1 初恋キャンプのじゃがいもカレー

 七月一日月曜日。

 梅雨の晴れ間、昼下がりのホームは蒸し暑い。この光景に既視感。

 午前中に病院に行き、午後は職場に診断書と休職願を提出した。実家の母にそのことを伝えるため、岡山駅から新幹線に乗り、広島駅で呉線に乗り換える。

 電車が動き出すと、車窓には広島市東部の市街地。年に一度は帰るので、懐かしいというほどではないが、明日からしばらく職場に行かなくて済むと思うと、切なくも穏やかに映る。

 約十五分、四つ目の矢野駅に電車は着いた。十人ほどの乗客が降りる。それに混ざって階段を上がり、橋上の改札を抜ける。今度は階段を下りてバス停に行く。ニュータウン経由が待っていた。普通、実家方向に行くには、それに乗るが、母に何と切り出そうかと思うと、億劫になる。

 …今日は日帰りのつもりだったけど、実家に泊ろうか。ちょっと懐かしい街を歩いてみよう。

 駅から右の坂道を上がればニュータウンだが、左側、オールドタウン方向に向かった。中学、高校はサッカー部に所属していて、部活帰りに、駅横のコンビニで買い食いをするのが楽しみだった。


 極楽橋という名前の、小さな橋に差し掛かる。

 黄色い蝶が目前を横切った。睡眠不足のせいか、強いめまいと動悸がして、生汗が噴き出す。

 蝉時雨が遠く近く、ほかの音をかき消す。陽炎が景色を歪める。欄干にすがって、立ち止まり、目を閉じた。

「お兄ちゃん!」

 その声に振り返ると、中学、高校のサッカー部の後輩、伊藤健いとうたけるがいた。苗字が同じなので、僕のことを「お兄ちゃん」と呼ぶ。

「健!」

 下の名前を繋げると、日本武尊やまとたけるになることもあり、本当の兄弟だと思っている人も多い。しかし、十二歳で病死した弟の名前が同じ「タケル」だったことを知る人は少ない。

「大丈夫っすか?」

 川の上を涼しい風が吹き抜け、生気を取り戻した。

「大丈夫。ありがとう」

 その横には、サッカー部のマネージャーで、高校時代に付き合っていた矢吹七海がいる。

「七海…」

「久しぶり、山翔君」

「二人、どういう関係?」

「婚約者」

「マジの話?」

「お兄ちゃんが七海さんを置いて、岡山に行ったりするけん、僕がもらっちゃいましたよ」

「途中、いろいろあったけどね」

「そうか。おめでとう」

「ちょちょ、お兄ちゃん、その反応はないっしょ。少しくらい悔しがってくれんと」

「そうよ。山翔君、昔からそういうところズレとるんじゃけん」

「ああ、そうじゃね。悔しいよ。七海さんと別れてから、彼女いない歴九年よ」

「急に、さん付け」

 二人は笑った。

「お兄ちゃん、なんで今日は広島に?」

「うん、まあ。しばらく、休むことにしたんよ」

「なんか、疲れてるみたいよ」

「そう? ちょっとね。二人は今でも矢野におるん?」

「実は四月から大阪に転勤させられたんすよ」

「大阪におるんじゃ」

「結婚しても、しばらくは別居っすね」

「七海さんはこっちにおるん?」

「はい。実はこれから、一緒に区役所に婚姻届を出しに行くんっすよ」

「今から?」

「占いママさんのタロットカードで、今日がいいと言われたもんで、仕事休んで」

「へえ、そんなタイミングで偶然会ったのも縁じゃね。今度、お祝いさせてや」

「ありがとう。山翔君に祝ってもらえるとうれしい」

「占いで『婚姻届は電車で区役所に行って、午後三時』に出すように言われとるけん、行きますね。お兄ちゃん、電話番号は変わってないっすか?」

「うん」

「僕も変わってないけん、また、連絡しますね」

 二人は「じゃあね」と駅の方に向かった。

 …幸せそうだな。


 極楽橋を渡り、旧市街地に入る。昔は商店街だったという中浜通り。マンションの駐車場の続きに僕が通っていた塾があった。塾長は作家になり、塾は辞めたと聞いている。その建物が残っていた。昭和レトロな三階建て、蔦が壁を這い上がり、迫力を増している。以前は一、二階が教室で、三階に塾長が住んでいた。

 前まで行くと、一階が喫茶店になっている。木の看板に「純喫茶ぎふまふ」と刻まれていた。

 …喫茶店? ぎふまふって何?


