第4章  『正しいこと、の連鎖』③

「失礼します」


 怯えからか、男の声は掠れていた。社長室、と仰々しい明朝体で書かれたプレートの下、他とは明らかに違う、重厚な作りの扉が開いていく。


 部屋の中の様子が徐々に明らかになっていく。男ほどではないが、俺も当然、緊張を感じていた。何しろ、BAND JAPANの社長室なのだ。もっとも、当初イメージしていた状況とはひどく違っているわけだが。


 最初に気付いたのは、敷かれた赤黒い絨毯だ。毛足が長く、ひと目で高級品と分かる。そして、壁に沿って設えられた棚。全面ガラス張りで、何かのトロフィーや楯、高そうなオブジェが並ぶ。その横にはゆったりしたベージュ色のソファセットとローテーブル。そこには一人の若者が座っていた。まさか彼が社長? ソファのリラックス感と明らかにアンマッチな、背筋をピンと伸ばした座り方。


 やがて扉は全開になり、俺たちの正面奥、壁際に置かれた大きな執務机の向こうに、俺は一人の男の姿を認めた。


 男は余裕のある笑みを浮かべ、こちらを見ていた。間違いない、社長はこっちだ。浅黒い肌、きっちりとオールバックにされたシルバーの髪、派手なネクタイ。五十代半ばくらいだろうか。机の上で組んだ手にはゴテゴテと宝石のようなものがついた腕時計をはめている。男はゆっくりと立ち上がり、スーツのボタンを丁寧に止めながらこちらに進み出た。


「社長、失礼いたします。こちら、アドテックアドヴァンスの――」


「ああ、わかってる」


 やはりこの男が社長のようだ。身長が高く、引き締まった体つきをしている。着ているスーツもかなり高そうだ。だが、なんというか、一般的なサラリーマンとはセンスが違う。全体的に妙にゆったりしたシルエットで、ビジネスマンというより、それなりの地位にあるヤクザのように見える。


「はじめまして、槇原です」


 男はそう言って、高橋に名刺を差し出した。真っ白の紙に槇原忠生という名前だけが書かれた、政治家のような名刺。


「高橋です。よろしくお願いたします」


 高橋も自分の名刺を差し出す。槇原はそれを受け取りつつ、名刺ではなく高橋の顔に視線を留めたまま、「よろしく」と目を細めた。まるで、値踏みするような、いやらしい目つきだった。


 俺も名刺を……と慌てて胸元を探ったが、槇原は気持ちいいほど躊躇なく俺を無視すると、「さあ、こちらにどうぞ」と高橋の肩に軽く触れるようにして、ソファの方に促した。


「さあ、座って」


 槙原社長はそう言って、さっきから微動だにせず座っている若者の隣に腰を下ろした。彼は一体何なのだろうか。年齢は俺と同じくらいだろう。重要なポジションに就いているような雰囲気でもない。


 槇原社長の向かい側に高橋が座り、俺はその隣だ。腰を下ろす瞬間、槙原社長が俺をチラリと見た。その顔には笑顔が浮かんでいたが、目は笑っていない。俺は居心地の悪さに思わず視線を落とした。


「それにしても、驚いたな。噂以上だ」


 槙原社長が背もたれにゆっくりともたれながら言って、隣の若者に「なあ?」と同意を求める。若者はピクリと肩を震わせると、満面の笑みを浮かべ、こちらが驚くような大声で言った。


「はい、大変おキレイで、自分も驚きました!」


 なんなのだこの男は。だが、それはそれとして、俺は直感的に、なぜ俺たちがこんな奥にまで招かれたのか理解しつつあった。普通の商談はあのジャングルみたいなロビーでやるのだと高橋が言っていた。それなのに俺たちは、あの厳重な二重扉を抜けて、しかも「社長室」にまで通された。なぜか。


 ……このエロオヤジが。


 社長は明らかに、高橋に興味を持っていた。詳しい経緯はわからないが、槇原社長は次の担当営業がすごい美人だという情報を得たのだろう。それで、自分のテリトリーに招き入れることにした。


