第2話 祝福②

出会った時、彼は自分を「カラスマ」と名乗った。

烏に丸と書いて、カラスマらしい。


珍しい名前ね、苗字?


そう聞くと彼はイエスともノーともつかない、曖昧な頷きを返した。


「待たせたね」


仕事を終えたあと、ホテルのラフなバーで一人グラスを空けていた私に、カラスマは声を掛けてきた。


私は昨日、仕事で大きなミスを起こした。


起こしてしまった失敗に、自分が頭から丸飲みされてしまったかのようだった。

体はずしりと重く、頭が鈍く痛んだ。


一人になりたかったが、独りにはなりたくなかった。


そんな自分を持て余して、ふらふらと足が向いた先が、以前通りかかった外苑前にあるホテルのバーだった。


ホテルの二階にはオールデイダイニングのレストランがあって、その中に洒落たバーカウンターがあった。


下から見上げれば、大通りに面した開放的なテラスから、ほんのりと人々のざわめきが伝わってきた。

行き交う人影が逆光で、影絵のように浮かんでは消える。


ずっと行きたかった場所だったのに、ほとんど上の空で、重い体を引きずるようにして店に入る。


東北の田舎から上京し、都内の法律事務所の事務局で働いて、二年目になる。


自分には人と比べて、事務的な能力がほとほと無いのだと、自覚してからしばらくが経っていた。


勤めている事務所はここ数年で、急成長を遂げていた。

弁護士や事務員含め、総勢百人を超える人員を率いる大所帯。


更なる業務の拡大と効率化のため、事務所は春の新年度に旧来の体制を大きく変えた。


それまで個人で担当させていた案件を、新たに編成したチームで担当させ、処理スピードの加速を図った。


一人でやっていた頃は、期限さえ守っていれば問題はなく、特段指摘を受けることもなかった。


だが同僚達とチームを組んだことで、周りとの能力差が次第に明らかとなっていった。


自分が案件を一件、弁護士へ報告を完了させたところで、周りは二件、仕事の早い同僚は三件と対応を終えている。

一定の基準さえ保っていれば、丁寧に進めることよりも、量をこなすことの方が優先され、重視されることは分かっていたはずだった。


だが、自分の中の仕事に対する妙なこだわりが邪魔をした。


スピードを重視し、まるで機械的に処理を進めていくように見えた同僚や、事務所そのものの方針に対し、真っ向から対立してしまった。


関わっている案件の背景には、一人の人間としての依頼者がいる。

一つ一つ、依頼者の気持ちを汲みながら、丁寧に進めていきたかった。


だが、それは言い訳に過ぎないのもどこかで分かっていた。


結局は独りよがりだった。


事務所内では分業化が進んでいた。

相手方との交渉を担当する弁護士の、事務方を担うのが自分が属するチームだ。


依頼者が望んでいるのは共感でも、同情でもなく、早急な問題解決だった。


仮に依頼者が気持ちを汲んでほしいと思ったとしても、それは直接関わる弁護士や、他部署の事務局が対応する。


自分に求められていること。

役目。


自分がしたいこと。

仕事に対する情熱のようなもの。


そして自分が欲しいもの。

評価。


全てをごちゃごちゃにしていた。


負けず嫌いと、どこか恰好をつけたがる自分の性格が拍車をかけていった。


出来る奴だと思われたい。

周りを失望させたくない。


そんな思いから自ら進んで、処理しきれない量の仕事を、どんどん背負いこんでいった。


誰にも相談どころか弱音すら吐けず、日を追うごとに劣等感だけが目の前を覆っていく。


チームの荷物になっていると自分を責め、何とか食らいついていこうと足掻いていた中で、今日のミスは起きた。


スピードの遅さを埋め合わせするかのように、いつもの如く、昼休みを返上しながら仕事をしていたところだった。


最近、ろくに食事を摂っていなかった。


朝食は出勤後にデスクで、仕事をしながら軽く済ます。

夜は残業後、家に帰るとそのまま、気を失うように寝てしまうことが続いていた。


自分の時間のほとんどを仕事に使っている。

その事実で、どうにか自分を保っていた。


今思うと、限界を迎えていたのだろう。


法的手続きに関する書類を、本来送る相手の企業と、全く違う相手先にFAXで送信してしまった。


やってしまった。

完全に情報漏洩だった。


書類には依頼人の名前がずらりと記載されている。


誤って送付された側の企業は、表沙汰にすれば、いくらでも事務所にダメージを与えることができた。


不幸中の幸いで、送った相手はこれまでの交渉の中でも、比較的良好な関係を築いていた企業だった。

先方はなかったこととして、目を瞑ってくれた。


対外的には大事に至らなかったが、当然のことながら、上からは大目玉をくらった。


生まれて初めて始末書を書いた手は、自分でも見たことのないほど震えていた。


周りの目が痛かった。


同情的な言葉も、優しい言葉も、全てが肌にひりつくように痛く感じられて、息ができなかった。


定時になって、逃げるように職場を飛び出した。


誰かの、何かのせいにしたくて。

でも、全部自分の招いたことだとも、どこかで分かっていた。


「待たせたね」


四杯目に頼んだホットのサングリアを、手のひらでそっと包みながら、ぼんやりと外を眺めていた時だった。


カラスマは、まるで待ち合わせに遅れてきた恋人のように、そっと私を覗き込むと隣に座った。


座った時に、ふわりと花束のような匂いが香った。

それはどこか懐かしくて、柔らかくて、でもすぐに消えてなくなってしまった。

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