 カランコロン。

 カウベルの音がしてドアが開いた。エプロンをした女性が出てきた。日本人離れした美人は、ちょっとびっくりした顔をして言った。

「いらっしゃいませ。どうぞ、お入りください」

 店の外のプランターの植物に水を遣り始めた。

 …この光景。

 既視感に見舞われる。

「ごめんなさい。すぐに終わります」

 言いながら、笑顔をくれた。綺麗な人だ。見惚れそうになったが、変に思われてはいけないので、店内に入った。座らないうちに女性も店に戻った。

「こんにちは、こんにちは。初めてのお客様ですね。お好きな席にどうぞ」

 カウンターの席に座ると、水とメニューが差し出された。

「お食事ですか」

 …そういえば、ちゃんと昼飯を食べていない。

 メニューを見ようとすると…。

「あの、一緒にカレー食べません?」

 …半端じゃないデジャビュー。しかし、この先どうなるかは分からない。

「あ、じゃあ、カレー、お願いします」

「かしこまりました」

 準備をしながら、チラチラとこちらを見ている。

「あの」

「え?」

「あの、伊藤山翔さんですよね」

「あ、はい」

「やっぱり」

「僕をご存じなんですか」

「あ、ごめんなさい。林田美沙子です。と言っても覚えてないかな」

 既視感は続いているが、この既視感は違和感も伴っている。

 カレーが出来上がり、二人、カウンターに並んで食べ始めた。

「このカレー、絶品ですね」

「ありがとうございます。スパイスの調合から私がやってるんですよ」

「へえ、調合からとは本格的。何が入ってるんですか」

「カレーの基本は、ガラムマサラ、ターメリック、唐辛子。これに、ブラックペッパー、カルダモン、コリアンダー、シナモン、ナツメグ、クローブ、ローリエみたいなスパイスを混ぜてパウダーを作る。オニオン、ガーリック、人参、ナシやリンゴをすり下ろして、パウダーと一緒に加熱してペーストにするんです」

 カレー講座になった。そして、その後、意味ありげに付け足した。

「あと、秘密の粉」

「秘密の粉って媚薬的な?」

「山翔さん、面白い。でも、近いかもです。大蘇鉄の実の粉末」

「大蘇鉄?」

「漢方にもあるんですけど、ルーツはこの町らしいんです」

「え、矢野がルーツなんですか」

「不思議でしょ。常連の郷土史会長さんに聞いたんです。十六世紀、毛利元就が矢野城を攻め落としたときの戦利品のリストの中にあるんですって。それを服用すると、幻覚を見るらしいんです」

「それ、やばい植物じゃないですか」

「大丈夫。研究の結果、ナツメヤシのドライフルーツだということが分かったそうです。今ではデーツという名前で、中東から輸入されていてお好みソースに入っています。最近はスーパーで市販もされてます。なんで、十六世紀のこの町にあったかは全くの謎らしいです」

