想いの憩う場所

維 黎

Coincidence ~偶然~

 あなたには誰よりも想う人がいらっしゃいますか?


 あなたには誰よりも想ってくれる人がいらっしゃいますか?


 想いが育み 恋となり


 恋が実って 愛となり


 愛が重なり 幸となる


 この世に人は数多あれど 

 想いもまた同じ

 ひとつひとつの想いには 

 それぞれ違った物語

 想いが実るその日まで

 永い永い時間の旅路

 しばしの休息いかがでしょうか?

 香りたつ一杯のコーヒーと共に





 窓に映る自分自身と目が合う。

 ナチュラルブラウンに染めたショートボブ。周りの人からは羨ましいと言われる程には程度の良い小顔。本人としては少し鼻が低いのが悩みではあったが。


「――はぁ」


 ため息一つ。窓に映るもう一人の自分も同じくため息をつく。心なしかその表情は曇りがち。

 大きな窓越しに見える人波は、何かに急き立てられるかのように足早に歩いていく。まるで自分がいる世界とは別の世界の光景のようだ――郁子いくこはふとそう思う。それは今流れているゆったりとした音楽がそう感じさせるのだろうか。

 昼食には少し遅い時刻。いつもより仕事に手間取った為、お昼の休憩がずいぶんとずれ込んでしまった。特に何が食べたいと思う意欲もなく、かといって休憩の間中、職場の椅子に腰掛けているのはなんだか老け込んでしまったように思えて、外をぶらぶらと歩きたまたま見つけた喫茶店で郁子は時間を潰していた。

 同僚や後輩から一緒に食事に行かないかと誘われたが、食欲があまりないからと断った。見るからに元気のない郁子に気を使ってくれていたのだろうが、あまりしつこく誘われることはなかった。だいたいの事情を知っている者もいるだろうし。

 窓の外を眺めていると、仲睦ましく楽しげに腕を組んで歩いて行くカップルが目に入る。知らず知らずの内に目を細めて二人の姿が見えなくなるまで追っていた。

 少し前までは、自分も眺められる立場だったのに。

 ふぅ、と吐息のようなため息のような息を吐くと、一口コーヒーに口をつける。


「――おいしい」


 自分では意識せずに洩れた言葉に驚く。どんよりと曇った天気のように暗く沈んだ胸の内なのに、コーヒーが美味しく感じるなんて――郁子は泣き出したいような笑い出したいような気持ちになる。

 最後に信之のぶゆきの声を聞いたのはいつだっただろう。以前は毎日のようにお互いに連絡を取り合い、週末にはデートを重ねてきた。

 唐突に海が見たいと思い夜中にドライブに出かけたり、買い物をしようと半日街を歩いて結局何も買わなかったり。それでも郁子には充分に楽しかった。特に行きたい所や、何か欲しいと思ったことはない。ただ二人でいることが、信之の側にいることが幸せだった。ずっと続く幸せだと思っていた。でも今は――。



 二人の想いに距離を感じるようになったのは、信之の転勤が決まってしばらく経ってからだ。よくある話なのかもしれない。いわゆる遠距離恋愛だ。

 頻繁に会うことはできなかったが、最初の頃は毎日の連絡は欠かさなかった。お互いLINEで連絡し合い、空いた時間があれば例えそれが僅かな時間であっても言葉を交わした。可能な限りビデオ通話でお互いの顔を見合ってもいた。スマホを忘れたときなどは、会社を遅刻してでも取りに帰ったりもした。

 それでも遠く離れてしまった距離は二人の想いに少しずつズレを生んだ。

 会えない不安、寂しさ。

 そういった感情が大きくなってゆく。以前ならお互いの顔を見るだけですぐに笑顔を取り戻すことができたのに、今ではそれができない。些細なすれ違いが重なり、ちょっとした言葉に負の感情が芽生えてしまう。時には声を荒げて叫んでしまう。

 信之のことを信じてはいる。けれど心のわだかまりを拭うことはできない。

 誰か他の女性を好きになってしまうかもしれない。

 自分から離れていってしまうかもしれない。

 自分もまた、今と変わらず想い続けることができるだろうか。

 無理やり押し込めようとしても、不安は日に日に大きくなっていく。 

 側にいたいのに。側にいて欲しいのに。

 一人ゆっくりと落ち着いてみると素直にそれだけを思う。

 また一口コーヒーを飲む。本当に美味しいコーヒーだった。身体だけでなく心まで優しく暖めてくれる気がする。


 ――パリ―ン!!


