第34話
あの『第一回 スキャンティー紙飛行機大会』が終わって、最初の日曜日が来た。オレと夏美は毎週日曜日に、山西に命じられた日本舞踊を習いに行くことになっていた。例の『おしとやか』になる訓練だ。
安賀多高校のダンス部はダンスの大会などに備え、祝休日でも必要に応じて練習を行っている。祝休日の練習の有無や練習時間は時期によって変わるのだ。初夏のいまの時期は、日曜日のダンス部の練習は午前中だった。それでオレたちは日曜日の午後から日本舞踊を習うことになったのだ。
オレと夏美はダンス部の練習の後、学校の近くの食堂で軽く昼食を済ますと、日本舞踊の師匠の
オレと夏美はなぜかダンス部で使うレオタードを持っていくように山西から言われていた。あのいつもの真っ赤で胸に『AGADAN』の白文字が入ったレオタードだ。日本舞踊にレオタード? オレは首をひねったが、考えても仕方がない。山西に言われた通り、オレたちはレオタードをカバンに突っ込んで道明寺の家に向かって歩いた。
道明寺の家は山西から地図をもらっていたのですぐに分かった。学校から歩いて30分ぐらいのところにある、古い立派な日本家屋だ。周りを江戸時代の風情が残るしっとりとした民家が取り囲んでいる。すぐ近くには戦国時代の城跡が整備された城跡公園があって、市民の憩いの場になっていた。江戸の風情が残る民家群も城跡公園も、いずれも市の歴史的風致地区に指定されている。
道明寺の日本家屋の玄関には『古典日本舞踊 名取 道明寺友梨佳』という大きな木の看板が掛かっていた。オレは首をひねった。『古典日本舞踊』って何だ?
玄関のインターホンで来意を告げると、家の奥から和服を粋に着こなした日本美人が出てきた。この女性が名取の道明寺友梨佳だった。
道明寺の家は大きかった。オレたちは道明寺に連れられて、何度も廊下をまわって『稽古場』と呼ばれる離れに連れていかれた。大きな板張りの離れだ。100畳以上はあるだろう。正面の奥に座布団が3枚用意してあった。道明寺はオレたちを案内すると、座布団に座って待つようにと言って、稽古場を出て行った。オレたちはレオタードに着替えると、座布団に正座して道明寺を待った。
10分ほどして、道明寺が再び稽古場にやってきた。オレは入ってきた道明寺を見て飛び上がってしまった。なんと・・・驚いたことに・・・道明寺は素っ裸だったのだ。素っ裸に・・・おまけに背中には『桜吹雪』の
『桜吹雪』の刺青だって・・・まるでテレビの時代劇に出てくる、江戸町奉行の遠山の金さんだ。
オレはよっぽど驚いて、道明寺を見つめていたのだろう。オレの横に座っている夏美がひじでオレの脇腹を突っついて、あきれた声を出した。
「小紫君、よだれが出てるわよ。あなた、バカねえ、あれは、肌色のレオタードじゃないの」
肌色のレオタードだって? よく見ると、夏美の言うとおりだ。道明寺の着ているのは、半袖の肌色のレオタードだった。そのレオタードの背中に『桜吹雪』がプリントしてあるのだ。
こんな肌色のレオタードが売られているのか? 先日、牧田が出した『ドジョウ柄のスキャンティー』といい、この肌色レオタードといい、最近はオレの想像をはるかに超えた突拍子もない品物が市販されているようだ・・・
