守屋一郎はかく語りき。

1,守屋一郎はかく語りき。


 ※これは、いずれ本格的に連載を始める幽霊もの×学園ものの特別短編、ゲームでいう体験版みたいなものです。


 授業が終わって、数学の数子先生が教室をさっさと出ていった。

 守屋一郎もりやいちろうもまた、先生を追って廊下に飛び出した。すると、はて、どこにもいない。

 ──もしや忍びってヤツか。

 なわけない、とかぶりを振って先生の姿を探す。

 と、すぐに気づいた。教室脇にある中央階段を降りていったのだ。一郎の席は窓際なので、廊下に出るまでかなりのタイムロスがある。数子先生はさっさと階段を降りて職員室にもどり、さあて宿題を忘れたクソガキどもをリストアップしていくぞー、と昼休みには似合わない笑みを浮かべるのだ。そうに違いない。

「どうした、守屋」

 振り返ると、そこには彬がいた。

 伊吹彬いぶきあきら。クラスメートである。一年生のときに同じクラスになって、出席番号も近かったので、なりゆきとして仲良くなった。この鳥羽高校にて友人と呼べる、唯一の同級生である。

「いや、数子先生に用があったんだけど」

「おう。なら職員室か」

「うん」

「……行かないのか?」

 怪訝そうな顔をして、彬は訊いた。

「あとにするよ」

「そうかい。なら、メシ付き合え」

 にやり、と笑みを浮かべて彬は一郎の肩に手を置いた。はあ、やはりきたな、と思いながら肩をすくめた。

「悪いけど、今日は手持ちが少ないんだ。彬がオゴってくれるなら、話は違ってくるけど?」

 と、さりげなく期待の目を彼に向けてみる。が、むろんそんなものは通じない。

「悪いが俺もいま手持ちは少ないんでね」

「じゃあ、どうする。手作り弁当なんてものを僕は作らないし」

「心配すんな」

 と、彬は親指を立てて後方に向けた。

「アテはあるんだ」

 眉をひそめて、一郎は首を伸ばす。彬の肩越しから向こうの廊下にまで視線を投げた。

「どこ?」

 首をかしげると、彬はクスっと笑った。なんだよ、もったいぶるな。そう言いたかったのをこらえて、彬がその〝アテ〟とやらに向かうのを待った。


〝いったい何が目的なんだ、彬は〟


 怪しい。

 そのひとことに尽きる。

 ようやく彬が笑顔から微笑み顔にもどって、踵を返した。一郎もそれについていく。

 彬は廊下の奥まで行き、そこの扉をあけて、渡り廊下に出た。これは新館と旧館をつなぐ唯一の通路だ。扉に近い2-Cはよく、この渡り廊下で駄弁ったりゲームをしたりしている。片側の柵に肘をかけて、一望できる景色がまた何とも言えないのだ。

 青い空につづき、下に視線をおろすと、海岸線が見える。鳥羽高校のある烏丸町は、海沿いの都市で、むろん漁業が盛んである。いくつかの漁船が、ぽつんと海の上に浮かんでいる。その手前に港があって、さらにその手前にはむろん町だ。赤い屋根、黒い屋根、白い屋根、いろんな色の、いろんな形の屋根が見えるのだ。

 黒いトタン屋根は規則正しい、しかし融通のきかない優等生。

 赤い越し屋根は自己主張の激しい問題児。

 白い六柱の屋根は優しいけれど腹に一物抱えている清楚な女学生──と。


〝あれ?〟


 一郎は首をかしげた。


〝なんで、火野のことを思い浮かべたんだろ〟


 ああ、とそこで一郎は察した。

 これはきっと何かの前兆というヤツで、その何かとはようするに──

「ついたぜ」

「あ、ああ」

 彬はうなずいて、引き戸に向き合う。当たり前だが、ボロっちいな、とそう思った。

 そこは旧館の空き部屋で、教室ではない。もとは文芸部の部室だったそうだが、入ってみたことはなかった。そもそも旧館にお邪魔すること自体、あまり経験がなかったのだ。

「ここに何があるっていうのさ」

 引手に伸ばしかけた彬の手がぴたっと止まる。

「な、何って」

 焦ったような顔をして、明後日の方向に視線を投げた。

「そりゃあ、何だろうな」

「はぁ?」

 一郎は眉をひそめた。

 彬はこちらの顔色をうかがうようにちらちらと見ながら、引き戸を引いた。

 すると、室内は思ったよりは広かった。横には本棚があり、むろん中は空っぽだ。いちおうここも放課後の清掃範囲になるので、あまり埃は被っていない。独徳の匂いが鼻に絡んで、何だかそわそわした。木材に沁み込んだ熱が空気とともに漂い、蒸し暑さが増した。

