4 まだ変わらずにそこにあるもの

 でも、まあ、確かに、なくはないのかもしれない。


 真記介は、自身の著書だという文庫本を二度読んだうえでそう結論づけた。


 むかしから、運動以外はわりとなんでもそれなりにこなすタイプだった。だからまあまあなんでもそれなりに褒められたし、それなりに好きになったし、それなりの成績を出して、それなりで終わった。


 創作活動もそのうちのひとつだ。


 高校を卒業してフリーターになって、ほかにやることもなくインターネットに入り浸り、そこで出会った他人の創作物に触発されて小説を書きはじめた。個人サイトを作って公開すると思いのほか反応があって、仲間ができて、それが嬉しくて、何度か休止期間を挟みながらもずっと続けていたけれど、いつのまにか仲間たちはみんなプロの作家になっていて、そうでなくてもなにかしらの活躍をしていて、自身の感情をごまかしながら彼らに賛辞を送り、それまでと変わらず仲よくしてもらっているうちに身の置きどころがなくなって、やめた。ちょうど新型コロナウイルスが猛威を振るいはじめたころだっただろうか。


 あのときやめていなかったら、こういう日が来ることもなくはなかったのかもしれない。


 とはいえ、


「吹奏楽部ものはないよなーって思います」


 真記介の発言に、トーク会の進行役が「ええ、ないんですか!?」と反応して来場者の笑いを誘う。


 突然押しつけられた今日のトーク&サイン会も、なんだかんだで真記介はそれなりにうまくこなしていた。ただ、もうすぐ映画版も公開されるという自著が吹奏楽部を題材にした青春小説だったせいで、ある種のハイな状態になっていた。


「林先生は、ご自身も吹奏楽をやっていらしたんですよね」

「はい。中、高とフルートを吹いてました。高校では部長もやってましたね」

「フルート! いいですねえ、憧れます。高校は、かの有名な強豪校ということで」

「あはは、そうですね。公表はしてないんですけど、たぶんここにいるみなさんもよくご存じの、なんとか市立なんとか高校です。二駅先の」

「それもうほとんど言っちゃってますね」


 再び笑いが起こる。


「えー、では、作品の舞台となっている高校のモデルは、やはりその」

「はい、母校です」

「ですよね。ということはですね、その、作品のなかで描かれているようなことも、実際にあったりしたんでしょうか」

「学年間の対立とかですよね。ありましたよ」


 今度はどよめきが控えめに広がる。


「ほんとはもっとエグいこともいろいろ書きたかったんですけど、各方面からNG出ちゃって」

「一体どんなこと書こうと思ってたんですか」

「言っていいんですか?」

「……すみません、NGで!」


 また笑い声が上がった。真記介も笑う。


 楽しい。


「でもほんと、そんな感じだったんで、いい思い出ばかりじゃないというか、むしろトラウマというか、あ、もちろんそればっかりじゃないんですけど。まあ、そんなのがあって、ぜんぜん、書く気にはなれなかったんですよね」

「では、なぜ」


 真記介はそこで意図的に間をつくった。来場者の視線が、真記介の内面にそそがれるのを感じる。古いショッピングモールのなかの、年季の入った本屋の片隅にある小さな特設会場は、真記介に興味を持ってくれる人でいっぱいだった。