道明寺は肌色のレオタードを着たまま、オレたちの前の座布団に正座して丁寧にお辞儀をした。オレたちもあわてて頭を下げる。お辞儀が済むと、道明寺がオレと夏美を交互にながめながら口を開いた。透き通るようなきれいな声だ。
「あなたが倉持夏美さんね。そして、こちらが小紫良一郎君ね。私が道明寺友梨佳です。よろしくね」
道明寺はそう言うと、夏美を見つめた。
「まあ、夏美ちゃんは、ずいぶんと『おしとやか』なお嬢さんじゃないの。山西先生からいろいろお話を聞いて、もっとお転婆な
夏美が如才なく道明寺に応える。
「いえ、まだまだお転婆娘ですので、よろしくお願いいたします。ところで、私たちは道明寺さんのことを何とお呼びすればいいでしょうか? お師匠さん?」
「お師匠さんは照れ臭いからやめてね。みなさん、私のことは友梨佳先生と呼んでいらっしゃるわ。だから、友梨佳先生でお願いね」
「では、友梨佳先生。よろしくお願いいたします」
夏美が道明寺に頭を下げる。オレもあわてて頭を下げた。
道明寺は軽く笑った。
「それでは、さっそくお稽古を始めましょう」
オレは急いで道明寺に聞いた。どうしてもレオタードのことを聞いておきたかったのだ。
「友梨佳先生。日本舞踊なのに何でレオタードなんですか?」
道明寺はうんうんと大きくうなずいた。
「レオタード姿の方が身体の線がよく見ることができるからなの。日本舞踊の着物だと身体の線が見えないでしょ。だから、踊りの欠点が分かりにくいのよ。それで、私は初心者の方には必ずレオタードを着ていただいているのよ」
道明寺はそう言うと、稽古場の隅に置いてあった道具箱を開けて扇子を二つ取り出した。それをオレと夏美に渡す。
「まずはあなたたちの歩き方を見てみましょう。この扇子を持って、このお部屋の端から端まで歩いてみてくれる?」
オレたちは道明寺に言われて、稽古場の中を何度も歩かされた。オレは扇子をどう持っていいのか分からないので、右手で握ったままだ。
「いいわよ、夏美ちゃん。あなたはそのままでいいわよ。・・・・・問題なのは小紫君ね。小紫君は歩くときにガニ股になっているわよ」
「えっ、ガニ股ですか?」
「そう。ガニ股というのは、いわゆるO脚のことね。『おしとやか』になるには内股が大切なのよ。それには、まずガニ股を直さないといけないわね」
オレは感心した。そうか。確かにさっき道明寺の言った通りだ。着物を着て歩いたのでは、ガニ股かどうかは分からないわけだ。レオタードだから分かるのだ。それで、レオタードか・・・しかし、内股になれと言われてもなあ・・・内股なんて恥ずかしい!
オレの口から情けない声が出た。
「友梨佳先生。内股ですか・・・」
「そう、内股は『おしとやか』になるには必須よ。ガニ股の『おしとやか』な女性なんていないでしょ。そんなガニ股女性なんて魅力ないじゃない。女性でガニ股で歩いてもいいのは演歌歌手だけよ。では、さっそく、内股の訓練をしましょう」
道明寺は女性演歌歌手が聞いたら怒りそうなことを言うと、扇子を出した道具箱から、今度は一枚の白い厚紙を取り出してきた。
そして、稽古場の中央に立ち止まり、背筋をピンと伸ばすと、高らかに声を張り上げたのだ。
「古典日本舞踊 扇子の基本動作 その1 『ちん、とん、しゃん』」
オレと夏美は驚いて道明寺の顔を見た。いったい、何が始まったのだ!
