四つ辻で烏鳴く

十余一

四つ辻で烏鳴く

 時は文政ぶんせい、所は深川。江戸にほど近い相模国さがみのくにに異国船が来航し騒がれていた時分の話でございます。しかしお国の一大事といえども、民の暮らしは相も変わらず続いていくもの。下駄直しの喜三郎も例にもれず、今日も一日中擦り減った歯を取り換え鼻緒を直していたのでした。


 暮れ六つ夕方6時頃になろうかという頃、喜三郎は仕事を切り上げ長屋に戻るべく帰路につきました。そして富吉とみよし町のあたりに差し掛かった頃、なんとも香ばしい良いにおいが漂ってきたのです。見ると辻には焼飯やきいいの屋台見世みせが出ているではありませんか。焼飯というのは、握り飯に味噌を塗って焼いた大変に美味なものでございます。

 あまりの空腹のせいか、喜三郎はふらふらと吸い寄せられていきました。


「随分と良いにおいだ」

「とくべつな材料を使っていますからね」


 売り子は口元に笑みを浮かべて答えました。少し猫背気味の小柄な背格好に加え、手拭いを深く被っているため顔を伺い知ることはできません。ただ、にんまりと吊り上がった口角と薄汚れた白木綿の小袖だけが沈みかけた日の光に照らされていました。


「いくらだい」

「ひとつ六文ですよ」


 喜三郎の「じゃあ、一つ頼むよ」という注文に、売り子は快く頷き準備を始めます。

 ちなみにこの当時、落語の「時そば」でお馴染みの蕎麦が十六文 300円 、寿司がネタにもよりますが一貫四文から八文75 ~ 150円ほどでございました。


 喜三郎はパチパチと炭の爆ぜる音を聞きながらぼんやりと佇んでいます。「特別な材料と言ったが、どこから仕入れたものだろう。江戸の甘味噌か、それとも信州の白味噌か。米は遠州掛川、あるいは武州の六郷ろくごう葛西かさいのものかもしれない」そんなことを考えていたせいで、周囲からすっかり人気ひとけがなくなってしまったことにも気づいていないのでございます。


 食欲をそそる香りがより一層強くなり、いよいよ一寸五分 約4.5cm ほどの焼飯が目の前に出されました。しかし、さっそく口元へ運ぼうとした喜三郎の腕を掴む者があったのです。


「お止めになったほうがよろしいかと」


 男とも女ともつかない声色と容姿の者が「召し上がると、お戻りになれませんよ」と続けます。のっぺりとした顔についた横長の奇妙な瞳孔が喜三郎を見つめておりました。

 喜三郎に驚きと訝し気な視線を返された奇妙な目の方は「以前、貴方様に助けていただいた蛙でございます」と言い、尚も言葉を止めないのです。


「短い寿命を全うし隠世かくりよへ行く道中に、貴方様をお見掛けしたのです」

「隠世だって?」

「ええ。貴方様はまだ逝くべきではありません」


 喜三郎もさすがに俄かには信じられないようで、絶句してしまいました。無理もありません。突然現れて蛙だの隠世だのと言われて飲み込めるほうが可笑おかしいのです。しかし、そこで喜三郎に一つの考えが浮かびました。


――食べると戻れない? そんなのまるで神話の黄泉戸喫よもつへぐいではないか!


 売り子が業を煮やした様子で震えだします。


「邪魔をしないでちょうだい。さみしいから迎えに来たのよ」


 なんと、その顔は数年前に流行り病で亡くなった喜三郎の女房だったのです!

 驚きのあまり落とした握り飯が、風に吹かれ灰のように消え去りました。そのまま動けずにいる喜三郎に一礼してから、蛙もまた黄泉路へと踏み出し消えていったのでございます。


 どれくらいの時が経ったのでしょう。太陽がその姿のほとんどを地平線に沈めたころ、不気味なからすの鳴き声に喜三郎はハッと我に返りました。しかし既に全てが消え失せ、喜三郎と地面に落ちた六文銭だけが取り残されていたのです。果たして売り子は本当に喜三郎の女房だったのか、それとも女房の姿に化けたあやかしか。

 路傍で思案顔をした喜三郎はやがて長屋の木戸が閉まる刻限を思い出し、慌ててその場を後にしました。


 辻とは道と道だけではなく、現世うつしよ隠世かくりよも交わる場所なのです。特に黄昏時は危のうございます。皆さまも、どうかお気をつけくださいませ。

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