第4章  『正しいこと、の連鎖』⑯

 俺たちHR特別室の面々は、数十メートル先の風景を黙って見ていた。


 BAND JAPANのオフィスが入るビジネスビルの一階ロビー。しかしそれは俺が正木を待ち伏せたあのスタバのある表側ではなく、ビル関係者――それも、一定のレベルを満たしたVIPだけが利用できるらしい特別な裏口だ。


 高級ホテルを思わせるゴージャスな作りのラウンジの先に、自動ドアが見える。その向こうのロータリーに、高そうな黒塗りのワンボックスが停まり、モーニングのようなかしこまった服装をした運転手が、前傾姿勢で滑るように出てきた。背景には、東京のど真ん中だということを忘れそうな漆喰塗りの壁と豊かな竹林。ここはビルとビルの間に作られた秘密の空間なのだ。


 車椅子を押す槙原社長が運転手に何かを言い、運転手が何度も頷く。離れているし、自動ドアで阻まれているので、槇原が何と言っているのかはわからない。車椅子に乗っている都筑の顔も、槇原の体に遮られて見えない。


 俺はぼんやりと、先程までいた社長室でのやりとりを思い出す。


 都筑や槙原社長が、唯一の「正しいこと」として信じてきた、高木生命の伝統。会社を辞め、身体を壊して老人ホームに入った都筑は、そこで初めて、異なる価値観を持つ者同士が助け合い、認め合う姿を目の当たりにした。同時に、それまで自分が振りかざしてきた価値観が、まるで通用しないことを知ったのだ。


<わかるか、槇原。俺は老人ホームでは“弱者”だったんだよ>


 部屋を出る直前、呻くように言った都筑の言葉が蘇る。


「さ、行きましょ」


 高橋が言い、「そうしよう」と室長も同意する。保科は無言でスマホをいじっていたが、くるりと振り返って歩き始める。


「ちょ、ちょっと……あの」


 俺を置いてけぼりに歩いていく3人の後ろ姿に、思わず声をかけた。


「何よ」


 高橋が振り返り、面倒臭そうに言う。


「これで終わりですか? 俺たち、あの爺さんと社長を会わせただけじゃないですか。申込書も回収してないし」


 そう。そうだ。槙原社長は都筑との会話に夢中で、途中から俺たちのことなんて忘れていたに違いない。長く話したせいか都筑が疲労を訴えると、槙原社長自ら車椅子を押し、ここまで送ってきた。俺たちだけ社長室に残るわけにもいかず、一緒についてきたのだ。


「これがプレゼンなんですか? そもそもAAは、具体的なプランを提示していないじゃないですか」


「プラン?」


 俺の言葉に、高橋が眉間にシワを寄せた。あんた何言ってんのよ、という顔だ。


「そ、そうですよ。プレゼンっていうのは、プランを提案するものじゃないですか。掲載媒体とかサイズをどうするのか、いつからいつまで掲載するのか、とか――」


「違うわ」


 俺の言葉を食い気味に、高橋はピシャリと言った。豊かな長い髪をかきあげ、見下すように俺を睨む。


「言ったでしょ。プレゼンで提示するのは、価値観よ。そして、その価値観に賛同するかどうかは、クライアントが決めること」


 あ……と思う。価値観の提示。そうだ、確かに高橋はそんなようなことを言っていた。


 思わず黙り込むと、高橋の隣に立つ室長が、いつものニコニコした顔で言った。


「あとは社長の判断に任せようじゃないか。ま、きっと何かは伝わったはずさ」


「……そ、そんなに簡単に、あの社長が変わるとは思えませんけど」


 苦し紛れに言うと、今度は保科が、スマホに視線を落としたまま言った。


「そりゃ簡単じゃないよ。だから俺たちにこの案件が回ってきたんじゃん」





 駅に入ってしまうと、人の多さに、俺たちはほとんど会話することもできなくなった。


 サラリーマンで満載の地下鉄に揺られながら、俺はぼんやりと考える。


 営業とは何か。


 そもそも、仕事とは何か。


 プレゼンは価値観の提示だ、と高橋は言った。そして、それに賛同するかどうかはクライアントが決めることだと。いまいちピンと来ないが、価値観という言葉をプランに、賛同という言葉を契約に変えれば、印象は変わってくる。プレゼンはプランの提示で、契約するかどうかはクライアントが決めること。


 そう考えれば、何もおかしなことなどない。当たり前のことじゃないかと思う自分もいる。


 ……だが、そうじゃない自分もいる。


 本当に「当たり前」だろうか。プランを考え、それを提示し、契約するかどうかはクライアントに委ねる。俺は今まで、そういう営業をしてきただろうか。


 違うような気がした。


 俺がやってきたのは、プランを考えることでも、契約を相手に委ねることでもない。俺の頭にあったのは、そう、「どうすれば契約がもらえるか」だけだった。相手がうんと言いやすいプラン、相手に気に入られるためのごますり、丁寧すぎるほどのお礼メール、相手の上司に宛てた手書きの手紙。それらすべてが、「契約」のためだった。


 それが営業の仕事だ、と思っていたから。


 ――地下鉄の車内、俺はぼんやりと、少し離れた場所にいるHR特別室の3人を見る。乗客でごった返す車内で、室長はあのゆるい笑顔でバスケットのシュートのような動きをし、それを隣の高橋がたしなめる。保科は我関せず、2人に背を向ける格好で、スマホに何かを打ち込んでいる。


 営業とは何か。


 仕事とは何か。


 あの人たちと一緒にいると、それがわからなくなる。


 もしかしたら、槙原社長も同じだったのかもしれない。自分が「当たり前」だと思っていた価値観が、高橋や都筑によって揺さぶられた。自分の考える当たり前は当たり前じゃなかったのかもしれない。もっと別の、それも、もっと素晴らしい道が他にあるのかもしれない、と。


 高橋の迷いのない言葉が、そして、都筑という憧れの先輩からの必死の訴えが、槙原社長の価値観を揺さぶった。もちろん葛藤はあるだろう。人間はきっと、それまで自分が信じてきた価値観を、そう簡単には捨てられない。それはそのまま、過去の自分の否定になるのではないかと思うからだ。


 ……だが、HR特別室の面々は、槇原社長を否定するためだけにここまでしたのだろうか?


 高橋、保科、そして室長。以前の俺なら「頭のおかしい奴ら」で切り捨てたであろう彼らが、いま、俺の価値観を激しく揺さぶっている。

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