第二章 母殺しの煙美人

第1話 悪人

 闇夜の下、紅の宮廷は燃え盛っていた。その広い建屋全体から火が噴き出していて、まるで一つの街が火に飲み込まれたかのようだ。火の粉がそこら中に舞い、黒煙が夜空を覆っている。冬の夜の空気をも熱く熱せられる宮廷の近くに、女剣士は炎を見上げながら立ち尽くしていた。紅と黒の衣装にこびりついた赤黒い血が、炎の明かりを受けてぎらぎらと輝く。彼女……フェンレイ豊蕾は、刀ひとつだけを携え、無表情のまま佇んでいた。周りでは男たちが慌ただしく動き回り、荒い声をあげながら消火活動をしていたが、彼女は動かなかった。動けなかったのだ。

 騒動の前、黒髪は後ろで縛られ綺麗に整えられていたはずだが、後ろ髪はほどかれ、乱れて垂れ落ちている。目元の隈は色濃く、顔色は青白い。唇は乾燥してひび割れ、美しい顔立ちはひどく歪んでいた。まなじりの上がった大きな目は、死に際の犬のようにうつろだ。その褐色の瞳は、炎の揺らめきに合わせてちらちらと赤く光っていた。


 あのひとが亡くなってもなお、私は何もしてあげられないのか。フェンレイは睿霤ルイリョウの手によって命を絶たれた王女菊花ジファのため、その母の遺品である木掘りの髪留めを宮廷から持ち出し、彼女と共に埋葬しようとしていたのだ。だが宮廷は目の前で燃えている。木製の髪留めもまた、燃えてしまった。

 フェンレイの頭の中で重苦しい感情が渦巻く。後悔や悲哀、無力感や虚無感といった負の感情が、重く暗く心にのしかかる。

 菊花様は死んだ。もうこの世にはいない。生涯をかけて守ると誓ったのに、守れなかった。いや、私が殺したのだ。私は最低だ。最悪だ。なぜ私などが生きているのか。


「……あ……」

 不意に甲高い女の声がした。フェンレイが振り向くと、そこには一人の女がいた。一目見て異人だとわかるほど、彼女の容姿は異国情緒に満ちていた。

 地面にむけて広がる赤い腰布、胸元を覆う袖なしの茶色い羽織、その下には白地の肌着が見える。頭に被られた赤い頭巾は茶色い髪を覆っていた。後ろに一本でまとめられた大きな三つ編みの髪が揺れている。白塗りかというほどの白い肌の色をしているが、頬は赤子のように赤みを帯びており血色は良い。そして何より、大きなたれ目の中で輝く瞳は深い蒼色をしていた。それは吸い込まれてしまいそうなほどの、宝石のような輝きを宿している。その瞳は振り向いたフェンレイの視線をしっかりと捉えていた。フェンレイがゆっくりと焦点を合わせて見つめると、蒼がゆらりと揺れた。

 息をのむ異国の目には、フェンレイの光のない褐色の瞳が火の明かりをただ反射している、まるで死人のような悲壮の顔が映っていた。

 フェンレイは重たい思考の中、目の前にいる人物が認識できるまで、じっと彼女を見つめていた。沈黙が流れる間、見つめ合うふたり。

 人ではない。フェンレイは彼女を見て思う。髪や瞳の色の違いから、異邦人であるという認識を通り越して錯覚した。フェンレイはぶつぶつと呟きはじめる。

「地獄の使者か。肌や髪の色は薄く、瞳は青。ほんとうに、菊花様が言っていた通りだ」

 自身が話す言語など理解できないだろうと、彼女が目を丸くするのにも構わず呟き続けた。

「寒冷で痩せた土地、西方の……"絶望の地"から、お前はやってきたのか。あのひとを死なせた私を迎えに」

 過去、菊花が書物を読み上げているのを聞いて知ったことだ。西方の地に、こんな特徴の人間がいるということ。フェンレイはその地方を"絶望の地"と揶揄したことがあった。その記憶が、この異国の女は自身を死の世界へ追いやる絶望、地獄の使いだ、と認識させたのだ。

「そうか、なら見届けてくれ。そして私をあのひと……菊花様の元へ、連れていってくれ」

 抜刀。刃が火の光を反射しきらめく。もう終わりにしたい。菊花様に逢いたい。そのまま刃を、右から自身の首元へ。


 首筋に刃の冷たさを感じようというとき、フェンレイは手首に強烈な圧力を感じた。刀を引こうとするが敵わない。異国の女に手をつかまれていた。彼女は険しい表情を浮かべながら、フェンレイの腕を強く握りしめている。

「はなせ、地獄の使いが!」

「違うわ。地獄の使いじゃない」

 異国の女ははっきりと言った。フェンレイは思わず身をすくめる。その女は確かに返事をしたのだ。

「お前、私の言語を……」

 突然のことに驚いていると、異国の女は握る手にさらに力を込める。刀を放しそうになるほどに痛い。

「やめろ……」

「ジファさまって人に逢いたいの?」

 頭の中が白くなる。さっき喋ったことが全て、この女に伝わってしまったというのか。

「お前の知ったことでは……」

「ワタシもね、逢いたいひとがいるの」

 彼女はフェンレイの言葉を遮るように続けた。

「すごく、逢いたいの」

 異国の女は青玉のような輝きを宿す瞳を向けてくる。その目は一心にフェンレイを見つめていた。フェンレイはその深さに飲み込まれてしまいそうになる。

「でもね。逢えないの。悪いコだから」

「悪い子?」

「そう。悪いことをしたの」

 異国の女は少し俯いてから、再びフェンレイを見上げる。その目は依然として深く、悲しみをたたえていた。

「悪いコは地獄行きよ。そこにそのひとはいないの」

「だからなんだ。私の知ったことか!」

「あなたはどうなの?」

「……何?」

 フェンレイの背筋に冷たいものが走った。異国の女は握る手の力を弱めることなく、まっすぐな眼差しで問いかけてくる。

「あなたは、悪いコ?」

 悪いコ。フェンレイの心臓は跳ねあがった。

「違う」

「本当に? ”あのひとを死なせた”のでしょう?」

 貫いてくるような青い瞳に、フェンレイは目を逸らした。

「違う……私は……」

「ワタシと同じ、悪いコよ。二人とも、死んでも償えない、大切なひとに逢えない、悪いコ」

 フェンレイは刀が手から離れてしまうのを感じた。だが拾えなかった。動けないのだ。悪い子という言葉が鋭く胸に刺さり、血が噴き出したような気がしたから。あのとき、全力で走っていれば。本気で護っていれば。頭の中が熱く、めまいがする。心臓が早鐘を打ち鳴らしている。胸が苦しい。息もできないほどに。

「私は……」

「アナタは悪いコなのよ……」

 どす黒い渦巻きが轟音を鳴らす。頭の中が激しくうごめいて、ねじ切れそうな程に硬く、熱く痛む。頭が割れる。

「う、うぅっ、うぅっ」

 歯を嚙みしめていた。フェンレイの中で何かが崩壊した。菊花様とは逢えない。たとえ死んでも。私は罪人だから。あるのは絶望のみ。

「う、ううぅぅっ!!!」

 腹の底から湧き出る声。こめかみが痙攣する。涙がとめどなく流れ出る。全身が冷え固まる。視界から色が抜けた。

 轟音のなか、視界は暗い地面を映した。何も聞こえず、体を支える異国の女の感触もない。

 ただただ自身の体が重い。フェンレイは動こうという意思を忘れた。まるで自分が自分ではないようだった。

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