 見ると、開け放たれた窓にもたれかかって、外を眺めている人物がひとり。誰だろう。そう思うより先に正体に気づいてしまった。


〝まったくひどい。いちばん関わりたくない人間の気配を察知するなんて。これはもはや僕は彼女に執着しているんじゃないかな〟


「彬、これはどういう──」

 後ろを振り返ると、彬の姿は見る影もなかった。忍びよろしく、どろんとその場から消え去った。

 卑怯なヤツめ。いつか本当にオゴってもらうぞ。汗が背中から噴き出しているのを感じながら、一郎は思った。

 踏み込むと、板張りの床が軋んだ。恐ろしや。なぜ学校側はこんな旧館を残しているのか。

「あら、来てたのね」

 火野燈ひのあかりが振り向いて、目が合う。真ん中の椅子と机のセットから、ひとつ椅子を引いてそれに腰かけた。

「どうぞ座って」

 と、促されて仕方なく彼女の真向かいに座った。

「彬は火野の差し金か?」

 火野はぽかんとしている。違うのか。

「まあそうだけど」

 クスっと笑いをこぼして、

「差し金、だなんて。変なコトを言う人ね」

「……む」

 さらに顔が熱くなるのを感じた。

「だいたい、こんな回りくどいことをしなくたって教室に来れば僕は行く。留守のときはほとんどないんだから」

「教室に行くのが嫌なのよ」

「なんで?」

「みんなに見られるから」

 馬鹿げた理由だな、とは思った。

 けれど火野燈という美少女(本人公認)にとって、特定の男子を呼びつけるだなんて学校内では大スクープになるかもしれない。

「それなら連絡先を交換すればいいと思うけど」

「それこそ無理ね」

「友達に見られるから?」

「違うわ。私、スマートフォンは持っていないもの」

 まいった。このネット社会で携帯を持たない人間がいるだなんて。

 一郎はうーむ、と唸った。

 燈のほうは何でもないような顔で、

「スマートフォンなんて一種の麻薬。一度手を出せば止まらない。たしかに連絡を取るのに必要かもしれないけれど、それならガラパゴス携帯で事足りるわ」

「それはスマホじゃなくて、使用者の問題なんじゃないか」

「あながちそうとも言えないわ。アップル社のスティーブ・ジョブスだって、子供の端末に制限をかけていたぐらいだから。中毒性があるのはホントよ」

「降参。降参するんで、早く用件を言ってくれないか。腹が減って仕方ないんだ」

「あら」

 と、燈は目をぱっと開いて、背中を丸めた。椅子の横に鞄があるようで、そこに手を突っ込んでいた。彼女が手に取ったのは、布で包んだ何か。


〝アレはなんだ。もしや、爆弾か何か……〟


 まさか、あり得ない。理性の一郎は言った。

 一方、本能の一郎は──


〝あり得る。爆弾と火野はイコールだ。きっとアレは時限爆弾だろう。本人と似てさぞかしせっかちに違いない〟


 そんな心の声もあってか、

「あと何秒?」

 と思わず訊いてしまった。

「は?」

「ソレが爆破するのは、残り何秒なんだ」

「爆弾じゃないわよ、バカね」

「……違うの?」

「バカな冗談かと思えば、ただのバカ真面目なバカだったのね」

「じゃあ何だっていうんだ」

「お弁当よ」

「へえ。ってことは、これからメシ食うのか」

「そう。あなたといっしょに」

「悪いけど、僕は持ってきてない。なんで、これからクラス内で乞食を実行しないといけない」

「心配ご無用。守屋君」

「え?」

 一郎は固まってしまった。

 忙しない指遊びも、浅い呼吸も、十秒間に一回の瞬きも。

 それらが停止してしまうほど、非現実的な発言だった。

「……何よ。私が弁当持ってくるのがそこまでおかしい?」

「ああ、おかしい」

「なっ!」

「だってそうだろ? 一時期話題になったんだぞ。烏丸のマドンナの手作り弁当こと烏丸の玉手箱って」

「えぇ……」

 燈は身を退いていた。明らかなドン引き。かつ怯えた目をしている。失言だった。

 