「そうなんですか」

「でもね、幻覚を見るっていうのは、全くウソでもないみたいなんです」

「え?」

 食べ終わると、年配の女性が店に入ってきた。常連らしい。

「おばちゃま、いらっしゃい。この方、分かる?」

 女性は私の顔をうかがった。

「あ、ヤマショウ君?」

「あ、そう呼ばれていました」

「私、君島三佐子の叔母。言うても分からんかね」

「あ、はい。ごめんなさい」

「三佐子が高校生のとき、あなたにお熱を上げとったんよ。ヤマショウが好きで好きで堪らんかったんじゃけん」

「え、そんな子がいたんですか」

「うん。死んだんじゃけどね」

「おばちゃま! やめよ」

 女店主が制した。

「あ、ごめんごめん」

 おばちゃまは苦笑いをして謝った。

 急に眠くなってきた。

「媚薬のせいか、眠くて堪らなくなってきたんですけど」

 女店主は僕の額に手を当てて、体温を感じ取る。

「あら、大変。何かのアレルギーかね。救急車呼ぼうか」

「いや、大丈夫です。やたらと眠いんです。ちょっと、ここで眠らせてください」

 そもそも、僕が休職する原因というのが、妄想性障害を伴う精神疾患。よく眠れないうえに、眠くなる薬も飲んでいる。

「じゃあ、ちょっと、三階の私の部屋に上がろ。ちょっと横になっときんちゃい」

 いつの間にか広島弁になっている。

「ありがとうございます」

 肩を貸してもらって、階段を上がり、ベッドに倒れ込んだ。女性の香りがする。

 …あ、なんか、やっぱ、まずくないですか。

 そう言おうとしたが、気を失うように、眠ってしまった。


 深山の滝キャンプ場、僕は中学生。塾主催のキャンプに参加している。

 男子は飯盒はんこうでご飯を炊き、女子はカレーを作っている。それぞれ、OB・OGの高校生が手伝いに来ている。

 カレーリーダーはぽっちゃりメガネのお姉さん。もう一人、美人のお姉さんがいる。

 男子たちがみんなで「美人のお姉さんの方にカレーをついでもらいたい」みたいなことを言っている。

 …そんなこと聞こえたら、もう一人のお姉さんが傷つくだろ。

 僕はプラスチックのお皿にご飯をついで、メガネのお姉さんの前に立った。

「あの、カレー、お願いします」

「リンダについでもらわんでええん? 私に気を遣ってくれた? ありがと」

 と言って、カレーをかけてくれた。

「あの、一緒に食べませんか」

「ふふ。年上の女をナンパするんじゃね」

 美人のお姉さんの周りには男子が数人群がっている。僕はメガネのお姉さんと二人。

「母さんのカレーより、美味しい。これ、お姉さんが作ったん?」

「そうよ。ありがとう。でも、それは外で食べるけんよ」

「そうかな。どうやって作ったん?」

「お母さんはじゃがいもを入れる?」

「たぶん、入れん」

「じゃあ、それかも。じゃがいもがごろごろ入っとるじゃろ」

「ほんまじゃ」

「じゃがいもは入れない方が美味しいっていうけど、私は入れた方が好き」

「おかわり!」

「うれしい」

 二人は笑い合った。お姉さんの八重歯が光る。


 暗くなって、塾長が肝試し大会をすると言い出した。

 くじ引きで決まった僕のペアは、ぽっちゃりメガネのお姉さん。

「あ、山翔君。私、ビビリなんで、よろしく」

 出発するとすぐに、僕のティーシャツの肩の布を掴んでいる。

「襟が伸びるう」

「あ、ごめん」

 手を離したときに、大人たちの仕掛けた火の玉が目の前を通過した。

「キャー」

 お姉さんは、足を挫いてしまった。

「おんぶしようか」

「棄権しよう」

「嫌だ」

「じゃあ、おんぶして」

 お姉さんを背中に乗せた。

「重いい」

「デブでごめんね」

「あ、ごめんなさい。そんな意味じゃないんよ」

「はは。ええんよ」

 しばらく、歩いて行くと、森の暗闇から、恐竜が飛び出してきた。

「アーー!」

 お姉さんは、僕の首にしがみついてきた。

「グエー、苦しい。あれ、プロジェクションマッピングよ。完全に透けとる」

 お姉さんは泣きじゃくっていた。


 尾崎神社境内。時代劇のコスプレをしたメンバーが集まっている。

 塾長が忍者の恰好をした女性に詫びを言っている。

「サンザ、ごめんよ。お前と山翔をアゲハとサヌにすると言うたのに、安くタレントを使えるみたいな話に乗ってしもうて」

「いいですよ。気にしてないですから」

「サンザが山翔のこと、好きじゃったなんか知らんかったんよ」

 …サンザ? 僕のこと好きって、この人知らないけど。

「え、え、そんなこと誰が」

「リンダに聞いたんよ。五年前のキャンプでペアになってから、好きになったと」

 …五年前のキャンプで僕とペアになってたぽっちゃりメガネのお姉さんが、あの綺麗な女忍者ということ? 全然違うじゃん。

「それから、山翔のサッカー大会をこっそり応援に行っていたと。綺麗になるために、ダイエットして、八重歯を矯正したと…」

 …サッカーの応援に来てくれてたの? 