道明寺はそんなオレたちの顔を見て、クスリと笑った。
「小紫君。この厚紙を太ももにはさんで、落とさないように扇子でバランスを取りながら歩いてごらんなさい」
オレは言われた通り、その厚紙を太ももにはさんだ。落ちないように、太ももで厚紙を思い切り締め付ける。オレの足が内股になっているのが分かった。そうして、そのまま歩いた。扇子でバランスをとろうとしたが・・・うまくいかなかった。なんだか、クニャリクニャリした歩き方になってしまう。どうしても、一足ごとに尻を左右に大きく振るような歩き方になるのだ。どうにも歩きにくい。オレは足の力を少し緩めた。すると、すぐに厚紙が板張りの床にポトリと落下してしまった。何とも難しい・・・
それを見て、道明寺がオレに声を掛けた。
「小紫君、扇子を広げて、扇子でリズムを取るのよ。そして、『ちん、とん、しゃん』と私が声を出すから、それに合わせて歩いてごらんなさい。『ちん、とん、しゃん』の順番で、扇子を頭と胸と腰に当てるように動かすと、内股になって歩きやすいわよ」
オレは扇子を広げて右手に持った。もちろん、厚紙は太ももにはさんだままだ。道明寺が『ちん』と声を出す。
オレは道明寺に言われた通り、扇子を頭の上に持っていく。なんだか、女性が温泉でタオルを頭に載せているような仕草だ。つまり、胸と股間ががら空きというスタイルだ。そう思うと、オレの足が自然に内にキュッと締まる。
次に道明寺が『とん』と声を出した。オレは今度は扇子を胸の前に持っていく。なんだか、女性が温泉に行ってタオルで胸を隠しているような仕草だ。胸だけを隠して、股間はあけっぱなしというスタイルだ。再びオレの足が自然に内股になる。
道明寺の『しゃん』という声がひびく。オレは扇子を腰に、つまり股間に持っていった。なんだか、女性が温泉で男性にうっかり股間を見られてしまったので、あわててタオルで隠すような格好だ。温泉で異性に股間を見られた・・・そう思うと、オレの顔が恥ずかしくて真っ赤になった。オレの内股になった足がさらにキュッと引き締まった。
夏美が茫然として、オレを見つめている。オレの珍妙な動作にあきれている様子だ。しかし、オレは・・・もちろん好きでやっているんじゃないのだ。扇子でそのようにバランスを取らなかったら、内股にならないのだ。逆に言うと、扇子を道明寺の声に合わせて動かすと・・・道明寺が言ったように自然に内股になるのだ!
オレは繰り返しの『ちん』で再び扇子を頭に持っていく・・・
稽古場の中に道明寺の『ちん、とん、しゃん』という声が何度も何度も響き渡った・・・
こうしてオレは、扇子と厚紙を使って道明寺に何度も内股歩きを練習させられた。さすがに、夏美はオレの珍妙な動作にも慣れてきたようだ。途中からは神妙な顔でオレの内股の練習を見ている。そして、一時間もすると、オレは太ももにはさんだ厚紙を落とすことなく、扇子でバランスを取りながら、『ちん、とん、しゃん』に合わせて、何とか内股で歩けるようになった・・・
すると、それを見た道明寺がオレと夏美におもむろに言った。
「それでは歌に振りを合わせてみましょう。うちはね、『古典日本舞踊』という流派なのよ」
オレは玄関に『古典日本舞踊 名取 道明寺友梨佳』という大きな木の看板が掛かっていたのを思い出した。オレはさっそく道明寺に聞いた。
「友梨佳先生。『古典日本舞踊』って初めて聞きましたが・・・『古典日本舞踊』っていうのは一体何なんですか?」
「日本の古典文学があるでしょう。ほら、『枕草子』とか『源氏物語』とか『土佐日記』といった日本の古い文学のことよ。うちは、ああいった古典文学に書かれている文章を歌にして、それで日本舞踊を踊るのよ」
日本の古い文学だって・・・
実を言うと、オレは『古典日本舞踊』というから、日本舞踊には古典的な踊りと最新の斬新な踊りがあるのかと思っていたのだ。しかし、『古典』というのはなんと『古典文学』のことだったのか!
それにしても、古典文学に書かれている文章を歌にして日本舞踊を踊る・・・そんな日本舞踊なんて、聞いたこともない。それって一体何なんだ?
オレの頭は道明寺が言っていることに、どうにもついて行くことが出来ない・・・夏美も同じ思いのようだ。オレたちは呆然として道明寺を見つめた。二人とも言葉もでない。
「・・・・・」
「では、さっそくやってみましょう。あなたたちは最初だから・・・そうね・・・やっぱり『平家物語』がいいわね」
平家物語・・・? オレの頭に
道明寺はそう言うと稽古場の隅に置いてあった文箱から二枚の紙を取りだして、オレと夏美に一枚ずつ渡した。オレがその紙を見ると・・・こう書かれていた。
『平家物語 冒頭
平家物語 第一巻「祇園精舎」より 』
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