第2話 記憶の代金は一千二百万ドル

湯船に浸かること三十分ほどしてからバスタブの栓を抜いた後、洗面台の前に立って深呼吸をしたベロニカはドライヤーを手に取り、濡れた髪を乾かすことにした。ドライヤーをオンにする前に鏡を見たベロニカは自分の顔を睨む。西洋人ではあるが一重瞼の顔は前の住人のアラブ系の顔とは全く違う。本来ベロニカジャスミンという名前はアラブ系のそれではないはずなのだが。この街にいる人間の名前は確実に偽名であるから特に考える必要もない。


「セントラルタワーマンズの電気料金徴収に備えて練習」


「どうも、セントラルのお兄さん達。料金はポストに入れてあるからどうぞ」


「え?顔を見せなさいって?まだメイクをしてないからまた今度にしてちょうだい」


このババくさい芝居をやることで二年の間だが前の住人を殺したことを問われたことはない。電気代さえ払えば奴らも黙っているはずだがそれを考慮しても顔を見せるメリットはないと考えている。


黒を基調としたコートやスキニー、ミリタリーブーツも前のベロニカのものを使っているので違和感なくアパート前の通りを歩くことができている。


依頼人のメールでも占い師風の口調で通す 誰がこの街の掲示板を支配しているかは検討がつかないし なるべく面倒なことにならないようにしたい。


拳銃はコルトパイソン(と呼ばれているらしい)の小型のリボルバーを使っている。ガトリングには六発の弾丸が入るので私は「シックスチャンス」と呼んでいる。


このアパートの二階は占い師の道具と衣裳が大量に置いてあった、その中にあったこの銃とダブルバレルのショットガンが私の仕事道具だ。

ショットガンは「ヘッドスプラッター」と呼んでいる。


狂った街で修羅場を潜り抜けるたびに湧いてくる孤独感を紛らわせる時にその辺のものに名前をつける癖がついた。特に意味はない。


どうやら前の占い師は路上で仕事をしていたようで自分の身を守るために武器も持っていたようだ他にもいくつかのライフルがある。


アパートは安上がりな英式のものでリビングと玄関とバスルームへの通り道である廊下と階段を合わせて二十畳ほどの広さがある。こういった古風な建物は従来観光客用のホテルだったはずなのだが。この場所がなぜ荒廃しているのかはわからない。ベルリンの壁や東西に分かれたドイツのような状況なのだろうか。アイルランドは元から独立した孤島だったはずなのだが。西暦はとうに二千二十年を過ぎている。記憶はないが基本的な世界の歴史を私は覚えている。


(閉鎖されたロンドン)に来た時の記憶を思い出しながら歯磨き粉をブラシにつけた。今日も中華街で誰かを追いかける夢を見た。起きたらまず記憶の中にある自分を探す。でも見つかった試しがない。


私はトラックの荷台に乗せられていた。そして路上に投げ出されるところから記憶が始まる。酩酊している私と同じく荷台からゴミのように捨てられていた数人はみすぼらしいホームレスに斧で殺されてしまった。必死で逃げること数分でこの街はロンドンだと理解した。そう認識すると同時に違和感を覚えた。


川沿いに作られた時計塔の下にあるドーム状の建物には電線が張り巡らされていて異様なオーラを放っていたことを覚えている いつ頃からロンドンはこうなったのだろうか…と当時は考えたが今はどうとも思っていない。


その後占いの出店を閉めて帰宅しようとしていた「ベロニカジャスミン」に私は家に入れて欲しいと頼んだ。だが願いは届かなかった。私は彼女が「家に入ってスープでもどうぞ」と言われること期待していた。この時の浅はかな判断がこの街に来て最も死に近かったと言えるだろう。


ここは話し合うことができる街ではなかったのだ。占い師のベロニカは緩いスカーフとコートが一体になった袖から銃を取り出して銃口を私に向けた。


私は両手で相手の銃を持った手を挟み斜め上にそらした。銃弾は背後の建物の壁にあたったが誰かが来るようなことは起きない。


私は奪った銃で占い師を脅して家まで誘導した後に元のベロニカを殺した。この段階で交渉する選択肢はないと直感で判断してのことだった。


占い師はキッチンの床下に埋めてある。ちょうどシックスフィートアンダー。棺桶が入るべき場所に。せめてもの償いだ。この後から私はベロニカジャスミンとして生きている。


この場所に来る前の記憶はない。私は銃の扱いに長けていることから元々は兵士や警察の職を持っていたかもしれないと自分の元の存在を推測している。


ベロニカの指紋認証を私のものにアップデートした後にネットを使って探した情報を印刷して部屋のウッドボードに貼り付けてある。後で手に入れたプリンターは私の専属メカニックであるチャン・トウザキの手作りのものだ。音がうるさいのでその情報を印刷したきり使っていない。


(閉鎖されたロンドンに来る前の記憶が欲しい方へ)


この街で生活しているあなたが記憶を取り戻す意味はありません。ですがもし本当に知りたいのであれば…本っ気で記憶が欲しいのであればクイーンズ大病院の脳外科にご連絡ください。


『一千二百万ドルで記憶のメモリーカードを作成させていただきます!!』


この広告は当然信用できない。ただ直感で何かが手に入る気がした。私は記憶の復元のための資金を稼ぐために殺しの仕事も請け負っている。このアパートの屋根裏に札束を入れたアタッシュケースを隠している。一千二百万ドルが中身を埋めるのはまだ先の事になりそうだ。

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