第36話 一生

 朱那は、すぐには答えない。

 朱那は花染の背後に行き、その絵をじっくりと見つめた。

 ……ただそれだけのことに、俺は酷く動揺した。息が、詰まる。


 花染が優れたアーティストであることはわかっていた。この勝負も、甲乙つけがたい結果になると思っていた。朱那が贔屓目に俺を評価しない限り、花染の方がむしろ良い絵を描くだろうとも思っていた。

 だけど……絵の優劣じゃない。朱那が、花染に深い関心を寄せたことに、俺は……嫉妬している。

 朱那は、なんだかんだ俺のことしか見ていないのだと、心のどこかで高をくくっていた。だからこそ、朱那にあえて好かれようという気持ちにもなっていなかった。

 あるがまま、俺は俺であればいいと思っていた。


「……やだな」


 誰にも聞こえないくらいの小さな声で、唇だけを動かすように、ぼそりと呟いた。

 口にすると、余計に気づく。

 俺は、朱那が他の誰かに強い関心を持つことに嫉妬してしまうし、悔しいと思ってしまうのだ。

 朱那と関わりあって、まだほんの十日程度。それでも、朱那は、俺にとって非常に大きな存在になっていたらしい。

 まぁ、そんなこと。本当はわかりきっていたことなのだけれど。

 俺が密かに拳を握っていると、朱那が口を開く。

 

「……この勝敗、正直、すごく迷います。わたしの好みで言えば、圧倒的に悠飛の絵が好きです。わたしはやっぱり悠飛に描かれたいって思います。勝者を選ぶなら、悠飛です。

 でも……花染さんの絵も、わたしには必要な気がしました。


 この絵は、悠飛には描けません。悠飛はわたしを……いえ、女性を愛していて、人を愛していて、こんな暗い絵は描けません。たとえわたしが闇落ちしていたとしても、その中に光を見いだして、温かな絵を描くでしょう。


 花染さんは、悠飛に描けない、わたしの別の一面を描いてくれるように思います。


 まだ何者でもなくて、一つの形に囚われたくないわたしには、二人の力が必要だと感じました」

「なるほど。となると、勝負は色葉君の勝利だけど、美砂のモデルも引き受ける、という結果かな?」


 朱那は、水澄先生の問いに答える前に、俺の方を向いた。

 どうしよう? 朱那の目が問いかけてくる。

 やめろよ、花染なんかに描かせるなよ。

 そう答えたい気持ちで一杯だった。

 だけど……それじゃダメだと、俺は心のどこかでわかっている。ここでまた朱那の好意に甘えてしまったら、俺はきっと、成長をとめてしまう。

 花染の存在が、せっかく俺の後押しをしてくれているのに、このチャンスを失うわけにはいかない。


「……俺、こんなときでも朱那が何も迷うことがないくらい、すごい絵を描きたい。俺がいればもう大丈夫だって、思わせたい」


 俺の言葉に、朱那はきょとんとする。

 そのすぐ近くで、水澄先生は、妙に愉快そうな微笑みを作っている。


「ようやく目覚めたか、少年」

「え……? 何が、ですか?」

「好きなものを、好きなように描いていれば満足……。それもまた、絵描きとしての一つの形。


 しかし、だ。色葉君のように優しい人はね……大切な人を喜ばせたいと願うときにこそ、最大の力を発揮すると思うのだよ。


 君は、自分のためには限界を越えられない。君は、大切な人のためにこそ、限界を超えようと思う。


 華月さんが現れたことで、君はようやく本気になれる環境を手に入れたわけだ。


 そして、華月さんを奪われるかもしれないという危機感が、君の奥底にある闘争心も目覚めさせた……。私は、そう見るね。あくまで、私見ではあるけれど」


 自分の心のありようを言い当てられた気がした。

 なるほど、と納得して。

 ほんの少しだけ、億劫になる。

 その心を自覚してしまったら……俺はもう、好きなものを好きなように描いているだけでは、満足できなくなるのだろう。

 のんびりしては、いられない、かな。


「ま、要するに、色葉君はオナニーよりもセックスに向いているってことさ」

「……その一言で、何か全てが台無しになった気分です」

「そうかい? わかりやすいと思うけれど」

 

 体から変に力が抜けて、俯きながら溜息を吐いてしまう。俺みたいな未経験男子の前で、あまり性的なワードを口にしないでほしい。


「悠飛!」

「ん?」


 朱那に名前を呼ばれ、顔を上げた瞬間。

 キスを、された。

 え? 何? どうしてこうなった?

 混乱しているうちに、朱那がすぐに唇を離す。


「……どうした?」

「なんか、ムカついた」

「何が……?」

「水澄先生が、悠飛のこと、なんでもわかってるみたいな雰囲気だったこと! 悠飛の一番の理解者は、わたしでありたいの!」

「ああ……うん。ただ、水澄先生とは一年以上の交流が……」

「そんなの関係ない。たとえどれだけ短期間の付き合いだったとしても、わたしは悠飛の一番でありたい」


 まっすぐな瞳。星空を押し込めたみたいに、キラキラと輝いている。


「わたし、花染のモデルも引き受けようと思う」

「……うん」

「だけど、わたしが一番にわたしを描いてほしいのは悠飛。悠飛の絵が、この世界で一番好き。悠飛の絵を進化させるために、わたしは、他の人にも描かれることにする。

 そして、わたしも、もっと自分を磨こうと思う。ただ見た目可愛いだけの女の子じゃなくて、より奥深く、色んな魅力を持ってみせる。

 二人で、もっと成長しよう。わたしは世界一のヌードモデルで、悠飛は、世界一のヌード画家になる」

「……難しいことを強いるなぁ。そして、有名な、が抜けた?」

「有名なだけじゃつまらないじゃん? 漠然としてるけど、このヌードモデルは世界一だ、って思わせたい」

「なるほど……。了解」


 アバウトすぎて、目標なのかなんなのかもよくわからない。

 でも、いいさ。朱那は、そんな漠然とした目標さえも、叶えてしまいそうだ。

 大きく息を吐く。

 そして、息を吸って。


「朱那。俺、朱那を離したくない。一生」


 俺の言葉に、朱那はさっと頬を染めて、とびきりの笑顔を見せてくれた。

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