⑲青嵐



「ほら、エヴァン。口開けてくれ」

 祖国ではめずらかな青々とした晴天だというのに、わたしは宿内で四肢を椅子に括りつけられ、アカシアから重湯を餌付けされていた。窓の外から見える雲一つない空が、恋しくて仕方がない。


 イングランドのウマとスコットランドの人を優秀にした大麦をたっぷりの水でコトコトと煮込み、鳥皮とハーブ、塩で味付けたのであろう粥はネコのようにとろりと喉を落ちていく。


「おいしい?」

「悪くない」

「食べれそうなら、よかった」

 いささか屈辱的状況でアカシアはシベリアのひまわりのように、嬉々とした表情で粥を運んでくる。


「お前がレイフにご飯あたえる時ってこんな感じなんだな。ちょっとくすぐってぇや」

 痛みはするが動かせる腕を使わせてくれないもどかしさに歯軋りする。放したらまた無理をするからと言って、アカシアはその手を頑として譲ってはくれない。挙げ句幾度も石のナイフで自死をちらつかせては、鼻の頭などを舐めたり甘噛してきた。


「おれ、レイフの言葉わかんねぇからエヴァンがどんな気持ちか知らずにいたんだ」

 甘える犬のように目を細め、アカシアはもう一口運んでくる。わたしは彼の言葉と粥をもくもくと咀砕し、ここまでの情報を整理する。


 ホルスロンドはともかくダヌヴェを救う義理はない。しかし不安の種は焼くに限り、従って先生から多くを質す必要がある。


「愛しいって、子供を持つってこーゆーことなんだな。なんかあったかくて、不思議な気分で、手放したくない」

 アカシアが最後の一口を差し入れてくる。

 炭鉱で両親を亡くしたとき、彼はまだ六、七才の少年であった。彼らにはよく愛されていたと聞くが、やはり十分な愛を得るには早い別れであったのだろう。


「なあ、エヴァンの母ちゃんはおじさんと一緒にエヴァンを捨てたんだよな」

 アカシアが不意に尋ねたのは、既に遠き我が母のこと。正直、好ましくない話題である。


「家族とて愛は絶対ではない。人の心があれば、嫌になることもある」

 ゆえにわたしはできるだけ想起せず、淡々と答えた。

 母は父を愛し、憎み、やがて彼とわたしを置いて消息を絶った。ちょうど、アカシアと会う一年前のことであった。


 当時のわたしは今よりずっとなまけ者で、あまのじゃくな人間であった。家事もろくにしないから、数えきれないほど叱られていた。


 悪いことに父も放任主義で、思えばすべての負担が母の背に乗っていたのだろう。ある晩父と大喧嘩して、次の日、彼女は家を出て二度と戻らなくなった。嫁入り道具の食器を除いて、今や彼女の痕跡はほとんどない。


