第7話

 自動販売機からペットボトルを引っ張り出していた香奈は、視線を感じて振り返った。

 今年のコスプレは完成度が高くて注目を集めている自覚はあるが、この路地は交差点の裏側の穴場で人の姿もまばらだ。そんなに声をかけられることもないと思ったのだが。

(なんか、落ちてる?)

 少し離れた植え込みから、白い小さなモノがこちらを向いている。

 何故か目を離せなくなり、気づけば近づいて手に取っていた。

「どうしたの、香奈?」

 一緒に飲み物の調達に来ていた友人の芽依が怪訝な顔で呼んだ。

「そこに落ちてて……。ストラップみたいな……」

 自動販売機の明かりに浮かび上がった人形の姿に、自分が勘違いしていたことに気づく。

「うわ、めちゃめちゃ高そうなんですけど」

 目を閉じ、口元に優しそうな笑みを浮かべた女性の人形は、髪の毛まで丁寧に彫られている。手触りも石みたいに硬く、いかにも値打ちがありそうだ。

「どれどれ? ぅわ、マジで高そう! これ象牙じゃない? おじいちゃんがこんな感じのハンコ持ってたよ」

「あっちにお巡りさんいたっけ……。届けてあげようかな……」

 近くを通らないかと目をやっていると、友人がゾッとした顔で後ずさった。

「? どうしたの?」

「ね、ねえ、その人形……、今……、目が開かなかった……?」

「え? なんともないけど……?」

 人形は見つけた時と同じ、微笑を浮かべたままだ。目も閉じている。

「見間違いじゃない? こんな硬いのに動くわけないじゃん」

「動いてたってば! そ、そこに置いとこうよ! 落とした人、取りに来るって!! ほら、皆の分の飲み物も買ったし、もう行くよ!!」

「ま、待ってよ、芽依……!」

 友人の勢いに圧されて、人形を植え込みに戻す。歩き出すなり、悪寒が走った。

(なんだろ……、寒い……。それに……、)

 喉がやたら渇いてしかたがない。

「香奈? どうしたの?」

「ん……、なんか、喉が渇いて……」

 買ったばかりのペットボトルを開け、一気に飲み干した。しかし、渇きは収まるどころか、酷くなっていく。

「もっと……、お水……、おみずっっ」

「か、香奈!? それ、三本目だよ!?」

 頼まれていた友人の分を全て飲み干し、それでも収まることのない渇きに意識が霞む。

 頭からウィッグがずり落ちた。ゲームキャラを模した衣装の袖がガクガクと上下し、手から落ちたペットボトルがコンクリートに染みを作る。

「う……あ……、かわ……く……っ」

「香奈!? 待ってて、救急車呼んで……」

 赤が散った。

 青黒く変色した腕が、同じコスプレに身を包んだ芽依の体を貫いていた。

 肉が沸騰したように腕が盛り上がった。細い体が音を立てて膨れ上がり、衣装を引き千切って体が伸びてゆく。

 渇きを訴える声が獣のような咆哮に変わる中、植え込みに横たわった人形の口が、にんまりと笑んだ。

 女神様のような優しい表情を歪め、人形は狂ったような哄笑を残して闇へと消えていった。



 赤い水滴が散ったように、結界の外側に赤い染みが浮かんだ。

 人間の目には見えない赤は広がり、不規則な濃淡を描いて消えて行く。

「良くないなあ……」

 呟き、望は胸元の水晶を手に取った。水晶から望のものではない霊気がうっすらと漂う。さっきの短冊と同じ、何らかの霊具に違いない。

(女の人の……、悲鳴……?)

 微かに聞こえた声に耳を澄ますが、もう何も聞こえない。結界の内側の音が外に聞こえづらいのと同じように、外からの音もかなり遮断されている。

 それでも聞こえたということは、かなり大きな声だったということだ。あるいは、霊的なモノだったのか。

(忙しそう……)

 水晶を持つ反対側の手を口元にやり、望はボソボソと何事か呟いている。いつになく真面目な顔だ。

 声をかけづらいので、結界の外を窺う。

(澱みが……)

 一帯にかかる靄が急に濃くなった気がする。ちょうど三日前、根付を失くした時の空気に似ている。

「嫌な濁り方だなあ……」

 独り言のような声がした。水晶から顔を上げ、望はぐるりと周りを見回した。

「千世さんは、霊気を物に込めたりとかできる?」

「できるけど……」

「よかった。これ、渡しておくね」

 差し出された赤い短冊を思わず受け取った。霊気が織り込まれているらしい短冊には皺も折れ目もない。

(……どこから出したんだろう……?)

 望は鞄を持っていない。会った時から手ぶらだ。物を仕舞える場所なんて、ポケットくらいだが、上着やズボンのポケットには何かが入っている様子はない。

 先ほどのクッキーといい、この短冊といい、いったいどこに入れて持ち歩いていたのだろう?

「その札に霊気を集中させれば結界を張り直せるんだけど、どう? できそう?」

「これなら……、できると思う」

 路銀を稼ぐ為に、先輩猫又の手伝いを随分とやってきた。邪霊退治の援護が主だったが、近頃は試作品の耐久力検査の仕事も多く、物に霊気を込めるのはかなり得意だ。

 今にして思えば、あの仕事の依頼元は現衆だったのかもしれない。

「呼び出されちゃったから、ちょっと行ってくるよ。僕が離れたら結界が消えちゃうから、その札で張り直してくれる?」

「呼び出されたって……、どこに? こんなに澱んでるよ……?」

「澱んでからが僕の仕事の時間なんだ。これから、邪が沢山出てくる……」

 ――え……?

 ゾワリ、と背中の毛が逆立った。

 屋上で感じた得たいの知れない恐怖が甦ってくる。

(なんだろう……、この感じ……)

 怖いのに、どこか懐かしい。不思議な感覚だった。

「すぐに戻るから、ここにいてね」

 にこにこと笑みを浮かべて言い、彼は結界から出て駆け出した。空色の上着が、交差点の仮装集団に隠れてすぐに見えなくなる。

 ――あ……

 遠い日、あの人と一緒に見送った人達の背中が浮かんだ。彼らは戦場へ行って――、もう戻ってこなかった。

「ま、待ってよ……!」

 結界に触れると、シャボン玉が弾けるように赤い球体がポチっと消えた。

 無数の笑い声とアナウンスの声、澱んだ空気が戻ってくる。

(どうしよう……)

 迷ったのは数秒だった。

 風呂敷に短冊を押し込み、望が走って行った交差点の向こうへと駆け出した。


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