「リンダのばか…」

「確かに、サンザ、めちゃめちゃ綺麗になったよ。セクハラって言うなよ。ここだけの話、今日はリンダより、アゲハになっとるタレントさんより綺麗じゃと思う」

「塾長、やめてください」

 …ホント、綺麗な人だな。言ってくれれば良かったのに。

「この償いは、必ずする」

「償いって…」


 カランコロン。喫茶店のドアが開く

 「サンザ! 大丈夫?」

 そう叫んでいるのは、この店の女店主だ。転がり込んだのは、ひどく憔悴した様子の女性。

 …サンザ、ということは、あの時の綺麗な女忍者? 見る影もなく痩せている。

「リンダ…ごめんね。心配かけて」

 …リンダ? キャンプの時の美人のお姉さんで、コスプレイベントでも名前が出てたな。あ、それがこの店の女店主なんだ。

「当たり前よ。心配したよ。救急車呼ぶね」

「やめて」

「え? じゃあ、おばちゃまを呼ぶよ」

「いや。リンダといたい…二人でいたい」

「そう。…じゃあ、とりあえず、三階で横になろう」

 リンダはサンザを背負って、階段を上がる。

「軽いよ。食べてないんじゃろ。待っててね、何か作るけん」

「ありがと。ありがと」

 サンザは消え入るような声で、礼を言った。

 リンダは急いで、豆乳で炊いたオートミールをつくり、三階に持って来た。

 サンザは口をつけた。

「ありがとう」

「いい写真が撮れんのん? いくら芸術家っても、死ぬほど苦しむことないじゃん。手首、傷だらけじゃし。ばかじゃね」

「叱ってくれて、ありがとう」

「もう、お礼はええけん。落ち着いたら、病院行こう」

「いや。リンダといたい」

「サンザのばか。少し眠りんちゃい。横におってあげるけん」

「ありがとう」

「お礼はええって。二人のミサコ、サンザとリンダは二人で一人よ」

「死ぬ前に会いたい…」

「じゃけ、死ぬとか言わんの」

「…」

「誰に会いたいん?」

「山翔君…」

「どんだけ好きなん?」

「死ぬほど好き。死んでも好き…」

 サンザは微笑んだ。リンダに添い寝してもらい、眠りはじめた。

 再び目を開けることはなかった。


 目が覚めた。単なる夢なのか、妄想なのか、幻覚なのか…。

 辺りを見回すと、喫茶店の三階。女店主リンダさんのベッドの上。

 …さっきの夢でサンザが死んだ場所じゃないか。

 女店主が階下から上がってきた。

「目、覚めた? 気分はどんな?」

「ああ、良くなりました。リンダさん」

「どうして、私がリンダだと?」

「夢を見ていました。サンザとヤマトの物語。リンダさんも出てきました」

「そう。サンザ、山翔君に思いを伝えたんじゃね」

「なんか、辛いです」

「少しは痛み、感じてやって。サンザ、あなたに一生懸命、片思いしたんじゃけん」

「言ってくれていれば…」

「そうよね。じれったくて、私、何回もあなたに伝えようとしたんよ。でも、絶対にダメって」

 リンダさんは、三佐子さんの恋が昇華したと感じたようだ。

「サンザ、やっと届いたね」

 しばらく、沈黙。

「そういえば、この店のオーナー、我らの塾長が入院してるのは知っとる?」

「いえ、どこか悪いんですか」

「ずっと意識が戻らんのよ」

「え、そんなに?」

「うん。作家になるために塾をやめて、作品を書きながら、この喫茶店を始めたんよ。意識がなくなる前に、書きかけの小説があるみたいなことを言うとったんよ」

「絶筆?」

「まだ、生きとるけど、実質、そういうことになるね。で、こないだ、そのことを思い出して、塾長のパソコンを開けてみたら、あったんよ」

「小説の原稿?」

「うん。それがね。『純喫茶ぎふまふ奇譚』というタイトルで、『償い』っていう副題が付いとった」

「奇譚って、怪談のようなものですか」

「ちょっと読んでみたんじゃけど、ラブストーリーなんよ。塾長、歴史モノかSFしか書かんかったのに」

「そうなんですか」

「ある男が、偶然入った喫茶店の女店主に恋をする物語。なんか、女店主は私じゃなくて、サンザなんじゃけどね」

「!」

 既視感。というか、その物語の中身を知っているような気がした。思い出せるわけではないのだが、「ある男」は間違いなく自分であると感じた。

「塾長が、サンザにあなたを出会わせて、恋のきっかけを作り、期待させて、傷つけてしまった。そして、苦しい恋の果てにサンザは死んだ。その『償い』として、小説を書いたんじゃと思う。サンザの霊前に素敵な恋を贈ろうとしたんじゃないかね。未完じゃなければ、私がお金を出して、出版してあげるんじゃけど」


 リンダさんは、急に切なげな表情になり、ベッドに上がって、僕の目を見て言う。

「山翔さん、どうか。ミサコという女の子が、あなたに一生懸命、恋をしていたということを、どうか、どうか、覚えていてやって」

 目の周りをぐちゃぐちゃに濡らして訴えた。

「はい…はい…」

 僕はベッドに正座して、拳を太ももに突き、ただただ頷いた。

「ミサコさん、忘れません…」

 …『ミサコさん』。自分はその名前を、何度も叫んだような気がする。

 リンダさんは手のひらで、胸をとんとんと二回叩き、「ミサコ、ここにおるよ」と言う。サンザさんは自分の胸にいるという意味なのだろう。

 そして、僕の額をそこに抱き寄せる。

 その抱擁に身を任せた。

 …もう一人のミサコもヤマトが好きじゃったんよ。

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