「レイフの世話を受け入れたのも、母へのつぐないのためなのか?」

「違うと言えば嘘になる。そうしたところで母は戻っては来ないがな」

 薄情は承知であるが、わたしの胸のうちから母の影がなくなるまでさほど時間は要さなかった。


 わたしには父がいた。彼は母の失踪を淡々と受け入れ、わたしが家事担当になっただけの日々を続けていた。そして今もそれは変わらない。


 ならばこの話はもう終わろうとしたところで、ヘビのナジオンが窓からにゅるりと侵入してきた。あまりの素早さにアカシアも驚き、わたしもムカデを想起して肌を粟立たせた。


 彼は口に咥えた羊皮紙の巻物をアカシアに渡し、彼はそれを広げてわたしにも見せた。

 ルーン文字に似た記号の羅列に一瞬だけ頭が白くなり、浮き上がった心がにわかに痛む。やにわに歪んだであろう我が顔を見てか、アカシアはそっとそれを仕舞った。


「何かあったか、エヴァン?」

「レイフを取り返したせいだろうな。ダヌヴェ人の猛攻が絶えないとなると、またレイフを奪われかねない」

「そうか。でも行くとか言うなよ。気になるならおれがレイフを見に行くから、な? もうエヴァンには傷ついてほしくないんだ」

 餌付けで調子に乗ったのか、アカシアはまるで子ども扱いするように、わしわしとわたしの頭を撫でた。


 やや傷んだ髪が一本落ちる。ナジオンに目配せすると、彼は尻尾をひらめかせて窓の外へ消えていった。


「アカシア、手洗いに行きたいんだが」

「あ、そっか。手洗いかぁ……。縄解くけど、おれもついてくぜ。何があるかわかんねぇし」

 アカシアはやや困ったように応じつつ、固く縛られた麻縄を器用に解く。アカシアにわたしが本命だったことを伝えなかった点は、幸いした。


 そしてわたしの腕を掴んだまま宿を出ようとしたときであった。彼はドアノブを握ったまま立ち止まり、やにわに扉に耳を当てた。


「……なぁ、ちょっと煙のにおいがしねぇか?」

 わたしの鼻は無味の空気しか捉えないが、鋭いアカシアが言うならば事実なのだろう。

 彼の言葉に従い、宿を飛び出す。煙の出処を探ろうと空を仰ぐと、港方面からいくつもの灰色の塔がそびえ立っている。


 間もなく、騎乗したホルスロンド兵が一帯の集落に避難命令を出した。


 常より激しい侵略と叫ぶ兵士ら。最低限の荷物を抱えて逃れる人々。


「あっ! おい、待てよ!! 手洗いはどうしたっ?!」

 わたしはアカシアの腕を振り払い、再出血しないよう身を庇いながら、近くの馬屋へ入り馬具を探す。


 頭絡さえあれば、あとは比較的大人しいウマを選べばいい。危険を察して地団駄するウマたちの中から、あまり慌てている様子がない粕毛ウマを見つけ、毅然とした姿勢を保ったまま頭絡を付ける。


「よし、よし、いい子だ。あとで褒美をたっぷりやりたいな。ほら、行こう」

「何やってんだよぉ……! つーかウマに乗れるのかよっ!」

 追ってきたアカシアは狼狽して言う。


「アカシア。お前は先に避難しろ。住民たちは避難先を知っているようだし、彼らについていけばいい。わたしは先に中央へ向かって、レイフに会う

「は? い、いいかげんにしろよっっ!! 何度おれを心配させたら気が済むんだっ!? なんで、何で自分を大事にしてくれないんだっっ!?」

 それは悲鳴にも似た懇願だった。アカシアは怒鳴りながらわたしの腰に抱きつき引き留めようとする。しかしわたしが腰を落とすと、バランスを崩し腕を離す。そのまま回し蹴りを繰り出せば、細く軽い身体は壁際まで吹っ飛んでいった。


 壁に背を打ち、アカシアは苦痛に悶えた。そんな彼を見下ろし、再び頭から爪先へ視線を移す。手元で、ささやかな銀が光っていた。


 よく見ると右手にはナイフが握られ、アカシアが怒りに震えるたびに、その刃にささやかな陽光が反射していた。


「レイフを無事に帰すまでの話だ。それにだ」

 そんなちっぽけな刃で脅しているつもりかと嗜めるようと、喉を震わせる。


 しかし十分な言の葉が形を得る前に、銀の刃はわたしではなく彼自身の喉元へ向けられた。

 少し刃が食い込んだのか、白い顔に皺が入る。


 刹那、噴き出すような不安が胸の底から湧き上がる。

 しかし炎は水を掛けられたかのようにすぐに静まり、嵐の後のように、いやに落ち着く。一瞬で一日分の大嵐を経験したような、瞬間的な感情の変遷。


 わたしは粕毛ウマに跨り、彼の前へ出た。


「アカシア。一つだけ言っておく。死ぬのはわたしの死体をきちんと確認してからにしろ」

 見開かれたアカシアの目が、馬上のわたしを睨めつける。細い唇が悔しげに震え、ナイフの先端に彼の血が滲む。もう一息踏ん張れば、動脈を切り裂けるだろう。しかし怯えの見える瞳は刃を収め、力無くうなだれた。


「必ずレイフを向こうへ連れ帰る」

 わたしは彼の横を過ぎ、小さくなる背中に向かって呟く。


 まもなく空は、彼の心を映したように小雨を降らす。故郷でも見える空の色。


 あの陽に嫌われた雪ん子に何度でも見せてやりたいという願いを胸に、わたしはもう一度、馬の腹を蹴って走った。

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