 その時、コップの割れるような音がした。

 音のした方を見てみると、小さな男の子がグラスを落としたようだった。側にいた母親らしき女性が「ノブちゃん、おいたしちゃダメでしょ!」と、子供を叱る声が聞こえた。

 郁子は思いがけない偶然に驚きの表情を浮かべる。


 ――ノブちゃん。


 一度、信之の実家に行ったときに信之の母親がそう呼んでいたことを思い出す。

 信之は郁子に『ノブちゃん』と呼ばれていることを知られ、ばつが悪そうに顔を歪めて『その呼び方はやめてくれって言ってるだろ』と文句を言っていた。その困ったような顔がおもしろくて、しばらく信之のことを『ノブちゃん』と呼んでからかったりしたものだ。

 母親に叱られた男の子――ノブちゃんは上目遣いに母親の顔を見上げていたが、母親が店のマスターらしき人にグラスを割ってしまったことを告げに行くと、郁子の方を見てニッコリと笑った。

 そのいたずら小僧のようなあどけない笑顔を見て、郁子の口元にも笑顔が浮かぶ。

 なんとなくノブちゃんの笑顔が、子供の頃の信之を見ているように思わせた。


(そういえば、信之もいたずらをしてはよくお母さんに怒られたって言ってたっけ)


 割れたグラスが片付けるられるのを待って、母親はレジで会計を済ませノブちゃんの手を引いて店を後にする。


「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」


 親子が店から出て行く間際にマスターが軽く頭を下げて親子を送り出す。

 そのやり取りを見届けた後、郁子は腕時計で時間を確認する。そろそろ休憩時間も終わりだ。

 郁子はテーブルのレシートを取るとレジに向かった。


「ご馳走さまでした。コーヒーとってもおいしかったです」

「左様でございますか。お褒めいただきありがとうございます」


(なんて優しい笑顔なんだろう)


 接客用の笑顔ではなく、心からの言葉だと確信できるような笑顔だ。


「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」


 マスターの声を聞きながら、郁子は店を出た。なんだか足取りが軽い。

 素敵なお店だな、と思い振り返る。


 ――Cafe〝憩〟。


 店先の看板にはそう書いてあった。





 ――カラン、カラン。


 扉を開くと高く澄んだ鐘の音。郁子は今日も〝憩〟に来ていた。ここ数日通い詰めだ。

 店の落ち着いた雰囲気が郁子の心を和ませてくれた。

 全体的にブラウンで整えられた店内。照明は蛍光灯の明る過ぎる白い光ではなく、電球のようなオレンジ色の淡く柔らかな光。ただ大きなガラス窓から差し込む日の光も手伝って薄暗いという気はしない。昭和風の喫茶店とでもいうのだろうか。

 店内は入り口から入って左手に高いカウンターがあり、カウンター越しの壁には様々なグラスやコップが並べられている。向かって右側にはガラスの窓際にテーブル席が三つ。その一つに郁子は座った。今日はウィンナーコーヒーを注文する。そろそろこの店のコーヒーを制覇しそうだ。

 店内を見回してみる。

 カウンターには30代半ばと思われる男性が一人。入り口から一番奥のテーブルには女性が一人。背を向けているので顔はわからないが、郁子とそんなに歳が違わないように感じる。


(あまり流行っていないのかしら? こんなにコーヒーがおいしいお店なのに……)


 内心、首を傾げる。店の雰囲気もいいし、コーヒーの味は抜群に美味しい。人通りも多い。この条件でお客さんが少ないなんて。もっとも、あまり人が多すぎると落ち着いた雰囲気も壊れてしまうから、郁子にとっては人が少ない方がいいのだけれど。


