第31話 お座敷


 蕎麦屋の二階が客で埋まった。

 大矢さん店主が挨拶して引っ込むと俺は都鳥前弾きでばやしを鳴らす。ドドドンドンに乗って飄々と松葉家さの助こと橘さんが出てきて喝采が起こった。


「えー、こんなめでたい会にお呼びいただきまして、まことにありがとうございます。何がめでたいかと申しますともう、この店の名前が縁起がよろしいんでございまして」


 橘さんはつらつらと店名をほめ、大矢さんをほめ、この商店街の活気をほめていく。呼んでいただいたのだから気分よくなってもらわなくてはいけない。そのへんは芸人なのだから幇間たいこもちと同じなのだった。

 そんなところから入った噺は『時そば』だった。これにはという蕎麦の屋台が出てくるし、そりゃるだろう。

 今日は場をあたためる軽いのをひとつ、それから大ネタをひとつやってくれる。まずはおなじみの蕎麦屋の噺からなのだった

 音響係の俺は一番前の端っこに陣取っていた。向かいに夏芽がいて何かとケラケラ笑い声を上げていた。いい客だ。こういうのがいると客席全体が引っ張られてよく反応してくれる。

 俺の隣は先生だった。真ん中をすすめたのだが、連れてきた奥さんのためにと遠慮された。楽しんでいても大声で笑ったりはできないから、と。数年前に患った肺の病気のせいで大人しく過ごしているといい、先生はかいがいしく気をつかっていた。


「――今何時なんどきだい? 変な所で時ィ聞きやがったね。あんな勘定してるさなかに時なんか聞いたら勘定間違えちゃうじゃねえかよ」


 これは蕎麦の代金を詐欺る話だがいいのだろうか。まあ今日の蕎麦をおごってもらう俺が気にすることではないかもしれない。若者にタダで蕎麦をふるまっても、好きな落語で楽しめるなら大矢さんは上機嫌だった。

 だが少し気になることがあった。橘さんが羽織を脱がないのだ。普通は少し話してあたたまったらさりげなく脱ぐものだがどうしたんだろう。人が集まった会場は暑いぐらいなのに。

 『時そば』をサゲて拍手をもらいながら、橘さんは用意されている湯呑みを手にした。蓋をずらして少し喉を湿す。二つの噺とその枕、合わせて五十分ほどを一人でしゃべりきるのだ。しかもここから大ネタだった。湯呑みを戻す。


「――そろそろ北風がしみる頃合いになって参りまして、独り者のあたしには身も心も寒い時期になりましたが」


 何を始めるのか。俺は静かに待っていた。


「もう少しするとクリスマスなんてェあたしを叩きのめすイベントがやってくるてんで、その日なんかは是非とも寄席に出ていたいと思ったんですね」


 この人のすごい芸が観たいんだ。

 本当は大学時代から憧れて憧れて、届かなかったこの人の噺。


「ところがどこももぐり込む隙がない。先輩方にはじき出されちまいまして、こんな寂しい者しかいない業界にいてもいいんだろうかと、つくづく未来を悲観したわけなんでございますが」


 橘さんを追いたくても俺がしゃべれたのは使い捨てのセリフだけ。その場かぎりの浮き草の業界にいて芸の世界をうらやむばかり。

 だからお願いだ、また俺を打ちのめしてくれ。俺がもっと高みに食らいつきたくなるように。


「クリスマスなんてのは異国から来たお宗旨しゅうしのものでございますが、日本にも昔っからにぎやかなお宗旨があったもので――」


 にぎやかな宗旨。

 俺は、あ、となった。羽織を脱がないわけがわかった。『鰍沢かじかざわ』だ。


「――身延山の方にお詣りをいたしまして、その帰り。ひどい吹雪にあいました」


 雪にまかれ猟師の家に一夜の宿を求めた商人が金目当てに殺されかける物語『鰍沢』。

 毒入りの卵酒を口にするが、体が痺れたところにお詣りで手に入れていた毒消しの護符を飲み助かる。その後に家の亭主が誤って毒を飲んでしまい、くるわ抜けしてまで一緒になった愛しい男の災難を逆恨みした女が亭主の火縄銃を持って吹雪の中追いすがり――というわりと壮絶な噺だ。

 そこに滑稽はない。人を殺してでも金を奪い男と幸せに生きていきたい女の情念を語り上げていく。瀕死の男を前に泣きむせぶ女の芝居では拍手が起こった。そして吹きすさぶ雪。


「こけつまろびつ来てみれば切り立った断崖。その下はと見れば東海道は岩淵へと続く鰍沢。この数日降りつづいて増した水がドオオォ、と流れていきます。これは、と後ろを振り向けば、たもとに庇う火縄をチラチラさせながら迫るお熊の姿」


 畳み掛ける橘さんの言葉に客は酔う。固唾を呑み、行く末を見守る。

 つむぐ物語に心奪われるのは、聞かせる古今東西の語り部や吟遊詩人たちの鮮やかな芸によるもの。その一つが、ここにあった。





「――ここの蕎麦うまいね」


 蕎麦御膳をあらかたいただいた頃合いになって俺のところに来た橘さんは素知らぬ顔だった。

 「お材木で助かった」とサゲて喝采を浴びた人は、汗を拭き羽織を脱いで客と一緒に蕎麦をたぐってはチビリと酒もいただいていた。手にぐい飲みを持っている。顔が少し赤い。


「うまいですね。俺も初めてなんです」

「なんだよ、お馴染みみたいな顔してたくせに」

「大矢さんは知ってますけど、近所で外食なんてしませんよ。貧乏役者なんだから」


 違いない、と笑われた。

 実のところ俺は上機嫌だった。思った通り、橘さんがすごかったから。こんなものを聴いて観たんだから、もう満足だった。


「――どうだったよ」


 俺をめつけて橘さんはボソリと言った。

 俺のことを少しは意識してくれているんだなと嬉しくなった。勝負する目で俺を見ていた。俺に聴かせるためにあれを掛けてくれたと自惚れてもいいだろうか。だとしたら小躍りしたい。俺は手にしたぐい飲みの中で酒をぐるぐる回しながら答えた。


「書き割りが見えましたよ。水墨画みたいな、雪の降りしきる山が」


 語られた世界に俺は連れて行かれたんだ。

 橘さんの口の端がほんの少しだけ上がり、ぐい飲みを差し出された。俺のを軽くぶつける。


 な。これが芸ってもんだ。

 たった独り、音も明かりもなしに芝居をやられてしまったら俺たち俳優はどうすればいいんだろう。

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