第19話 境界

 泣き疲れたのか緊張の糸が切れたのか、やがて自分にもたれかかるようにしたまま眠ってしまったソルヤを、キザキは自分は怪我をしていると言うのに、起こさないようにそっとベッドへと運んだ。


「おや、怪我人がベッドを譲るんですか?」


「窓が割れたこの部屋で一晩は寝かせられんだろう」


 割れた窓から外気が吹き込み、部屋の温度は確かに急速に下がっている。

 この男は自分を全く優しくない粗野な人間だと思い込んでいるようだが、少なくとも私やソルヤに対しては、とても優しく、紳士的だ。


「医者に行かなくても、大丈夫そうですか?」


「多分な。血さえ止まれば、問題ない」


「お前がここまで血を流したのは、いつ以来でしょうね」


「さあ、憶えていないな」


 問われたキザキは興味が無さそうに首を横に振ったが、尋ねた私の方ははっきり憶えていた。


 四年前、メキシコで私の依頼を受けて、私の父親を殺した仇を二人で殺そうとしていた時だった。


 追い詰めた標的の男が逃げようとしているのを見て、私はそれを迷わず追った。まだ銃を持った護衛が残っているのは分かっていたが、それでもあの男を殺せさえすればここで死んでも構わない、と言うつもりであの時の私はいた。


 結果として、私は標的の男を撃ち殺し、それと引き換えに私を貫くはずだった銃弾を、キザキが受ける事になった。


 私の依頼はあくまで共に戦って標的を殺す事で、私の護衛では無かった。それでもキザキは、私を守り、重傷を負ったのだ。


 それ以降、私はずっとこの男に恋焦がれている。


 何故私を守ったのか、聞きはしなかった。正義感でも無ければキザキの方が私に惚れた訳でも無いのだろう、と言うのはその時から何となく分かっていた。


 あの時の私の何かが、キザキの過去の何かを気紛れに思い起こさせたのだ、と言う事が分かって来たのは、随分経ってからだ。


「今日も殺しませんでしたね、キザキ」


「お前もだろう、イーリス」


「私は殺す余裕が無かっただけですわ」


 本当は殺そうと思えば、少なくとも一人はほとんど確実に殺せた。二人とも胴撃ちで済ませたのは、キザキが相手を殺さないように戦っているのが分かったからだ。


 そこで自分だけが躊躇なく相手を殺せば、キザキやソルヤがどう思うか。咄嗟にそんな事が頭をよぎった。


 プレート入りの防弾ベスト越しであっても.50AE弾が直撃すれば、死ぬ時は死ぬ。だから相手の命など、私は本当にどうでも良かった。

 ただ、相手に生き残る可能性を残してやった、と言うポーズを二人の前で取りたかっただけだ。


「ソルヤのためですか?殺さないのは」


 すぐには答えず、キザキは億劫そうに傷だらけの体でジン・トニックを作り始めた。ジンと炭酸水、トニック・ウォーターをほとんど注ぐだけで上手く混ぜる。


「怪我している時にあまり飲むと傷が開きますわよ」


「多少はアルコールを入れないと眠れそうもなくてな、今日も」


「じゃあワタクシにも何か淹れて下さい」


 キザキは文句も言わず、そのまま私の分のミルクティーも用意してくれた。


 怪我をしていようと何だろうと、この男は一緒にいる時はいつもそれが当然であるかのように私の飲み物を用意してくれる。そして、私が自分で飲み物を用意する事が出来ない理由を、尋ねようともしない。


「イーリス、お前は人を殺す事、人が死ぬ事を何か大層な事だと考えた事はあったか?」


「いえ、全く。死ぬ時は死ぬ。そんな物だと思っていましたわ。少なくとも父親が殺された辺りからはずっと」


「だろうな。俺もそうだ。殺そうとしたって生き残る奴は生き残るし、逆にどれだけ助けようとしても死ぬ奴は死ぬ。人間の命ってのは、そんなもんだろうと、ずっと思ってた」


「お前が殺した人間が死んだのは、お前のせいではなく、ただそう言う運命だったから、ですか。いかにも人殺しにとっては都合のいい無責任な理屈ですね」


「最初からそう考えてた訳じゃない。何人も殺して行く内に、そう思うようになった」


「でしょうね」


「ソルヤの奴は、違う。あいつはこの件に関わる人間の死、全てを最初から背負うつもりで俺に向かい合って来た。何が起こっても俺のせい、と言う事で片付ければ、ずっと楽だったろうにな。何なんだろうな、あいつは。目の前で人が死ぬか生きるか、それを自分で変えられると思ってるのか」


