路地裏
仕方がない。
空中からの逃亡を断念して、俺は地上に降りることにした。
上空からは小さく見えた王都も、高度を下げるにつれ本来の大きさを取り戻していった。俺はなるべく入り組んだ路地を探した。その方が身を隠しやすい。
慎重に、慎重に。
俺は誰にも見られないように注意しながら、ゆっくりと降下した。
「うっ、臭い」
着地してからまず最初に感じたのは、腐った生ゴミのような臭いだった。
チチチ……。足もとを、太ったネズミが走っていく。
そこは、想像していたようなような場所ではなかった。
画像で見たヨーロッパの街並みとは全く違う。
道路は舗装されておらず、あちこちに汚い水たまりがあった。その両側にある建物は廃材を組み合わせたような薄汚い木造で、どれも四階くらいまである。
「ミリア、ここはどんな場所なんだ」
「ハイ、王都でも特に貧しい人が住むスラム街です。治安が悪いので、中産階級以上の市民はほとんど近づきません」
「なるべく早く退散した方が良さそうだな……」
路地から出ようと歩き始めた時、悲鳴が聞こえた。
子どもの、それも女の子の声だ。
俺は反射的に声のした方向に駆け出した。まだ逃亡している最中だったが、目に前にある危機を放ってはおけない。
突き当たりを右に。それから真っ直ぐ。
目標はすぐに見つかった。ガラの悪そうな男が三人。そのうち一人は、七、八才くらいの女の子を抱えている。その女の子は口を塞がれ、足をバタつかせていた。
この野郎……。
数メートルの距離を残して足を止めた時、俺のまわりで風が舞った。
「な、なんだ。キサマは? どこから現れた」
男たちはキョロキョロと目玉を動かした。
王宮から逃げ出した時と同じだ。
予想よりも速く動くと、人間の頭は認識できない。こいつらからすれば、いきなり出現したように見えたのだろう。
「どこでもいいだろう。それより、その子を放せ」
「ふん……」
背の高い男が、俺を値踏みするように見た。
「珍しいデザインだが、仕立ての良さそうな服だ。どこか、いいところの家の坊ちゃんってとこか。……威勢はいいが、丸腰じゃないか。剣は家に忘れてきたのか」
「おまえらなんか素手で十分だ」
本気で言ったつもりだったが、もちろん相手には伝わらなかった。
「ふ、ふふ。ふわっはっは……ニイちゃん、面白いことを言うな。笑わせてくれた礼に教えてやる。これはビジネスなんだ。別に悪いことをしているワケじゃない。
このガキの親が借金をして死んだ。だからこいつを奴隷に売ることにした。ただ、それだけのことだ。わかったら早く消えろ。今ならまだ、見逃してやる。正義感は立派だが、それだけじゃ長生きはできないぜ」
この男だけでなく、残りの連中も大笑いした。
親の借金で奴隷に売られるとか、俺の知っている常識ならありえない。でも、ここは異世界だ。少なくとも、こいつらは自信満々に言っている。
「借金は、いくらだったんだ」
俺は怒りをおさえて聞いた。
今は逃亡中だ。殴り倒すのは簡単だが、できれば穏便に済ませたい。
懐には、さっき王宮でもらった金袋がある。確か金貨が20枚入っているはずだ。
「なんだ、このガキを買おうって言うのか? へっ、物好きな奴だ。そういう趣味があるなら早く言いな。いいぜ、金さえ払えば売ってやる。百ディランだ」
「ミリア。百ディランって、金貨だと何枚だ?」
コソっと聞くと、スマホにいる精霊も小さい声で答えた。
「金貨半分です」
「よし、金貨で払う。釣りはいらない。それでいいな」
「ああ、いいぜ。金さえあるんならな。さあ、まずは金だ。金をよこせ」
俺は、ジャケットの内ポケットから例の袋を出した。
ピカピカと輝く金貨を取り出すと、それを男に向かって放り投げる。
男は空中で金貨を受け取ると、しばらく眺めてからニヤリと笑った。
「よし、本物のようだな。ガキを放してやれ」
解放された女の子が、俺の方に向けて勢いよく走り出した。
「大丈夫か……」
俺は腰を落として、腕を広げた。
だが、彼女からの返事はなかった。そのままの勢いで俺の脇をすり抜けて、どこかへ行ってしまう。ためらうどころか、俺の顔を見ることさえもしない。
まあ、そんなものか。
俺はちょっと失望した。
べつに見返りがほしかったワケじゃない。でも、『ありがとう』とか。そんな言葉をちょっぴりは期待していた。
「どうやら逃げられちまったようだな。これに懲りて、これから奴隷を買うときは、先に首輪を用意しておくことだ。
さて、対等なビジネスの話はこれで終わりだ。これからオレは、大金を持って貧民街をうろつくバカに、世間ってものを教えてやらなくちゃならない。
さあ、金貨の入った袋をオレに渡せ。ついでに、その服も脱いでもらう。なあに、古着を買う金くらいは残してやるから安心しろ。これでもオレは親切なんだ」
俺は自分のこぶしを眺めた。
怒りがこみあがってくる。どいつもこいつも……異世界ってのは、どうしてこんなクソ野郎しかいないんだろう。
「ふざけやがって……」
「言葉が理解できない相手には、殴って教える。それがここの流儀だ。おい、おまえら。このお坊ちゃんに、ていねいに教えてさしあげろ」
「うるさいっ!」
殴りかかってかかってくる二人の男が、俺には不格好なダンスを踊っているように見えた。俺の方が圧倒的に速いから、よけるのは苦にもならない。
思い切りぶん殴ってやろうと思ったが、直前で思い直した。
あの兵士のことを思い出せ。鎧を着ていたのに一発で倒れた。生身の相手にやったら間違いなく内臓破裂だ。
軽く手で押しただけで、二人は後方に吹っ飛んだ。
「な、なんだ。何の魔法を使った?」
リーダー格の男が剣を抜いた。だが、恐怖で剣先が揺れている。
何が起こったのか。こいつはまだ理解していない。
「俺の攻撃力は1500もあるらしいぜ。それがどれだけ強いのかは知らないが、おまえを倒すのには十分だ」
「1500? 魔王じゃあるまいし、そんなバカな数字があるか……」
「じゃあ、試してみろよ」
ゴクリ。ツバを呑みこむ音が俺にまで聞こえる。
男が振り下ろした剣を、俺はワザと避けなかった。代わりに左手で、抜き身の剣をそのままつかむ。
普通なら指が落ちるところだ。
だが、オーラに包まれた俺の体には傷ひとつつけられなかった。剣先はピタリと止まり、どんなに力を入れても微動だにしない。
「くっ、くそ。化け物め」
また、化け物かよ。
毎回言われると、いい加減うんざりする。
「あの子には、今後いっさい手を出すな。いいな。絶対だぞ」
「……ぬ、抜けない。おいっ、どうにかしてくれ」
「人の話を聞け。このまま剣をへし折るぞ!」
「わかった、わかったから剣を放してくれ。さっきの金も返す。い、いや、有金も残らず置いていく。だから殺さないでくれ」
「勝手にしろ」
剣を放すと、男は勝手に尻もちをついた。
ブザマなものだ。こうなってしまうと、プライドもなにもない。
有り金を道にバラ撒いて男たちが逃げていくと、俺はまた、ひとりになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます