第20話 商品価値
午後ゆっくりと仕事に出たら、途中の〈アトリエ喫茶・天〉は定休日だった。ということは夏芽はアトリエにいるのだろうか。朝リリンとキーホルダーの鈴が大きな音をたてていたから、外には行ったはずだ。
今日は店員の仕事ではなく陶芸家として土に向き合っているのかもしれない。中学か高校のジャージ姿で無心に粘土を見つめる夏芽の眼差しが浮かんだ。
そこを通りすぎ駅に向かう俺の今日の仕事は二時間スペシャルバラエティのVTRだった。
スタジオに入ったら後半の原稿はまだできていなかったがそんなの通常運転だ。担当の役を割り振られ原稿をチェックして、録れるところから収録が始まった。海外からの面白映像のセリフやナレーションだったので少々テンション高めでないとOKが出ない。ダウナーな気分の俺は必死で腹に力を入れた。
視聴者としては興味のない番組や、好きでもない作品。そんなものでも俺はしゃべる。与えられたセリフを懸命に。俺の声は商品だから。
心からの言葉でなくとも、役になりきっていなくとも、それらしければNGにはならない。だがそれでもどこかに俺の本当の言葉があるんじゃないかと期待しながら、俺は毎日しゃべってきた。
そうしたらどうだ、まさか付き合った女を拒絶する言葉の中に俺の真実があるなんて。求めていたのはそんなのじゃなかった。
研ぎ澄ました道を行く、アトリエでの夏芽の指先。そして高座から客を支配する橘さんの目配り。俺が欲しかったのはそういうものだったのに。
「お疲れさまっしたー!」
男性三人女性三人でさんざん演じ分けて結構な量を収録した。途中でやってきた
「どんよりだね各務くん」
「はあ。まあそうかもです」
「疲れてる? 仕事多いっけ」
「いえ。仕事は余裕あります。どうぞ入れて下さい」
どんよりしているのは私生活の方――いや客演の関係なら公なのだろうか。よくわからなかった。そしたら本村さんが知らずに核心を突いた。
「舞台、一ヶ月後だよな」
「――はあ。でもちょっとトラブって代役が立ったんで、俺は今週稽古ナシです。代役の抜き稽古だけ集中してやるんですけど俺は絡みないんで」
「おお。たいへんだなジョーカさん」
こんな時期に通し稽古ができないのは正直痛いところだろう。劇団員それぞれにだって生活があるから稽古は毎日ではない。俺なんか週二しか参加していなかった。代役のために臨時で招集をかけると言っていたが、みんな一杯いっぱいだった。
それに稽古以外でもフライヤーの出演者訂正シール貼りもあったし、軽く合わせた衣装の手直しや舞台監督との打ち合わせなどバタバタのはず。だが客演の俺はそういうことから隔離されている。仕事をしていた方が気がまぎれていいんだ。すると顔を寄せた本村さんが小声で言った。
「各務くん、たぶん仕事増えるよ。動画の方で座間が張り切ってる」
「――え」
ぎょっとする俺に、本村さんはニヤリとした。
「お疲れ」
肩をポンとされた俺は、ぼんやりと
面倒くさくなって夕飯は駅前のコンビニで弁当を買った。最近不摂生だと思っているが、やる気が出ない。米を炊くのすらダルかった。
暗い商店街を歩いているとカバンの中でメッセージが鳴った気がした。また夏芽かな、となんとなく思った。〈喫茶・天〉の近くだったから。今日はアトリエで陶芸だったのだろうし、前に俺が作った小皿はどうなったのか気になる。片手でスマホを探り出して見たら違った。
「……ンだよ」
喉の奥から吐き捨てた。橘さんだ。送信者名だけで肝を冷やしてくれる人は他になかなかいない。仕方なく開いた。
〈こんどおざしきやるのおまえんちのちかく〉
〈あたりや〉
〈そばやな〉
「変換……」
この近所で蕎麦屋のお座敷に呼ばれたということだろうか。
二ツ目の噺家は
〈うまいそばたべたい〉
「勝手に食べてくれ」
帰り着いた俺は返信を後回しにした。弁当もほったらかしてシャワーを浴びる。食事もベッドに座って摂るので着替えてからでないと汚いような気がするのだ。この辺は別に美紗の影響ではなく、感染症を持ち込まないための自衛策。喉をやったら食い詰める仕事柄によるものだった。
「あたりや……?」
部屋着のスウェットを着てから首をひねった。近所の飲食店のことは本当に知らなかった。外食はしょっちゅうだから、むしろ家で食べられるなら家にいたい。検索しようかと思ったが、ふとメッセージを送った。
〈あたりや、てソバ屋知ってる?〉
夏芽にだ。あいつなら商店街がホームグラウンド、この辺の店に詳しいだろう。そう思っただけなのだが隣のドアの音がした。うちのインターホンが鳴る。応答する前にドア越しで声がした。
「かがみん、開けな」
なんで命令形なんだ。呆れながら言う通りにするとスマホを手にイエイ、とにっこりされた。得意げに教えてくれる。
「
「大矢さん――あ、矢か。それで中り」
あの落語好きな大家さんぽい大矢さん。矢が当たることのゲン担ぎで縁起のいい名前である中り屋を自分の名前とかけて店名にしているのだろう。なるほど落語会を開くにいい場所だった。
「大矢さん蕎麦屋だったんだ」
「うん。何、お蕎麦食べたいの」
「いや。知り合いの噺家がそこで落語やるって」
「あ、お蕎麦と落語の夕べをやるから聴きにおいでって誘われてるなあ。かがみんの友だちなんだ?」
「大学の先輩」
「じゃあ絶対行かなくちゃ」
目をキラキラされて、しくじったことに俺は気づいた。
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