に含んだ。酸っぱい。渋い。そして苦い。ややカビっぽいテイストに、ザワークラウトのようなひねた酸味が口に広がる。飲めなくはないが、正直、食料不足の今の状況でも好んで口にしたい代物とは言い難い。


 対して目の前の蝙蝠女はどこで学んだのか、グラスをスウィングさせてみたり、香りを嗅いでみたり、色を確かめるようにした後、そっと液体を口に含んで咀嚼するようにしてから飲み下して見せた。その姿は想像以上に様になっていて、俺はなにやら複雑な気分にさせられる。


「……あぁ、これは格別の味だねぇ……。プルートの血も美味しいけれど、このワインはとても美味しいワインだよ」

「そうか、それは良かったな」

「おや? おやおや~? プルートさーん、もしかしてジェラシーですか~? 大丈夫ですよ~。ちゃぁんと、プルートさんの血の方がおいしかったですって~。だから~、そんなにひねくれた顔をしないで下さいよ~」

「いや、良かったよ。このワインにはちょっとしたいわくが付いているようでな。もしかしたらお前が悶え苦しむんじゃないかと考えていた」

「……えっ、あ、あの……い、いわくって……?」

「言わなかったが、このワインはな、この家の主が百体の吸血鬼を葬った際に贈呈された記念品だったらしいぞ」

「………? ――――⁉ ――――ッ⁉⁉」



 ***



 数日後。休息を終え、やるべきことを終えた俺は、最後に家の中に残されていた数少ない食料を車に積み込むと――。


「おい白蝙蝠、早く起きろ。置いて行くぞ」

「いやー、だってさー、なんかまだ空が明るいじゃんすかー。それにまだちょっと眠いですしー」

「そうか。じゃあな」

「ちょーっと待って下さいって‼ ウソウソ‼ 準備万端‼ 車に乗るのだーい好き‼ えっ……? ちょ、嘘でしょ⁉ 待ってよプルートさん‼ 置いて行かないで下さいってばー‼」


 置いて行く素振りを見せて、愚図る蝙蝠女をどうにか車に乗せた。毎回建物を見つける度のことなので慣れたものなのだが、正直、本当に置いていってやろうかとも思う。

 

「それで、今度はどこに行くつもりなの?」

「ここから西に暫く行ったところに少し大きめの街がある。そこを目指す」

「大きい街⁉ やった! それなら暫くはそこで休めるんだね‼」

「街が残っていればな」

「い、嫌なことを言わないで下さいよ~。大丈夫ですって、私はラッキーガールですのでー」

「それに今日から三日はかかるだろう」

「ハァ⁉ 三日⁉ じゃ、じゃあ、つまり……」

「三日は車中泊だ」

「やだやだやだッ‼ 私はもうこの家から離れない‼ ずーっとあの二人と一緒にいるんだいッ‼」

「俺は止めないが」

「…………。……ッ、……んぅぅぅッ‼」

「気は済んだか?」

「……クスン。……うん。バイバイ、二人共。一周したら、必ずまた戻って来るからね……」


 蝙蝠女は視線を車の後方に向けて、自ら後ろ髪を引くようなことを言う。対して俺は一瞬だけ車のバックミラーを一瞥し、心の内側で家に泊めてもらった礼と別れを二人に告げる。


 また戻って来る、か。


 俺たちの旅路に後戻りは無い。ただ前へと続く道をひたすらに走り続け、果てに辿り着けばそこが終わりなのだろうと勝手に決めていた。しかしどうやら、この女はそうは考えていないらしい。俺とは違って、何度でもこの国を巡る算段であるらしい。


 全く気の長い話だ。それに、旅の道連れにこんな間の抜けた蝙蝠女を選ばなければならないなんて、随分と損な役回りというもの。


 まぁ、それも良いだろう。どうせアテなど無い。後戻りをするのではなく、俺たちの血潮が巡り続ける限り、目の前に続く旅路を、何度でも、どこまでも進んでやろうじゃないか。


 旅路は巡る。

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