 確かに高橋は、男たちの目を釘付けにするような美人だ。社長くらいの年代の男にとっては特に、たまらないのかもしれない。だが、それはあくまで「本音」の話だ。ビジネスの場、それも初対面の場で、女性の容姿について話題にするなんて。場合によっては「セクハラ」と捉えられてもおかしくない状況ではないか。


「私もこれまでたくさんの営業に会ってきたが、あなたのことは忘れないだろうな」


 まさかこの場で口説き始める気じゃねえだろうな。社長やこの部屋の雰囲気に飲まれていた俺も、さすがに怒りを感じる。だが、当の高橋は特に気にする様子もない。「光栄ですわ」と言いつつ、カバンの中から資料や書類を取り出し始める。慣れているのだろう。


 広告業界には、女性の営業も多い。仕事の中で、客からこの手の扱いを受けることも、ないとは言えない。いや、成績のよい女性営業たちは、むしろ自分の「女性性」をうまく使って契約を取っている面もあるのだろう。特に個人店や中小企業などが相手の営業二部や営業三部では、商談後の居酒屋につきあうことも珍しくないと聞いたことがある。いわゆる「枕」まではないにしろ、多少の「隙」を見せることは、重要な営業テクニックのひとつなのだと、他でもない女性営業自身が言っているのを聞いたこともある。


「お仕事の話をさせていただいても?」


 高橋が言うと、社長は笑った。


「おや、つれないね。……だが、そうしよう。美人の機嫌を損ねたくはないからな。おい柳、例のものを持ってこい」


 社長はそう言って、俺たちをここまで案内してきた痩せた男を呼び寄せる。柳と言うらしい。壁際で所在なく立ち尽くしていた柳原が慌ててソファに駆け寄り、クリアファイルに入った書類を一枚取り出し、社長に手渡す。槇原社長はそれを一瞥すると、テーブルの上に置き、ゆっくりと高橋の方に滑らせる。


「今回の件、これくらいの予算で考えているんだがね」


 俺は目を凝らしてその内容を伺う。見積のようだ。だが、AAの出した見積書ではなかった。左上に「B」のロゴが入った、BAND側のテンプレートで作られている。微かに「採用」の文字が見える。……おそらくは今回の採用予算の概算を出したものなのだろう。ここからでは細かい字までは見えないが、一番下にある合計金額はフォントサイズが大きく、よく見えた。


 ……1200万?


 いや、ちょっと待て。


 年間予算ということなのだろうか。それとも、数ヶ月から1年程度かけて行う新卒採用の話か。いや、それにしたって多すぎる。かつて新卒採用と言えば1000万円以上の受注も当たり前だったと営業一部の古株マネージャーに聞いたことがあるが、リーマンショック以降、業界全体で価格破壊が起こり、今では中途採用とほとんど変わらない金額で契約が結ばれることも多い。


 数週間で契約満了となる中途媒体に比べ、長ければ1年以上に渡って掲載が続く新卒媒体は、フォローする側にかかる負担もそれだけ大きくなる。中途採用と同じ金額では、とうていペイできないのだ。だから最近では、新卒案件を嫌う代理店も多い。何を隠そうAAも、内々では「新卒を避け、できるだけ中途案件を」という話は当たり前にされているのだ。


 ということは、今回も中途? だが、そうであればなおさら驚くべき金額だ。


 全国に支店を持つ飲食店や量販店などならまだわかる。10名以上の社員に加え、数百名のアルバイトスタッフを確保するというような場合なら、1000万円以上の金は普通にかかる。だが、オンライン通販がメインで、実店舗を持っていないBANDにおいて、それほど多くの人間が必要だとも思えない。


 ……だが、例によって今回の案件内容をまったく聞かされていない俺には、何の判断もできなかった。ハッキリしているのは、仮にその金額が「1回分」のものなのだとしたら、この契約がまとまればとんでもない利益がAAに入ってくるということだ。担当営業にしてみれば、この1件だけでクオーター目標(3ヶ月間の目標)を達成してもおかしくない金額なのだ。


