第6話

 奴が五分後に用を済ませて出てくるまで、私は非常に気まずい思いをした。例えるなら、ペンギンの集会に迷い込んだチョウチンアンコウくらい浮いていたのである。

 先程までの蝋人形が嘘のように、滑井は颯爽と便所から出ると例も言わずに店を出た。まぁ、そこが滑井の滑井たる所以なのであったが。

 私は完璧紳士(見た目的には淑女)なので礼を言うと、奴に続こうとして、――ふと気付いたのである。

 こういう時には、何か買って行ったほうが良いのではなかろうか? 入店したのにトイレだけ借りるというのは、いかに私が高貴な妖怪(自称)と雖も失礼なのかもしれぬ。

 しかし買いたいものなんてない。私は一瞬逡巡し、トイレ前のマガジンラックから表紙も見ず一冊引き抜いて、レジに向かった。

「あの……、これ、ください」

 私が妙にカタコトで言うのを――、店員さんは信じられないものを見るような目つきで見た。

 ん? 私何か、おかしいことでもしたかしらん?

 水晶のように純粋な心で、私は思った。

 ……数秒後、私は自分の差し出した雑誌がエッチィものだと気付いたのである。


□ □ □ □


「ふ~ん、ほほぅ。ヘェ~、イヒヒッ!」

 夜道を歩く、二つの影があった。我々二人である。

 もし今の私たちを見た人がいたならば、すぐにそそくさとその場を立ち去ることであろう。これはすごく良いことである。人々に畏れ敬われる事こそ妖怪のあるべき姿だからである。

 人が我々を避けるのは別の理由からな気もするが、それは些細な問題だ。要は結果が重要なのである。

 そして我らの片方は、雑誌を歩き読みしながら卑猥な声を上げているのだった。

 いろんな意味で気味の悪い眺めである。

 断じて言うが、私ではない。

 滑井である。


 あの後、私は引くに引けなくなったのと既に麻痺した羞恥心のせいで、雑誌を購入してしまったのである。これは一生モノの黒歴史確定だと確信し、私は不健全雑誌の神を呪った。そんな神がいればだが。

 袋に入った雑誌を抱え追い付いた私に、滑井は「何買ってきたんですか? まさかエ○本ですか?」と訊いてくる。そして、中身が本当にそうだと知ると「あぁ~一目氏の変態ィ~、救いようのないスケベ妖怪め、貴方の中枢神経系は全部、桃色神経で出来ている~」などと罵りながら、雑誌をひったくって自分で読み始めた。

 いろいろツッコミたいことはあったが、疲れていたのでもうそういうことで良いわ~、と投げやりに思い黙っていた。

 かくして今に至る。

 私は何度目か分からない呟きを漏らした。

 なぜ私が、こんな奴と一緒にいるのだろうか? 


「あれれ一目氏、何かご不満?」

 不満も不満である。

 遠い昔、百鬼夜行が行われていた時代の先人は、こんな有様だったろうか? カツラをかぶり、女装をし、隣にいるのはエ〇h……『性にまつわるコンプリート・アート・ブック』を歩き読みするぬらりひょん。泣きたくても、流す涙が惜しいくらいの有様である。

 私は苛立っていた。

 そして何気なく、滑井の歩き読みする雑誌に目を向けてしまったのである。

 ページが捲れるたびに翻る、色鮮やかな桃色世界。それを見つめているうちに、私はむらむらしてきた。否、むらむらと怒りが湧き上がってきた。

 そもそもこの『コンプリート・アート・ブック』は私の自費で買ったモノである。それを、読んで良いとも言ってないのに滑井が勝手に読むのは、少々おかしいのではなかろうか? いや絶対におかしい。一片の疑いもなく、これは私の所有物である。

 わがちっぽけな名誉のため一言添えるが、決して自分で読みたい訳ではない。

 という訳で、雑誌を取り上げると滑井はキィキィ喚いた。

 私の怒りは強まるばかりである。否、むらむらは強まるばかりである!

 決して自分で読み(以下略)。

 そうやって我々が揉み合いながら(変な意味ではない)歩いていると、角の向こうから声をかけられた。

「君たち、何しているんだい?」


□ □ □ □


 ありきたりな言い方をすると、私は『大腸が口から飛び出すほど』驚いた。そして目の前の人影を見た。

 警察官であった。

 手にしたライトで私の足元を照らしつつ、こちらに近付いてくるのだ。

――ここで私は、今の自分を顧みたのである。

 今のわが姿は長い黒髪の女子(女装)、その手にあるのは――きわどいページの開かれたエ〇本……。

 何やこの絵面? 

 私と警官の心の声がハモッたのが、はっきりと分かった。

 なんと運の悪い。端から見れば、私は変質者以外の何者でもないではないか!

 まぁ「お前元から変質者じゃないのか?」と訊かれたら頷くしかないのだが、それはそれなのだ。

「いや、その、ですね……」

 私はモゴモゴと答えつつ、警官に歩み寄った。もうこうなったら、滑井とそれらしい話をでっち上げるしかない。

 だったのだが……

「……滑井? アレ、あいつどこ行った⁉」

 何と、滑井は姿を消していたのである。夜闇に紛れ、ぬらりひょんお得意のテレポートで逃げやがったのである!

 あのウナギ野郎! 次に会ったら、簀巻きにして錦江湾に沈めてやる。私は誓った。

 怒りの籠った息を吐くと、警官に向き直る。まずはこのヤバい状況をどうにかせねば。

「すみません、ちょっと私の目を見てくれますか?」

 そう言うと、私はカツラの前髪を掻き上げた。そして一つ目で、警官の顔を覗き込んだのだ。

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