山月記:after

itsukaichika

第1話

 私の名前は夜鈴イェリン隴西ろうせいの果ての果てに、二人の子と小さな家を抱えて暮らす、さえない村の女です。ここ最近、裕福と称されてもいいほどのお金はありますが、これを贅沢に充てようという気は全くありません。


 遠いところにいる夫がコツコツとためてながらも送ってくれるもの、それを無駄遣いすることなどできません。一度はついた職を離れてまで詩人を志したことから、「自分の欲のために家族の生活をおろそかにした」卑劣漢を旦那にもつ私は、村のご近所さんたちから憐みの目を向けられることも少なくありません。しかし、「家族のために自らの夢をあきらめ、あらゆる屈辱に囲まれながらも働き続ける」ような高潔漢を夫としてもつ幸せに、さて、喜びと感謝以外のなにを感じればよいのでしょうか。 


 ここ数年はきっと仕事が忙しいのでしょう。しばらく会うことのできない日々が続いておりますが。



_______________


 ある日、畑での農作業も一区切りがつき、一休みでもしようかと鍬と腰をおろしたまさにそのときでした。道の向こうから、ここらでは見慣れない大きな馬が頭をのぞかせたと思うと、高貴な布に身をつつんだ役人が乗っているのが見えました。それも顔をよく見れば、なんと夫の古い友人、袁傪えんさんではありませんか。


「お久しぶりですな。奥様」

「ええ、数年前夫があなたを家に初めてお呼びして以来かしら。今日はどんなご用でいらして?」

「今日は日差しが強いですな。立ち話はなんですから、中に入ってお話ししましょう」

 ごく自然な文脈の、なんの変哲のない受け答え。夫は来ずに別の役人、それも本人と親しかった者が来ているところに、一筋の不穏な予感がしましたが、気付かなかったことにしました。


 少し長めにお茶を淹れたあと彼の前に腰かけると、無情にも袁傪は口を開き話始めました。想像以上に思った通りの話に私の心はきつく締め付けられました。この不幸に、悲しみと怨嗟以外のなにも感じることはできず、その日それ以降はずっと別室にこもり、一人すすり泣いておりました。




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 次の日、心の動揺も少しはましになったところで、子供たちの世話を丸一日すっぽかしてたことに気付き、焦って別室から出るとそこにはまだ袁傪の姿がありました。

「おお、起きられましたか。二人の世話はやっておきましたぞ」

「ああ、そうですか。何から何までありがとうございます」


 その直後、なんともいえない沈黙が私たち二人を襲ったかと思うと、間もないうちに、厚情にも袁傪が口を開き話始めました。

 

「旦那様のことは非常に残念でした。心中お察しいたします。ときに、私は直前まで彼とともにいたのですが、そのときにこれを託されまして、」 

 そういうと袁傪は薄く束ねられた数十枚の紙を胸元から出し、私に差し出しました。

これは?と聞こうとした私を追い抜くかのように袁傪は自ら話しました。

「彼の遺作、そう呼べるものです。病床の上、手を動かすこともままならぬ故、私の部下に書きとらせました」


 袁傪の手から受け取った「遺作」を開くと、そこには三十篇にもなる詩の数々が記されていました。文字の読めない私に理解できるものかと文字一つ一つに目を通していくと、おどろいたことに次第に大粒の涙が流れてしまうのでした。


 袁傪が不思議そうな顔をするのも無理はありません。

「なぜ、泣かれるのです。意味が理解できるのですか」

「はい、、分かります」

これらの三十篇の詩は全て、役所の仕事を離れ詩人としてこの家にいることができた間に、彼がその妻子といっしょになって詠んでくれたものだとすぐに分かりました。

その昔、詩の作れない妻と子供も一緒になって詠んだ夜に彼が発した言葉。

「家族で無理やり作ろうとしたせいか完成度は低いが、俺は決してこの詩を忘れないだろう」と言っていた彼の笑った顔が、永遠と頭に浮かんでくるのでした。




_______________

 袁傪はこの家に来てから二日目の夕方に発ちました。

「では奥様、今後ともお元気で」

「何から何まで本当にお世話になりました。気を付けておかえりくださいな」

玄関先の庭で別れの挨拶をしていると、家の中から小さな息子と娘が飛び出してきました。


『袁傪おじさんまたねーー』

「おう、また遊びに来るぞー」


 彼が丘のかげに隠れるまで互いに手を振ったあと、そっと一息をついたそのとき、もう一つ、最もつらいやらなければならないことを思い出しました。

 夫のこと、どうやってこの子たちに伝えようかしら..


 細めた目で子供たちを悲しく眺めていると、今年で三つになる娘がしゃべり始めました。

 

 「わたし知ってるよ。お父さんって、”とら”になっちゃったんでしょ」

 「えっ?」

 なんのことやらと思っていると、横にいた五才の息子が

 「袁傪おじさんが昨日の夜、僕たちによんでくれたんだ。おとうさんが向こうで作ったお歌」

そう言って手に持っていた一枚の紙切れを手渡してきました。


 「これは、、」

くしゃくしゃになっていたのをひきのばして見てみるとそこには、いつの日かに彼が詠んだのであろう詩が刻まれていました。読もうとしても、その文字列の中に私の記憶にひっかかるものはありませんでした。けれど、今度もわたしの顔を、小粒だけれども涙が流れはじめました。


 ああ、なるほど。なんて優しい人なんだろう。この人は自分が死ぬ間際まで家族のためを思って、、、


「お母さん、あれみて!」

娘のうれしそうな声にうつむいた顔をあげると、そこには金色に光を帯びた月が、なんとも幸せそうに浮かんでいました。


 そうか。もしかしたら、悲しんでいたのは自分だけだったのかもしれない。”世界”はこんなにも私を笑顔にさせてくれようとしているのに


「ありがとう、李徴。愛しているわ」


何千里も離れた、名前の知らない場所で、虎が咆哮するのが聞こえた気がする

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