 このひとたちが知りたがっている「林真記介」のことはよく知らない。けれども、彼の気持ちは痛いほどにわかる。


「むかついたからです」


 真記介は断言した。


「腹が立ったんです。吹奏楽部をなんにも知らないやつが吹奏楽部を語ることに。最近、吹奏楽部ものの作品ってけっこう多いでしょ。もちろん、あー、この人わかってるなあ、経験者なんだろうなって思う作品もあって、そういうのはあまりにもよすぎて吐きそうになるんですけど。でもそうじゃないやつのほうが多くて、たぶんそっちのほうがウケるんでしょうね、やたらとキラキラしててめちゃくちゃ前向きで、なんか問題が起きたとしても最終的にはぜんぶ美談で、吹奏楽部の上っ面しかなぞってないのが本当に多いんです。そんなわけないだろって。あんた俺たちがどんだけ心臓から血ぃ流しながらやってたか知らないだろって。ふざけんなよ。ほかのもの全部捨ててなにもかも極限まですり減らしてボロボロになって、傷つけあって踏みにじってどんな敵よりも憎くて大切な仲間と、それこそ死ぬ思いでステージ立ってんだよ。必死でキラキラさせてんだよ。たった数分の音楽のためだけに。それを上澄みだけすくって、青春だの友情だの感動の実話だの、そんな薄っぺらい言葉で片づけられちゃたまんないんですよね。俺たちの血にまみれた聖域を気軽に観光地化されちゃたまらないんです。だから、じゃあ俺が書くか、って。俺が本物を見せてやる、って、そう、思ったんだと、思います」


 会場が静まり返っていた。


 真記介は静かに息を吐いた。


 やっべ。これやっちゃったかも。


 とりあえず、にこりと微笑んでみる。大抵のことはこれでなんとかなったりならなかったりするものだ。ちなみになんとかならなかったから以前の真記介は職を失った。


 司会者を見ると、言葉に詰まった様子で若干頬を引きつらせていた。


 真記介は目をつぶった。


 あかん。


 やっちゃってるよ。もうこれ絶対やっちゃってるよ。なんとかならないパターンだよ。世の中なんとかならないパターンばっかりだよ。


 心臓から手のひらへと汗をしたたらせつつ、真記介は猛烈にサクの存在を恋しく感じていた。いまこそそばにいて「修正しとく?」と言ってほしかった。だが残念なことに、サクはいま学校で真面目に試験を受けているはずだ。えらい。えらいけどちょっとこっちに来てほしい。


 きつい。


 真記介が押し寄せる後悔と羞恥に呑まれて溺れそうになったときだった。ふいに、どこからか拍手が上がった。


 目を開ける。一瞬くらんだ視界の端、会場の最後方で、ひとり、熱心に手を叩いている人がいる。


 本屋のエプロンをつけた彼を、真記介は知っていた。「どんな敵よりも憎くて大切な仲間」。そのうちのひとりだった彼の屈託のない拍手は、やがて静かに伝播して会場ごと真記介を包んでいった。



     *



「トシシュン、今日飲みにいこう!」

「断る」

「なんで!」


 トシシュンこと土志田としだ隼也しゅんやは、「店長」と書かれたネームプレートのついたエプロンを外しながら、真記介のほうを見ようともせずに答えた。


「彩乃先輩から断ってくれって連絡来た」

「おい貴様」

「おまえ体調よくないんだろ。早く帰って寝ろよ」

「ヤダ優しい」

「あと俺は忙しいしめんどくせえ」

「おい貴様」


 バックヤードの角のパソコンデスク、そこがこの本屋の店長の定位置であるらしい。隼也がパイプ椅子の背もたれにエプロンを掛けてから、その席に座った。相変わらず真記介のほうを見ようともせずにゼリー飲料をくわえると、そのままキーボードを叩きはじめる。あまりにそっけない態度は、トーク会場でまっすぐな拍手をくれた彼と同一人物とは思えない。


 真記介も休憩スペースのパイプ椅子を拝借して腰掛けた。


「トシシュンー」

「んー」

「なんか語ろうぜ」

「無理。口きくと仙人になれねえから」

「杜子春かよ」

「トシシュンだよ」


 ふと目に入った壁のデジタル時計が、十四時四十六分を示している。


 隼也の担当楽器はチューバだった。チューバは合奏の最低音部を支える大型の金管楽器だ。最高音部を彩る木管楽器のフルートとは真逆に位置するパートだが、隼也と真記介は三年間同じクラスで、よくつるんでいた。クラスの違った万里よりも、一緒にいる時間は長かったかもしれない。