 高橋は書類に落としていた視線を、ゆっくりと社長に戻した。その目に戸惑いの色はない。


「随分な金額ですが……いったいどれほど優秀な人材をお求めなんでしょう」


「別にスーパーマンを求めてるわけじゃないさ」


「じゃあ、なぜ?」


 社長はじっと高橋を見つめ、試すような目で言った。


「これはまだオープンにはできないんだが、実は近々、当社は新規事業を立ち上げる予定なんだ」


「新規事業? POの事業は順調だと聞いていますが」


「そうさ。あらゆる意味で順調だ。だが、所詮はニッチビジネスだからね。パイが少ないんだよ。業界内でどれだけ勝っていたって、売上自体はウチの事業よりずっと小さい」


 槙原社長は「ウチ」というとき、親指で自分を指すような仕草をした。ウチというのは高木生命のことだろうか。確かに、モバイルバッテリーよりは保険の方が、カスタマーの幅は広いだろう。


「ということは、新規事業は別の分野で?」


「ああ」


 その時、高橋の頬にかすかな笑みが浮かんだように見えた。そして、先ほど社長が高橋に向けた、挑むような目で社長を見据えて、言った。


「金融ですね」


 槙原社長の顔に、驚きが浮かんだ。だがそれはすぐに消え、今まで以上の深い笑みが浮かぶ。


「美人なだけじゃなく、頭もいいんだな。ますます気に入ったよ」


 二人の間で交わされる会話に、俺はついていけない。


 金融? なんでモバイルバッテリー屋が金融事業などを始めるのか。保健事業と言われればまだ納得できたかもしれない。だが、それにしたって、わからない。


 だが、高橋には事情がわかっているらしかった。


「マネジメントラインは高木生命から。BAND JAPANではその手足が必要なんですね」


「その通りだ。本当に話が早い」


 槙原社長はそして、隣にいる若者をちらりと見る。


「今回のプロジェクトに伴い、何名かできる営業マネージャーをウチから呼んでる。だが、兵隊が足りない。彼のような、な」


「なるほど」


「彼は正木という、入社1年目の新人営業マンだ。どんな人材を求めているのか。そう聞かれたら、彼みたいな人間だと答えるよ」


 彼は正木、という名らしい。俺はあらためて正木を見た。スポーツマンタイプというか、日焼けした肌に短い髪、爽やかな印象で、女にもモテそうだ。


「別に我々は優秀な人間を求めているわけじゃない。言われたことを言われた通りにキチンとできる人間なら、ちゃんと結果を出させる。この正木はね、入社当時はダメダメな奴だったんだ。だけど、ウチに来てウチの研修を受けてさ、変わったんだよ。な?」


 槙原社長が言うと、正木はまた驚くような大声で「はい!」と返事する。


「ほんとダメな奴だったもんなあ?」


「仰る通りです! ほんとクズのような人間で……でも、変わることができました!」


 ハキハキと答える正木を社長は満足げに見つめ、それから高橋に向き直る。


「ということで、仕事については彼に話を聞いてくれ。新規プロジェクトだから全部話せるわけじゃないが、営業なんてやることはだいたい一緒だ」


「……わかりました。ありがとうございます」


 高橋はそう言って、「よろしくお願いします」と正木に頭を下げる。


「お前、俺の悪口は言うなよ?」


 槙原社長が首を傾げながら言うと、正木が「はは、そんな、言わないですよ!」と笑う。


 その風景を見ながら、俺はよくわからない感情に襲われつつあった。


 槙原社長は確かにエロオヤジには違いないが、なんというか、面倒見のいい先輩、という風にも見えなくはない。高校のサッカー部にもこういう先輩はいた。乱暴だし理不尽なことも多いが、できない後輩の練習には何時間でもつきあってやるような先輩だ。個人的にはあまり好きなタイプではないが、正木の笑顔を見ている限り、関係性は悪くなさそうだ。


「じゃ、高橋さん。あとはよろしく。今日はお会いできてよかった」


 槙原社長が腰を浮かせながら言い、「採用成功の折は、ぜひどこかで食事でも」と付け加える。


「そうですね、楽しみにしています」


 そう答える高橋の顔には、余裕の笑顔があった。だが、社長が頷いて視線を外した途端、冷たい無表情に変わった。

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