〝さすがの〝鳥羽の皇女〟も怯えるか……〟


 ちなみに鳥羽の皇女というのが代表作だ。ほかには烏丸のマドンナ、烏丸の聖女、烏丸のマリー・アントワネットだの言われている。あとはクレオ・パトラだの小野小町だの数々のあだ名がつけられているが、ほとんど理由はない。それっぽいものを組み合わせているだけだ。まあ、あだ名なんてそんなもんだ。

 さて、と一郎は切り替える。

 なぜ火野燈は一郎の弁当──おそらく手作り──を持ってきたのか。ただ単に、作りすぎちゃったからどうぞ、というものでもない気がする。それなら友人に渡すほうが筋が通っている。

 もっとないのが、一郎に食べてほしくて、という惚けた話である。惚れられることに悪い気はしないが、こうして彼女と気ままに会話できるのは、ぜったいにそういう雰囲気にはならない、と確信しているからである。

「いつかのお礼よ。勘違いしないで」

 燈はそっけない口調で言った。

 いつかのお礼? はて、なんのコトだ、と一郎は疑問に思った。

「憶えていない、なんて言わないわよね」

 睨みを効かす燈に、一郎は、

「火野となにかあったっけ」

 と答えた。

 燈は顔を赤くした。熱いのかな、と一郎は心配になった。だが、一方で本能の一郎はなにやらまずいことになる予感がしていた。

「一週間前! ほんとに憶えてないのっ!?」

「え」

 一週間前……。

 そのワードに、なにか記憶の一部が引っかかる。ああ、そういえば……と一郎は何度かうなずいた。それを見ていた燈が、「やっと思い出した?」と少々呆れぎみな顔で訊いた。

「ああ、やっとね。あのことなら、べつに気にしなくたっていいのに」

「いえ、気にするわ。気にしなきゃ私の気がすまないもの」


 ここでひとつ。

 守屋一郎は勘違いをしていた。

 火野燈が言っているのは、一週間前の深夜にあった霊障のことである。忘れ物をした一郎が現れたことでさらに〝捉える〟ことが難しくなった霊障案件。

 守屋一郎が言っているのは、一週間前、この鳥羽高校の若手教師である志摩晴彦しまはるひこに告白してフラれたことである。


 そう、一郎にとって火野燈という人物が気になりだしたのは、このときである。

 志摩晴彦は眼鏡をかけた温厚な先生で、いかにも優男といった風体である。どういうワケか、燈はこの優男に惚れていたのだ。いつどうして惚れたのか、それに至っては一郎が知ったことではない。重要なのは、あの鳥羽のこんにゃく女(斬鉄剣イケメンでさえも斬れないことから)が、ちゃんと恋愛をしていた、ということである。