 だからだろうか。もはや親交のなくなったいまでも、隼也は真記介のことをよくわかってくれていた。


「まあ、帰りづらいならしばらくここにいてもいいけどさ」


 なんか知らんけど、と隼也はキーボードを叩き続ける。


「ただし俺の休憩が終わるまでな。長くてあと十分くらい」

「はあ? さっき入ったばっかだろ。ブラックじゃん」

「だから忙しいっつってんだろ。引っ越しの準備もあるし」

「え、トシシュン引っ越すの」

「転勤」


 まあしょうがねえわな、と隼也が言うのは、この本屋がもうすぐショッピングモールごと閉店してしまうからだ。


 四十五年間、市営文化ホールと同じように愛されてきたらしい。真記介も高校時代に隼也たちと遊びにきたことがあったし、楽器屋で教則本を探したり、手芸屋とか百円ショップとかで演奏会用の衣装の素材や小道具を揃えたりもした。思い入れはそれなりにある。もともとこの街の人である隼也にとってはなおさらだろう。


 跡地にはマンションが建つ予定だという。真記介たちの思い出は、どんどん再開発に埋め立てられていく。


「どこ行くの」

「福岡。太宰府」

東風こち吹かばにおいおこせよ梅の花ってこと?」

「あるじなしとて春を忘るなってこと」

「左遷か……」

「バカヤロウ。どっちかっつうと栄転だわ」

「じゃあ飲みにいこう」

「行かない」


 隼也が痩せ細ったパウチをゴミ箱に投げ入れる。軽く、カサついた音がした。


「今年の大河さあ」


 ふいに、隼也が言う。


「うん」

「劇伴にクラシックのアレンジが使われてんのな」

「うん」

「で、そんなかに『新世界より』があって」

「……うん」


 ドヴォルザークの交響曲第九番『新世界より』は、真記介たちが高校最後のコンクールで演奏した曲だった。「林真記介」の小説のなかで主人公たちが演奏した曲でもある。大好きで、苦い曲だ。


 隼也が振り向いて言う。


「なんか、すげえおまえに会いたくなった」

「でも飲みに行ってはくれないんだ?」

「それはそれ、これはこれ」

「いけず」

「そりゃおまえのほうだろ。卒業した途端、音信不通になりやがって」

「音信不通ってほどでもなかったと思うけど」

「まあ、ケータイ番号を変えてなかったってとこだけは評価してやるよ」


 真記介だってべつに、それまでの関係を断ちたかったわけではない。連絡が来れば答えたし、遊びに誘われれば出向くこともあった。ただ、母校のイベントや吹奏楽部の同窓会には一度も行かなかった。真記介から誰かに連絡をすることもなかった。みんながやっているような匿名性のない交流重視のSNSは避けて、招待されても逃げた。そうしているうちに、誰からも連絡が来なくなっただけのことだ。


 真記介だけが万里の死を知らずにいたのも、そういう理由だった。


「おまえの小説」


 隼也が言う。


「すげえよかった。吐きそうになったし、正直泣いた。なんつうか、刺さった。あとモデル料よこせって思った」

「あ、ごめん、その、なんか」

「バカ。嬉しかったよ」


 隼也が笑う。


「嬉しかった。ちゃんと覚えてんじゃねえかって。俺たちのことも、吹奏楽のことも。真記介に忘れられたわけじゃなかったんだなってさ」


 忘れられるはずがなかった。あの流星のように駆け抜けた三年間を、忘れる方法があるなら教えてほしかった。


 この憎しみにも近い愛の燃えさしを、どうしたらいいのか、教えてほしかった。


「トシシュン」

「ん」

「やっぱ飲みに」

「行かねえ」


 にべもなく、隼也が言い捨てる。


 真記介は笑った。

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終止線上のコーダ 井中まち @nostami

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