戻ってきた男

大隅 スミヲ

戻ってきた男

 雨の匂いがした。もしかすると、この後ひと雨降るのかもしれない。

 鉛色の雲が広がる空を見上げながら、高橋佐智子は思っていた。


 傘は持ってきていなかった。なぜなら、今朝の天気予報ではイケメンの気象予報士が夜まで天気は持ちそうだと伝えていたからだ。

 あのイケメンだけが取り柄の男を信じた自分がバカだった。まだ雨は降っていないというのに、佐智子は心の中で気象予報士のことを罵っていた。


 順番待ちの列は、ほとんど進んでいなかった。

 ちょうどランチタイムなので仕方がない。こんなことなら、もう少し早い時間から並べばよかったと思っていた。


 激ウマのカツ丼とざるそばのセットが断然お得。

 誰が書いたレビューであるかはわからないが、このレビューのせいで、店の行列がいつもの倍になったことは確かだった。

 穴場だと思っていたのに。

 行列の最後尾に並んだ佐智子は悔しがった。


 列がだいぶ進み、あと5人で佐智子の番が来るというところで、ポケットの中でスマートフォンが震えた。


「なぜ、このタイミングで」

 思わず独りごとがこぼれる。


 ディスプレイに表示されているのは見覚えのある番号と『会社』という文字だった。

 会社。それは隠語だった。佐智子は警視庁新宿中央署刑事課強行犯捜査係に所属する巡査部長だった。


「はい、高橋です」

 列から離れながら、佐智子は電話に出た。

 会社からの連絡ということは、この列に再び戻れるということはないだろうと覚悟を決めて。


「織田です。昼休み中にすまないな」

 電話を掛けて来たのは、強行犯捜査係長である織田警部補だった。織田は佐智子の直属の上司でもあった。

「いえ。なんでしょうか」

「ちょっと面倒なことが起きていてね。三丁目の交番へ向かってくれないか」

 具体的な話は電話ではしなかった。それは盗聴を恐れてのことであり、一般回線を使用している際は、必要最低限のことだけしか話さないというルールがある。


「わかりました。三丁目の交番ですね」

「悪いね。富永くんも向かっているから」

 富永というのは、佐智子より年齢が1つ上の先輩刑事だった。普段、佐智子は富永とコンビを組んで捜査を行っている。

 三丁目の交番までは、この場所からであれば歩いても10分程度で着く距離だった。

 佐智子は、もう一度だけ蕎麦屋の看板を振り返ってから、小さくため息を吐いて交番へと向かうことにした。


※ ※ ※ ※


 三丁目の交番に着くと、制服姿の警察官たちが野次馬整理を行っているところだった。


「ご苦労様です」

 佐智子に気づいた地域課の若い制服警官が敬礼をする。たしか、5月に配属されたばかりの新人警察官のはずだ。


「状況は?」

「ちょうどパトロールに出ていて無人だった交番に何者かが押し入ったようです」

「なにか盗まれたりの被害はあったの?」

 もし、何かが盗まれたりしていれば佐智子たち強行犯捜査係ではなく、盗犯係の仕事となるはずだ。

「いえ、何も盗まれてはいません、ただ交番の中が荒らされただけです」

「なるほど。それで犯人の目星はついているの」

「いま防犯カメラのチェックを富永巡査部長がやっています」

 それを早く言えって。佐智子は心の中で毒づくと

 交番の中で防犯カメラの映像をチェックしている富永へと近づいていった。


「ご苦労さん。ちょうど、昼飯時だったろ」

 富永は開口一番にいう。コンビを組んでいると相手の心中まで察することが出来るようになってくるようだ。


「ええ。まだありつけてはいませんでしたけれどね」

「例の蕎麦屋だっけ」

「そうですよ。カツ丼目当ての行列が出来ていて――――」


「あ、そこで止めて」

 富永が映像を指さして、機械の操作をしていた制服警官にいう。

 ちょうど再生がストップされた映像には、ニット帽をかぶった髭面の男が映し出されていた。


「こいつが犯人か。だれか、こいつに見覚えある人いますか」

 富永の声に、交番勤務の制服警官たちが集まってくる。


「うーん、どうだろうね。私は見たことないかな」

 最初に口を開いたのは、交番長でもある野田警部補だった。


「自分も見たことはないですね」

「自分もないです」

 防犯カメラに映っていた男は、三丁目交番の警察官たちは誰も見たことのない男だった。

 男は交番内を見回すと、事務机に上ったり、パイプ椅子を振り回したりと、誰もいない交番でやりたい放題だった。


「こいつ、なにがやりたいんですかね」

 例の新人警察官がいう。

 それはこっちが知りたいよ。昼食を邪魔された佐智子は心の中でつぶやいていた。


 佐智子は防犯カメラに映っていた男の人相を頭に叩き込むと、交番を出た。

 なんとなく、予感があった。

 交番の周りを囲むようにして集まる野次馬たち。画像や動画を撮ってネットに流そうと思っているのか、スマートフォンを構えている人間が何人もいた。


 その野次馬たちを佐智子はさりげない様子で見回す。

 犯人は現場に戻ってくる。

 これは刑事になったばかりの頃に先輩刑事から教わったことのひとつだった。これについては、犯罪心理学でも立証されていることであり、自分でやったことがその後、人にどのような影響を与えたかということを知りたくなるのが人間のさがというものだそうだ。刑事はこの犯人の心理を逆に利用して、犯行現場に戻ってきた犯人を逮捕することも少なくはなかった。


「見つけた」

 野次馬の中に防犯カメラに映っていた男を見つけた時、佐智子はそのことを悟られないように別の方向を凝視しながら、目の端で男の姿をとらえていた。

 あの男、ご丁寧に交番で暴れた時と同じニット帽を被ったままである。これでは逮捕してくれといっているようなものであった。


 交番の脇に停めてある巡回用の自転車から少し長めの警棒を抜き取ると、佐智子は気配を消して野次馬の中に紛れ込んでいった。


 その時、富永は佐智子が妙な動きをしていることに気づいていた。

 なにか見つけたな。富永はそれを悟ったが、気づかない振りをしておいた。

 もし、ここで富永が動きを見せれば、佐智子の邪魔をしてしまうことになりかねないと思ったからだ。そこは相棒である。お互いのことをよくわかっていた。


※ ※ ※ ※


 その日の夕方のニュースでは視聴者からのスクープ映像ということで、佐智子がニット帽に髭面の男を逮捕するシーンが流されていた。

 テロップでは『交番荒らし。偶然、野次馬の中にいた犯人を刑事が逮捕』と書かれていた。


「偶然じゃなくて、必然だよな。犯人は現場に戻る。これは刑事にとっては常識だから」

 まるで自分の手柄のように富永がいう。


「はい、カツ丼とざるそばのセットお待ち」

 白い割烹着を着た女性店員が佐智子の前に注文した料理を出す。


 昼食を食べはぐってしまったため、佐智子は富永を誘い、夕食を蕎麦屋で取ることにしたのだ。


「あー、いい匂い。この匂いですよ、この匂い。醤油出汁と卵の。わたしのよく知る匂い。この匂いだけでも、ごはん3杯は行けますよ」

 佐智子はそう言って、カツ丼の前でスンスンと鼻を鳴らしてみせた。

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戻ってきた男 大隅 スミヲ @smee

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