第8話 道
先生が行ってしまっても夏目の瞳に踊っている色。俺でもさすがにわかる。そういうことなのか。
「先生って、いくつ」
「んー、七十ぐらい」
「ふーん」
それはまた。親より上だろうに。
夏目はほぼ同じ大きさに切った粘土を俺の前に並べ、椅子を勧めた。
「昔やった粘土遊びと同じ。できるだけ厚みは均等にね」
「ん」
「ひび割れそうなら
ジャア、と水を入れたのは小ぶりのバケツだった。豪快というか雑だ。そして自分も切れ端を一つ手に取り座る。コロコロと手のひらで丸めた粘土は次に柔らかく親指を受けとめて平らに形を変えた。
「おお」
皿っぽい。
「ふちがあると汁けがこぼれないね」
ひょいとつまみながら一周回す。
「こんなのどう」
「すごい」
使いやすそうな小皿がそこにあった。真似してやってみる。が、難しかった。平らにならない。円にならない。ふちの高さも揃わない。仕方なく机の上でゆっくり整える。
夏目の仕草は静かだ。視線も、手つきも。おそらく心も凪いでいるのだろう。
土を切り取り、丸め、伸ばし、整え。
繰り返し繰り返し繰り返し。無心に。
幾枚かの小皿を作ってしまうと夏目は立ち上がり、また別の粘土で菊練りを始めた。俺はその作業を見ていたくて手を止めた。
リズミカルに動く腕。かすかにキュ、キュときしんでいた土が三角コーンのように整う。脇にあった布をはがして現れた機械に粘土を据えるとその前に夏目は座った。電動ろくろのスイッチを入れる。
手に水を取りながら夏目は土を両手で包んだ。ぐらぐらと暴れる粘土が次第に落ち着いていった。
脚を開いて座る腿に肘をつき、脇をしめ、全身で土と向き合う。回る粘土の山を圧し潰し、また締めて上に伸ばす。
「土を殺すのよ」
見つめているのがわかったのか、突然つぶやいた。殺す。
粘土は夏目の手の中で意のままだった。潰され、また立ち上がり。表面が水でゆるみピチピチと音を立てていた。跳ねた泥が夏目のジャージを汚した。
ゆるみ過ぎた泥をそっとしごくとビチャと捨て、夏目は土の上部を少し分ける。その塊を指と手のひらで包みこむと、つぼみが開くように土の形が変わっていった。
圧し広げる親指。外側に添え支える四本の指と手。薄くなる土を指先が挟みなぞる。静謐。
「――」
作品から離れてなお土の形をたどる指先は一曲終えたピアニストのようだった。余韻を聴いてから、ろくろは止まった。できた器を糸で土台の粘土から切り離す。夏目がふう、と息をした。
「深皿。カレーとかどう?」
言いながら底に両手の指を添えて横の板に移動させる。そこで乾燥するらしい。
「俺には小さいかな」
「そう? 焼くともっと縮むし……じゃあこれはサラダ用か」
何を盛りつけるか想像しながら器を作るのか。夏目の作った皿ならレトルトのカレーじゃなく鍋で煮たカレーがいいと思った。しばらくぶりに料理するのもいいかもしれない。
「あれ、切った粘土ほったらかしてる」
「あ、悪い」
夏目のやる事に目を奪われていたせいだ。自分で下手くそにこねくり回すより完成した所作を見ていたかった。稽古に稽古を重ねた芸事と同じ洗練がそこにあった。
「いいよ。作ったぶんは乾かして焼いてみるね」
「焼くのもできるのか」
「
ウヘヘと笑う夏目は先ほどの静けさが嘘のように妖怪・中学ジャージに戻っていた。乾きかけて残った粘土を集め、まとめる。
「気分転換できた?」
ずぱりと言われた。
「仕事たいへん? 何してるか知らないけど。あ、落語の人か」
「……声優やってる」
「スーパー?」
せいゆう。それはネタとしてよくある返しだ。こいつこそ小噺を完璧に繰り出してきて「落語の人」並み。たぶん素だけど。
「しゃべるやつ。吹き替えとか」
「ああ! かがみんの声、気持ちいいもん」
理解したとたんに納得された。でも俺はたいした声じゃないし、耳ざわりのいい声は耳に残らない声でもある。ただすごいと言われるよりは親切な気もするが、職業を告げるのはやはり嬉しいことではなかった。
「で、落研だったんでしょ。しゃべるの好きなんだね」
不意打ちされて、夏目の横顔を俺は見つめた。
「……いや、苦手」
「えーそんな。苦手なこと仕事にしちゃったの?」
「かも」
しゃべるのなんて夏目の方がよほど得意だと思う。ふわりスルリと誰の横にでもすべりこむ夏目。
俺はそれができない。口にする言葉に自信がない。だから他人が書いてくれたセリフがほしい。だって書かれた言葉なら俺には責任がないから。そうやって他人の言葉で俺を上塗りして俺は嘘をつき続けている。
「――帰るよ。ありがとな」
ボソリと言った。夏目は何も言わない。軽く手を洗ってカバンを持つと、ふと透き通るような笑顔を向けられた。
「いつでもおいで」
俺は視線だけで礼をして逃げ出した。
ガララと扉を閉めて出た表通りはいつもの商店街だった。スピーカーから小さく流れるチャカチャカと明るい音楽に苛立った。
アトリエは小さな異世界で、別の時間が流れていた。そこは職人芸の領域。芸術のあわい。ただ一つの道を正しくなぞりたどる極限の場所に〈それっぽい〉俺なんかがいていいものなのかわからない。
何かを突き詰めることのできる者たちはどうしてあんなに飄々として鋭いんだろうか。
「さの助さんの高座、聴きに行かなきゃな」
ずるずる帰り着いてドアを閉め、独り言を言った。自分への確認だった。念押しするということはつまり行きたくないのだ。打ちのめされるのが予想できるから。
ああわかってるよ、橘さん。あんたはすごい。フラフラとその場かぎりのセリフをこねくり回す俺が太刀打ちできない噺で俺を殺してくれ。さっき夏目の手の中でギチギチいっていた粘土のように。
茫然としていたらすぐ夕方になり廊下でリリンと大きな鈴の音がした。隣のドアがガチャリといい、開き、閉まる。夏目の鍵か。
土をなぞる夏目の繊細な指先が脳裏をよぎった。あいつの居る場所に俺はまったく届かないのだ。
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