第3章  『息子にラブレターを』⑦

 工場を出て事務所の扉を開けた時、どこからかチャイムの音が聞こえてきた。腕時計を見ると、昼の12時だ。


「さあ、もう帰れ。俺たちも昼休憩だ」


 ふと見れば、事務所には事務員1人だけしかいなかった。中澤婦人の姿がない。


 物音がしたので目を遣ると、勝手口の脇にある部屋から婦人がひょいと顔を出して、嬉しそうに微笑みながら、こっちこっち、と手招きする。


 高本には帰れと言われたが……と迷っていると、室長が迷いのない足取りでその部屋へと近づいていく。


 ……ああもう、この人は。


「おや、こりゃすごい」


 突き当りの部屋を覗き込んだ室長が言った。俺も慌てて後を追い、室長の丸い肩越しに中を覗く。


「あっ」


 思わず声が出た。そこは食堂だった。20畳ほどの空間に、いくつかのテーブルセットが置いてある。今更ながら、あたりにうまそうなにおいが漂っていることに気付く。


「さあ、あなたたちも食べていって」


 声がした方を見ると、壁庭に作られたキッチン設備のところに、割烹着を着た婦人の姿が見えた。コンロを前に、小さな体を前後に揺らしながら重そうな中華鍋を振っている。


 食べていって、というのは、俺と室長に投げられた言葉なのだろうか。だとしたら面倒なことになった。高本がいい反応をするとは思えない。


「いいんですか、いや、嬉しいなあ」


 室長はそう言って迷いなく部屋の中に入っていく。


 背後に嫌な視線を感じて振り返れば、やはりだ、高本が恐ろしい形相で迫ってきていた。……ああ、ほら、帰れって言うのに室長が従わねえから……


 だが、高本は俺や室長を押しのけるようにして食堂内に入ると、「こら、ダメじゃねえか」と婦人に向かって声を荒げたのだった。


 高本はそのままコンロの前まで行くと、婦人の手から中華鍋を奪い取った。


「これは使うなって言っただろ。また腰いわすぞ」


 言われた婦人はちょっと不満げに口をとがらせる。


「だって、こっちの方が美味しくできるんだもの」


 高本はチッと舌打ちし、「ああもう、わかったよ。じゃあこれは俺がやるから」とそのまま鍋を振り始める。覚えがあるのか、その巨体がそう見せるのか、なかなか様になっている。


 それを見た婦人は嬉しそうに微笑むと、「ありがと。じゃあ私はごはんやるわね」と高本の背中をポンと叩き、炊飯器の方に移動する。古びた旅館にありそうな、大きな炊飯器だ。婦人が「よいしょっ」と勢いをつけて蓋をあけると、中からうまそうな湯気が立ち上る。


 その時、後ろがにわかに騒がしくなった。振り返って見れば、工場にいたベトナム人たちだ。俺たちの前をペコペコ頭を下げながら通っていった彼らは、そのまま椅子につくのではなくなぜか中澤婦人の周りを取り囲んだ。


「オッカサン、すわってて」


「ボクタチ、やるから」


 拙い日本語で口々に言うと、一人が中澤婦人の手からしゃもじをそっと取り、別の一人が小さな婦人を肩を優しく押すようにして近くの椅子に座らせる。


「ああ、もう、いいのよ。私がやるわよ」


 婦人はまた不満げに言うが、ベトナム人たちは「ダメ、ダメ」と笑って取り合わない。


「オッカサン、休んで」


 その様子を見ていた俺たちと目が合うと、婦人は照れたように笑った。


「もう、優しい子ばかりで」


 室長が頷き「違いないですな」と同意する。


「さ、お座りください。皆で食べましょ」


 高本以外の社員2名と、さっきの若い事務員も加わり、食堂は騒がしくなった。


 結局俺たちは誘いに甘えることになり、婦人の向かい側に座らせてもらう。ベトナム人含め、皆がテキパキと仕事をこなし、俺と室長の前にもあっという間に料理が用意された。回鍋肉、味噌汁、生卵と漬物、そして大盛りのご飯。立ち上るうまそうなにおいに思わず腹が鳴る。


「よし、揃ったな。じゃ、いただきます」


 食堂内を見渡していた高本が大きな声で言い、ベトナム人たち含めその場にいる皆が「いただきます」と声を揃えた。俺も慌てて手を合わせ、いただきます、と頭を下げる。ふと隣を見れば、室長は既にニコニコしながら食べ始めている。俺も箸を取り上げ、高本が仕上げた回鍋肉を口に運ぶ。


 うまい。


 素朴だがめちゃくちゃうまい。


 思わず無言でがっついた。それを向かい側の婦人が嬉しそうに見ている。


「おいしいでしょう?」


「え……あ、はい。すごく」


「あの鍋だとね、本当においしくできるのよ。重いから、ちょっと大変なんだけど」


 先ほどのやりとりを思い出し、横目で高本の姿を探した。斜め前のテーブル、日本人の社員たちと楽しそうに笑いながら食べている。


「オッカサン、おいしい」


「ゲンキ、いっぱい」


 ベトナム人たちがクスクス笑いながら婦人に声をかける。そのたびに婦人は「よかったわ」とか「おかわりしてね」と嬉しそうに返す。俺たちがいるからそうしている、という感じではなかった。恐らくここでは毎日のように、こんな風景が流れているのだろう。


「いやあ、いい雰囲気ですなあ」


 室長が言うと、婦人はその笑顔を一層深くして、「そうでしょう?」と目尻を下げる。


「ええ、とても。それに皆、”オッカサン”が大好きなんですなあ」


「あら」


 婦人はいよいよ嬉しそうに微笑み、周囲を見回す。


「私、機械オンチでねえ。だから工場のことは全くお手伝いできないんです。だから、せめてこういうことくらいは、って思ってるのに、それさえも皆がやってくれちゃうから」


「オッカサン、つかれてる」


「ボクたち、ゲンキだから」


 隣のテーブルのベトナム人が声をかけてくる。すると隣のテーブルの高本も「そうだぜ」と続ける。


「おっかさんにまで倒れられたら、皆、仕事どころじゃねえからな」


「ね、優しいのよ」


 婦人がいたずらっぽく言い、笑う。


 食事も終わりかけた頃、「求人の件は、お聞きですか」と室長が切り出した。


 斜め後ろのテーブルで、高本がピクリとしたのが見える。


「ええ、タカちゃんはもう、ご実家に帰らないといけないから」


 それまでのいい雰囲気が、ピリッとした空気に包まれる。社員たちやベトナムの研修生たちも何となく事情はわかっているのか、どこか気まずそうにうつむいて、黙ってしまった。


「だから、あなたたちに来てもらったの。タカちゃんが安心してここを離れられるようにね」


 それを聞いた高本が、これまでで一番大きな舌打ちをした。


 そして、バン、と箸をテーブルに叩きつけ立ち上がる。


「だから、辞めねえって言ってるだろ!」


 皆がしんとする中、体の大きな高本は1人、大股に俺たちの横を通り過ぎ、部屋から出ていった。


 あれ……


 俺はその時、小さな違和感を覚えた。その顔に浮かんでいたのが、怒りではないように思えたからだ。


 あれは、そう、あれは……

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