「――お送りした曲は、ラジオネーム『ちゃっぷりん』さんからのリクエストでした。今週の『あなたの思い出の一曲』続いては……」


 店内のFM放送ラジオからDJの声か聞こえてくる。


「ラジオネーム『黄昏の肉まんさん』からのリクエストメール。『はじめまして、こんにちは。私の思い出の曲は、いつも彼とカラオケに行くと、おまえの為のライブステージだぜ、と言って最後に必ず彼が歌ってくれる曲です』という内容です。うーん、なかなかキザな彼氏ですねぇ。それでは『黄昏の肉まん』さんからのリクエスト、曲は……」

「あはっ!」


 思い出の内容を聞いて笑ってしまった。同じようなことが郁子にも覚えがある。

 信之もドライブなどに出かけたときに、車の中で『この曲をあなただけに捧げます』などと言ってよく歌を歌ってくれた。郁子は『キザなやつぅ』と茶化しながらも、いつも最後までちゃんと聴いていた。


「――信之の他にもこんなことする人いるんだ」


 コーヒーカップの中に映る自分に語りかけるように、ぽつりと呟く。

 信之はいつも歌い終わった後に『どうだ? 惚れ直しただろう?』と言い、郁子は自分の素直な気持ちを打ち明けるのがなんだか気恥ずかしくて『えー、えー。惚れ直しましたとも』と冗談っぽく応えた。すると信之は子供のように嬉しそうな笑顔を見せてくれた。その笑顔が大好きだった。


(何故だろう。この店に来ると信之との楽しかったことが思い出される)


 ――フォフォン。


 突然軽快な電子音が鳴る。ハンドバックの中にあるスマホのメールが着信した時の音だ。


 ――信之!?


 慌ててハンドバックからスマホを取り出してメールを確認する。


「……?」


 メールは信之からのものではなく、メールアドレスは覚えのないものだった。少し躊躇した後、内容を確認する。


『奈緒。元気にしてるか? ごめんな、奈緒。オレやっぱり今でもおまえのことが好きだよ。あれからずっと思ってた。オレ、奈緒に会いたいよ』

「……」


 郁子宛ではないメール。おそらく間違いメールだろう。短く、飾り気のない文章。けれど送った人の素直な想いが感じられた。

 どういった事情で送ったメールなのかわからない。でも、送った人の気持ちが郁子にはよくわかる。


(この人も同じだ。私と同じ想いなんだ……私も会いたい。信之に会いたいよ……)


 郁子はスマホを胸に抱きしめながら俯き唇を噛み締める。

 しばらくした後、郁子は顔を上げてメールを打ち始めた。


『ごめんなさい。私は奈緒さんという方ではありません。おそらく間違って送ってしまったのだと思います。まったくの見ず知らずの私が言うのもおかしいかもしれませんが、もう一度、あなたの想いを奈緒さんに伝えてあげてください。きっと奈緒さんもあなたの想いを待っていると思います。私も同じだから。私も大好きな人に会いたいから。』


 なんだか放って置けなくて返信する。

 偶然に届いた間違いメール。それが郁子に改めて信之への想いに気付かせてくれた。


 人を好きになるって きれい事ばかりじゃないさ

 苦しく 辛く 悲しいこともたくさんある

 互いの気持ちが すれ違ってしまうこともある

 だけど 側にいたいと 心から想う

 だけど 側にいて欲しいと 心から願う

 たぶんそれが 人を好きになるってこと

 僕は君の側にいたいと想う

 僕は君に側にいて欲しいと願う

 世界中の誰より 大切な君に


 店内に歌が流れる。ラジオから流れる思い出の一曲。それは信之が郁子のために歌ってくれた歌と同じ曲だった。

 想いが溢れてくる。心にあったわだかまりが、スゥーっと溶けてゆく。


(会いたい。信之に会いたい)


