007 サラ・メリファーの期待
「お兄ちゃん、ほんとにどうしちゃったんだろ」
荒い息を途切れさせながら、満足したように庭で倒れた兄の姿に、サラ・メリファーは困惑していた。
いや、正確には困惑し続けていた。
三日も長引いた高熱が治ってから、ずっとだ。
サラにとっての兄、ヒイロ・メリファーは努力とは無縁の男だった。
怠惰で口数も少なく、主張も主義もない。
昔馴染みのルズレーに染まって口が悪くなる一方で、彼の言うことには決して逆らおうとせず、言われるまま為されるまま。
背丈と違って気が小さい。そんな、世にありふれた自分の無い人間だったはずなのに。
「やっぱり、あの熱のせいなのかなぁ」
兄は変わった。明らかに。
養成学園を卒業した日に「この国一番の騎士になる」と自分に宣言してからというもの、毎日のように過酷な鍛錬を積んでいる。
サラは唖然とした。はっきりと断言した兄にも。言葉を嘘にしない為の、鍛錬のハードっぷりにも。
「でも性格が変わっちゃう熱なんて聞いたことないし⋯⋯村のみんなも全然分かんないみたいだし」
王都から離れた麓の村、ヘルメル。
自分と兄が暮らす村の人間は、誰しもがヒイロの変貌っぷりに驚いていたが、誰にも心当たりのある人間など居なかった。
当然、人を変える熱病など知る由もない。
村一番の知恵袋であるルチャーバお婆に聞いてみても「さっぱり分からん」の一言。
村の噂好きいわく、一目惚れした美女を振り向かせたいからじゃないか、なんて憶測が出てるらしいけども。
真偽を問うても「俺がヒイロだからだ」とはぐらかされた。サラには意味不明である。
「ルズレー⋯⋯様、の誘いを断るなんて。今まで絶対あり得なかったのになぁ」
何よりサラが驚いたのは、卒業式から二日後。
街に繰り出すからと迎えに来たルズレーの誘いを断ってまで、兄は鍛錬を優先させたのである。
あり得ないことだった。無論ルズレーも、先に誘われたであろうショークも困惑した。
困惑ならまだしも、ルズレーは憤慨した。
今までの彼なら当然だ。自分に逆らうなんてあり得ない。ましてやそれがただの鍛錬如きに傾き負けるなど。
しかし、二度目の誘いにもヒイロは頷くことはなかった。
結局、耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言を吐き捨ててルズレーは去っていったのだが。
去り行く背を無言で見送りそのまま何事もなく鍛錬を再開した兄の姿に、目薬を求めて村の薬師の元まで走ったのも記憶に新しい。
「⋯⋯」
分からない事ばかりだった。
でも、確かな事もある。
兄は本気だ。本気で騎士を目指している。
ルズレーの取り巻きじゃなくて、国一番の騎士を。その姿を、笑う村人も居た。感心する村人も。気味悪がる村人も。
サラとて彼らの気持ちが分からない訳ではない。ちっぽけな村の小さな村人の一人が抱くには、あまりに身の程知らずな夢見事だ。
でも自分は家族である。そして、家族であるからこそ知ってる事もある。
口も悪ければ人相も悪く、流されてばかりの小心者。
そんな、誇るべき所なんてひとつも無かった兄だけれど。
妹に、嘘をついた事だけは一度もなかった。
「⋯⋯タオルくらい、用意しといてあげるかな」
頑張ってね、お兄ちゃん。
まっさらなエールは、けども気恥ずかしくて胸の内についぞ閉まったまま。
そばかすの広がる頬をかきながら、サラはいそいそとタオルを取りに行く。
サラ・メリファーはいわばモブの妹。
ただの平凡な村娘。騎士の養成学園に通ってる訳でもなく、剣のひとつも握ったことのない少女。
故に気付けるはずもない。
ランニング、おおよそ30キロ。
腕立て伏せ、腹筋、背筋、スクワットを各100回に、木の棒を素振り500回。
そんな過剰な鍛錬を、急に始めれば身体がどうなるか?
当然悲鳴をあげる。初日の晩など、ヒイロの全身は当たり前のように筋肉痛に苛まれていた。
だが翌日。彼は当たり前のように、前日と同じメニューをこなしたのだ。
一足歩けば膝を折りかねないレベルの激痛。
一回の腕立て伏せで、折れそうになるほどの激痛。
一度の素振りで、手に持つ重しを落としかねない激痛。
それら全てに苛まれながら、それら全てを我慢して。
脂汗を垂らしながら、悲鳴をあげながら、それら全てを懐かしみつつもやり遂げる。
それが、どれだけ『異常』なことか。
幸か不幸か。妹のサラには気付けるはずもなく。
結局ヒイロは入団テストのその日まで、一日とて鍛錬を欠かしも減らしもしなかった。
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