「ワタクシ達とは生きて来た世界が違う人間。それでは済まない事なのでしょうね、お前にとっては」


「ああ」


「ソルヤの事が気に掛かるなら私なんかにこぼすよりも彼女本人に言った方がいい気がしますけどね。でも一つだけ私にも分かった事がありましてよ」


「何だ?」


「お前は本当は、人が何故死ぬのか、何故生きるのか、運命だなんて言葉で片付ける事に納得していないんですよ、キザキ。お前が狂ったように人を殺し続けたのは、本当は、何が人の生死を分けるのか、それを見極めたかったからじゃありませんか?」


 私の言葉に、キザキが黙り込んだ。


「どうして見極めたかったのか、何て事まではワタクシの口から言う気はありませんけどね」


 キザキは、村上優子の死に、納得出来ていない。


 言葉にしてしまえば恐らくただそれだけの事だったが、それをはっきり口にする勇気は私には無かった。


 自分にとって最も大切な人間が、自分の手も目も届かぬ所で、唐突に、理不尽に死んだ。

 それが何故だったのか、キザキは理屈では無い所で知りたがっている。


 人を殺すのも、時に自分の命を投げ出すような事をするのも、全て人の生死の境界を知りたいから、なのだろう。


 それが分かれば、村上優子の死を受け入れられるようになると、信じている。


「俺は」


「よしなさい、キザキ。ワタクシはお前の事を恐らくこの世で今最も良く分かっている人間でしょうけどね。それでもこの事に関してワタクシと話しても、多分お前が傷付くだけですわよ」


 人間の死生観などと言う物に、はっきりとした答えがあるとは私には思えなかった。

 結局は、キザキが村上優子の事を過去の事として忘れられるかどうかだろう。


 そして彼女の事を忘れさせてやる事は、私には出来ない。


「そうだな。お前に話すような事じゃなかった」


 私の突き放すような言葉をどう受け取ったのか、キザキは納得したように頷き、後は何も言わずジン・トニックの入ったグラスを傾けた。


 死んだ女の事など忘れさせて上げる。そうキザキに耳元で囁けるほどの勇気と自信と傲慢さが私にあれば、どれほど良かっただろうか。


 私は本気で人を愛し、愛されるには、キザキと会う前に穢され過ぎていたし、壊され過ぎていた。私から見ればキザキがかつてこの国にいた頃に送っていたであろう平凡な青春すら、眩し過ぎる別世界の物だ。


 今のような生き方を続けていれば、いずれキザキは死ぬ。自分から死に向かって挑んで行っている、としか思えないような生き方だからだ。


 そう思いながらも、私にはずっとキザキの生き方を変える事は出来なかった。今までキザキが生き延びて来たのは、恐らく単にキザキが強かった事とそれこそ運に恵まれていたからに過ぎない。


 ソルヤの何がキザキの心に触れているのかまで私には分からないが、私に出来ない事を彼女がやってくれるのかも知れないなら、それでいい、と思う。


 そう思おうとした。


「今晩お前にはワタクシのマットを譲って差し上げましょう」


「お前は?」


「流石にもう今日はこれ以上の襲撃は無いでしょうし、今晩は自分のマンションに戻りますわ。後はソルヤとごゆっくり。ワタクシがいては邪魔になる話もあるでしょう」


 取り繕った笑顔で私はそう言った。


 何か気に掛かったような顔で私を呼び止めようとしたキザキに背を向け、私はキザキの事務所を出た。


 外は相当に冷える。私はコートを羽織り直した。

 周囲の気配を探る。誰かが見張っているような気配はない。エルヴァリの諜報局は一旦、手を引く事にしたのか。


 事務所にもう一度目をやり、また思考をキザキの事に向けた。


 私にとってキザキは、どこまでも憧れの対象でしかない。


 自分が本気で愛を求めればそれに答えてくれる相手。自分が本気で救いを求めればそれに答えてくれる相手。自分の中で勝手にキザキをそんな人間にして、私はそれで満足している。


絵本に出て来る王子様に憧れているような物だ。言葉を選ばずに言えば、ただの都合のいい妄想の対象である。


 そんな風に夢を見られていれば、私はそれでいい。


 本気で自分がキザキに愛してもらえるとか、本気で自分がキザキにとって気紛れ以上の理由で救うべき人間であるとか信じるには、私にとって私の価値は低過ぎた。


 もし実際に私の想いを伝えてそして拒否されれば、私の心が折れてしまうのは、自分で分かっている。


「人が何故生きるのか、何故死ぬのか。少なくともワタクシに限っては簡単な事ですよ、キザキ」


 誰も聞く者のいない言葉を私は一人呟いた。


 私は五年前キザキに会えたから生き延びれたし、今生き続けているのも、キザキの側にいる事が出来ているからだ。


 埒も無い。その程度の事を素直に伝える勇気すら、私には無い。


「本当に歪んでいますわね」


 もう一度、一人で声に出して今度は自嘲気味にそう呟くと、私はキザキの事務所に背を向けて歩き出した。

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王女殿下のヒットマン マット岸田 @mat-kishida

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