 一郎は言った。

「わかってるよ。黙っておけばいいんだろう」

「それだけじゃだめよ」

 と、不満げに眉を曇らせた燈。

「忘れてもらわなきゃ」

「それは無理だ」

 と、一郎は断言した。

「あんな衝撃的なこと、見てしまったが以上忘れるなんて到底無理だよ。たぶん永遠に憶えている」

「守屋君はそのままでいいの」

「はい?」

「私がじきじきに忘れさせてあげるわ」

「ま、待て。なんだその、怪しい指の動きは! ちょっと待てちょっと待て、おかしい、おかしいだろ! たかがあんなことで!」

「あんなことぉ!?」

 触手のごとき指の動きをぴたっと止めて、燈は眉を曲げた。

「あ、しま──いや、違う。いまのは言葉の綾ってやつでっ!」

「私がね、どれだけ苦労したかわかってんの!?」

 と、燈が訴える。

 一郎は、ごもっともで、という心持ちだったけれど、いまさら言い訳できるような状況でないことは明らかだった。

「……というのは冗談よ」

 と言い、燈はもとの位置にもどった。

 は? と一郎は瞬きをしていた。

「お詫びというか、巻き込んでしまったことの謝罪というか。まあ、そんなワケだから、お弁当をね」

「……お詫びに、それを僕に?」

 人差し指を自分に向けて、一郎は首をかしげた。

「そうよ」


〝まあ相手は教師だしなあ〟


 焦るのも無理はない。

 見てしまったものは仕方がない。けれど本人に悪いので、ここは責任をとるというべきだし、その責任を背負っていくべきだろう。

 義理は、いちおうある。

 燈に助けてもらったことで、いま一郎はこの場にいるのだ。あれだけは感謝しても感謝しきれない。


「わかった」

 一郎は弁当箱を受け取って、ふろしきを開けた。

 二重になっており、それも開けてみると上がおかず、下が白飯というシンプルな構成だった。おかずはふつうの一般家庭に出てくるようなものだけだ。出し巻き卵、切り干し大根、しゃけの塩焼き……鳥羽の皇女は一般家庭にも造詣が深い、ということだろうか。

「ここで食べるの」

 気になって仕方がない、というような顔で燈は言った。

「あれ、だめなのか」

「……だめではないけれど」

 ぷい、と顔をそむける燈。

 恥ずかしいのかな、なんてことを思ったが、そういう性格とは思えない。

 気にせず、手を合わせて「いただきます」と唱える。弁当箱といっしょについていた箸で、まず出し巻き卵を口の中に入れた。

 故郷の味だ。直感がそう言った。また、母の味ともいう。

 一郎の保護者・千鶴子はあまりこういったものは作らないので、新鮮味を感じる。それなのに、なつかしさもプラスされてなんとも言えない感動が一郎の胸を躍らせた。

 表情に出ていたようで、

「そ、その。反応が少しオーバーなんじゃない?」

 と燈が指摘した。

 一郎はかぶりを振って、

「でも、おいしいよ。コレ」

「……ふーん」

「これなら志摩先生の胃袋をつかめると思う。あの人、こういうの好きそうだし」

「ほ、ほんとっ!?」

 燈が身を乗り出した。

 ただ、彼女はすぐに我に返って視線を机に下ろした。ゆっくりともとの位置にもどり、こほん、と咳払いをした。なんともわかりやすい、と一郎は笑いをこらえた。

「まあ、本気を出せばこんなものよ」

「さすがだなあ」

「…………待って」

 箸を止めて、一郎は視線を上げた。

 燈の片眉がぴくぴくと跳ねている。なにか気にくわないことがあったとき、彼女はいつもそうなる。ということは──


〝これはアレか。もしや僕はやらかしたか〟


 しかも無自覚。

 なにが気にくわないか、わかる? という問いに答えられない。

 とりあえず謝っても燈は「なにが悪いのかわからないくせに、テキトーに謝んないでくれない?」というのだ。まあ、ぐうの音も出ないほどの正論だが。

「どうした、火野」

 いちおう、尋ねてみた。

 おそらく後悔するだろうが。

「なんでそこで志摩先生の名前が出てくんの?」

「え」

 どういう質問だ、ソレ?

「だって火野、志摩先生のコトを──」

「はぁ!?」

 上へ飛びかねないほどの勢いで、燈は立ち上がった。

「な、な、ななな……なんでソレを」

「いやだって、そういうコトなんだろ? 僕にそのコトを知られたから、こうやって口止め料として弁当をあげた。で、いまから完食して、もうそれからは一切合切それについては言及しない。え、違うの?」

「ちっがうっつーの!」

 と、燈は机を叩いた。

「あの夜のコト! 私が、夜零時から一時のあいだに学校に忍び込んで、いろいろやってるコトの口止め料!」


〝…………ああ、アレか!〟


 やっとそこで思い出した。

 思い出した、というよりつながった、という感じだ。

 たしかに一週間前、忘れ物をとりに学校へ忍び込んだ。そこで死霊(燈が言うには)に襲われて、さんざん追いかけられた。そのときに助けてもらったのだ。

 燈は最後に言っていた。


〝いい? これはね、本当は一般人が知ってはいけないことなの。あなたの処理はいずれ考えるけど、まずは他言無用ってコトで。わかった?〟


 

「ていうか、よくも盗み聞きしてくれたわね!」

「あ、それは、その」


〝マズイ、殺される! 爆殺されるんだ!〟


 と、怯えまくる一郎。

 だが──


「……はあ、いいわ」

「え?」

 見れば、燈は落ち着いて席に腰かけている。腕を組んで、いまだに何度か片眉がぴくっと跳ねるが、とくに暴れる気配は感じない。もろに出ていた殺気もゼロになった。

「でもチャラじゃないから。覚悟しといて」

「む……そこまでされるいわれはないぞ」

「なによ」

「たしかに聞いてしまったことは謝る。でも、べつに邪魔しようってわけじゃない。言いふらすわけでもないんだ。信用できないんなら、なにか賭けたっていい」

「しょせん口だけでしょう」

「だから賭けるって言ってるだろ」

「具体的にはなにを?」

「え、そりゃあ……」

 なにを賭けるべきか。

 鳥羽の皇女が職員室の君を好きだった事実と同等、あるいはそれ以上のなにか。


〝あるのかそんなもの!?〟


 こちとら一般的な男子学生。

 鳥羽の皇女がいるなら、鳥羽の皇子がいて、それが自分であったなら同じく恋愛のあれこれを賭け品にしていただろうけれど。

 あいにくと、皇子ではないし恋愛のあれこれにしたってなにもない。


〝なら……〟


「じつは、志摩先生と僕は……従兄なんだ」

「へ?」

「嘘じゃない。ほら」

 スマートフォンの連絡先を彼女に見せる。そこには、志摩晴彦、という名があるはずだ。実際、画面を見た彼女は眉を上げ、たいそう驚いていた。

「志摩先生……晴彦さんのことなら、僕に任せてくれ。好きなものや嫌いなもの、恋愛遍歴やなんやらすべて教える。その代わり、告白の件はこれでチャラ。どうかな?」

 と、おそるおそる尋ねてみる。

 最初は難しそうに顔をしかめていたが、やがて表情から滲み出ていた緊張感は薄れていって──

「いいわ。そうしましょう」

 と承諾してくれた。


〝よっしゃ!〟


 心の中でガッツポーズを決める一郎。


「でも、あの夜についてはきちんと責任とってもらうわよ」

「それはいいんだけど」

 と、一郎は椅子の背にもたれかかる。

「どう責任をとればいいんだよ」

「……それは」

 燈は考え込むように顎先を指で撫でつづける。ときどき、うーん、と唸りながら独り言をつぶやいたりもしていた。

 やがて、パチン、と指を鳴らし、

「あなたには興信所たんていの真似事をしてもらいましょう」

「探偵、ってなんで僕が……」

 いったいなにを調べさせられるんだろう、と不安に思った。

「この学校の七不思議とか、怪談とか。そういうのを調べてもらうだけでいいのよ。私がハラうから」

「はらう、ってお祓い? 火野って巫女さんだったのか」

 ああ、違う違う、と笑いながら燈は言う。

「まあ、当たらずとも遠からず。私のイメージはお掃除のはらう、よ。だから、お祓いほど神秘的なものじゃない」

「ほーん」

 なんとはなしに一郎はうなずいて、わかった、と了承した。

 それから少し役割分担について説明された。ふんふん、と首を縦に振りながらポイントとなる部分だけ頭に叩き込んだ。

「つまり、夜のあいだに火野が霊障とやらを見つける。それを取り除くために、僕は昼のあいだにその霊障について調べて〝えにしとなる品〟を見つけてくる。で、火野がそれを霊障の近くに持っていき、燃やす、と。……危なくないか?」