「――お客さま。いかがなされましたか?」


 気が付けば、目の前に真っ白なハンカチが差し出されていた。


「え!?」


 いつの間にか頬を伝う涙に、郁子は気付かなかった。


「あ、あれ?」


 慌てて頬に手を当てる。窓から差し込む日の光に、キラリと指先が光を弾く。


「……あ……ご、ごめんなさい。な、なんでもないです!」

「どうぞ。お使いください」


 マスタ―の優しい笑顔。郁子はハンカチを受け取り、そっと涙を拭う。

 見ず知らずの他人に涙を見られた。不快ではないけれど、すごく気まずい。頬が赤く染まっていることが自分でもわかる。少し顔を伏せながら、


「……どうも、ありがとうございました。あの……ハンカチ、お洗濯してからお返しします」

「いいえ、結構でございますよ」


 ふわり、と微笑むマスター。

 白いシャツの上から黒のベスト。首元には蝶ネクタイ。

 頭髪と整えられた顎髭は白くなっているが、口髭はまだ黒い部分が多く残っている。

 白髪を後ろで束ねた姿は、丸メガネをかけた柔和な笑顔と相まって、無頼漢の様相ではなく、むしろ芯の通った剣士を連想させる。


「あ……そ、その! ここって、お客さん、す、少ないですね」


 気恥ずかしさも手伝って、郁子は慌てたようにマスターに向かって話す。そして話し終えてから、なんて失礼なことを言っているんだろう、とますます顔を俯けてしまった。


「左様でございますね。こちらにお越しいただくお客さまは皆〝想い〟をお休めに来られる方ばかりでございますから」


 思いもかけない返事に、郁子は顔を上げてマスターを見つめる。


「〝想い〟を休めに……ですか?」

「はい。人は誰かを想い日々を過ごしています。親、兄弟、友だち、そして……恋人。人の数だけ想いの数もあるのです。ただ、ときに強い〝想い〟は自分では抑えきれないこともございます。そういった方々がこちらにご来店いただき、ほんの一時 〝想い〟をお休めになられていかれます」

「〝想い〟を休めに……」


 そっと呟いてみる。

 思えばこの店に来てから、郁子の心はずいぶん穏やかになった気がする。まだ不安はある。けれど、それ以上の〝想い〟が自分にはあることに気付いた。いや、気付かせてくれた。


(……そっか。私の〝想い〟もここで休んでいたんだ……)


「お客さまもお寛ぎいただけましたでしょうか?」

「――ええ。とっても」


 郁子はニッコリと微笑む。それは、迷いのない晴れやかな笑顔だった。


「私、そろそろ行きます」

「かしこまりました」


 郁子はマスターはそう告げると、テーブルのレシートを取ってレジに向かう。


「とっても素敵なお店ですね、ここ。私、毎日でも来ちゃいそう」

「ありがとうございます。ただ、お客さまはもう、こちらにはお越しになられないと思いますよ」

「え!?」

「お客さまの〝想い〟は充分にお休みになられたかと思います」


 郁子はしばらくマスターを見つめた。そして――


「そうですね。私にはもう、ここは必要ないのかも……だって、いっぱい休ませてもらったから……」


『ありがとうございました』とマスターに頭を下げて、カラン、カランという鐘の音と共に郁子は〝憩〟を後にする。

 雲一つない真っ青な空が清々しい。


「うーん。いい天気!……よし!!」

 

 スマホを取り出して、信之に電話をかける。


 ――プルルルルー。プルルルルー。


 今は電話に出ることが出来ないのかもしれない。けれど郁子は今、信之に電話をしたかった。

 出なくてもいい。

 焦ることはない。

 もう迷わないと決めたのだから。

 例えすれ違ったとしても、二人の〝想い〟が重なるまで歩き続ければいいだけのことだ。

 郁子はスマホを耳に当てたまま振り返る。店先の看板が目に入った。


 ――Cafe〝憩〟


(想いの憩う場所……か)


 ――プルル……ピッ!


「……郁子……」


 聞き慣れた声がして、郁子は一度大きく深呼吸をする。


「――もしもし……」


 そして郁子は歩き出す。大切に想う人の元へ――





 あなたには誰よりも想う人がいらっしゃいますか?


 あなたには誰よりも想ってくれる人がいらっしゃいますか?


 皆様のご来店、心よりお待ち申し上げております



                             

                ~〝憩〟店主 ~




―了―

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