「大丈夫よ、そこらへんは。安全なチャッカマンだから」

「そういう問題じゃない気がする」


 まあ、なにはともあれ。

 燈がとんでも除霊士だということが明確にわかり、一郎はこれからその協力をしていくわけだ。そして同時に、燈の恋愛も協力していく──


〝うーん。なんだか一方的に協力してばかりじゃないか?〟


 そんな一郎の心境を見透かしてか、燈は、

「じゃ、これからお弁当、毎日作ってきてあげる!」

 と満面の笑顔で言った。


〝ま、まあ。鳥羽の皇女の手作りが毎日食えるなら、やぶさかでも……〟


 若い好奇心と、とうに忘れていたはずの恋心のせいで流されてしまう一郎なのであった。



 自宅に帰ってくると、まず真っ先に探したのが千鶴子の姿だった。

 帰宅途中、机の上に置きっぱなしだった〝アレ〟のことを思い出してすぐに帰ってきたのだ。一階部分の床屋を通り、奥の階段を上がって部屋に向かった。

 電灯はない。外はすでに陽が沈み始めているので、当然廊下は薄暗かった。歩いていくと、ひし、ひし、と床が軋む。焦って立ち止まる。が、向かいの部屋から千鶴子が出てくる気配はない。

 一郎は進んで、部屋の扉を開けた。

 すると、真ん中のカーペットに千鶴子がぺたりと座り込んでいた。左手になにかを握っている。それは、〝例のもの〟とはまた違う。だが──


「母さん」


 そう呼ぶと、ぴくりと千鶴子の黒い頭が動いた。

 ゆっくりと顔を上げて、一郎を見上げる。


〝──ああ〟


 だめだこりゃ、と一郎はあきらめた。

 部屋もまた薄闇に包まれており、明確に捉えることは不可能だが、これはだめだと思う。千鶴子の髪の乱れよう、半開きになった口、一言も発さないこと……条件はほとんどそろっている。

「……ねえ」

 ようやく千鶴子は口をきいた。

「一郎くん。どうして、わたしだけ見てくれないの?」

「……大丈夫だよ、母さん。ちゃんと、〝母さんだけ〟だから」

「じゃあ、これはなによっ!?」

 と、投げつけられたのは、おそらく〝本物の母親〟の写真。

 母の知り合いや親戚をまわり、必死に手繰り寄せた実母との思い出の写真。

 それが、〝偽物の母親〟のもとに渡ってしまった。

「まだわたしのこと、お母さんって思ってくれていないの?」

「ううん。母さんは母さんだよ」

「嘘いわないで……」

 千鶴子がよろよろと立ち上がる。不安定な足取りで、一郎の胸元にまでやってくる。千鶴子の手が首を覆う。彼女は長い爪をたてて、一郎に鋭い痛みを与えた。同時に、息のできない苦しみも。

 一郎もまた、よろよろと膝を崩した。後ろへゆっくりと倒れこみ、千鶴子が馬乗りになる。

「言ったでしょう? わたし、すごく寂しがり屋なの。だから、ねえ、一郎くん。わたしには一郎くんしかいないの。わかる? ねえ、わかるかな?」

 支離滅裂だ、と思いながら一郎は天井を眺めた。すでに、千鶴子のことは視線から外れている。彼女から見れば、視線が合っているように見えるのかもしれないけれど。

「僕だって、母さんしかいないよ。だから、安心して」

「ほんとう?」

「うん。その写真は、もう燃やすから」

「ほんとう?」

「うん。もう母さんしか、見ないよ」

「ほんとう?」

「うん」

「……そう、よかった」

 と言いながら、千鶴子は首から手を離した。

 ごめんね──

 そうつぶやきながら、一郎の頭をしばらく撫でつづけた。

 やがて千鶴子が一郎から離れて、廊下のところに出る。

「晩御飯、いまから作るから。なにがいい?」

 と、少々疲れ切った笑みを浮かべて訊いた。

「出し巻き卵」

「うまくできるかしら」

「手伝うよ」

 と言うと、千鶴子は少女のような満面の笑みを浮かべて、

「そう? じゃあ、おねがいね」

 と、言った。

「それと」

 背を向けたまま、千鶴子が足を止める。

 顔だけをこちらに向けたまま、彼女はつぶやくように言った。

ね。わたし、楽しみにしていたんだから」


 ──明日から、新たな日常が始まる。

 

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適当短編集 静沢清司 @horikiri2

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