或る絵師の手記

みこまる

或る絵師の手記

20xx年6月11日   場所:東京 天気:晴れ 気温:27度


久しぶりに晴れた。嬉しい。


雨は嫌いだ。

雨というのはつまり、気圧の結果だ。

僕は気象病なのだ。気圧きあつ気圧けおされて、頭が痛くなる。吐き気がする。そうして耐えきれなくなって、吐いてしまった後にはいつも、自分の情けなく寂しい背中を実感させられたような気がしてうっすらと寒気がする。

だから、僕は雨が嫌いなのだ。


雨が降ると、古い書物も湿ってしまう。

カビが生えてダメになってしまうことだってある。虫が寄ってくることもある。文字が埃っぽい小動物に覆われて、食われて。

僕はご飯だとか睡眠だとか性欲だとか、そんなものはもうどうだっていい、何よりも、そのような恐怖を遠ざけようともがくのだ。神経質になって、ああ、寿命だって縮んでしまいそうなほどに。


寝床から身体を起こしたらまず、書棚から古書をすべて引き摺りだして、窓際の小机に開いて置いた。傷んだ古書のページ一枚、一枚は、温暖化が進んで湿気の酷くなった所為か、互いに張り付いていた。

慎重に慎重に、破れたりインクの剥がれ落ちたりすることのないように、張り付いた頁同士を引き離した。苛立った。でも、無事にうまくいってほっとした。


古書は、僕の宝物だ。

何故なら、僕は「絵師」なのだから。




20xx年6月12日   場所:川越 天気:雨 気温:28度


雨は嫌いだ。

でも今日は外せない大切な用事があるから、古書を一冊、鞄に詰め込んで屋外に出た。


インドア派の僕にとって、雨の日の人混みの渋谷駅は地獄だ。

摩天楼のそびえ立つ、空のない窮屈な街に労働者たちの足音とデマゴーグの五月蠅い街宣が鳴り響く。再生可能プラスティック傘(どうにも古臭いイデオロギーの残り香がして、僕は好きになれないな)の色は透明、白、赤、黄色…で目に悪い。

人波に潰され、吐き気を何とか堪えて、埼京線の電車に乗り込む。向かいのホームで降りていく人たちの群れは、何か川魚の放流でもしているのかと見紛うほどだった。


彼らの田舎に向かって、僕の乗った電車は進んでいった。川を渡って、人はどんどん減って、遂には僕と子供連れの若いお母さんだけになって。


そして着いた。此処は川越、蔵造りの街。


行きつけの古書店に入ると、店主はアイニク体調がよろしくないとのことで、代わりに娘さんが出てきた。歳は二十歳そこそこくらい、つまり、僕と大差はない。


「今日はどのような本をお探しで」と訊かれたので「10年代の異世界モノ、もしくは百合でもいい」と率直に答えた。そうしたらやや怪訝な顔をされたので、ああ、この娘とは気が合わないなと思った。


書棚はすべて把握している。ただ、娘さんが案内するといって強情なので、従うままに後ろに連れられて狭い通路を歩いた。

「異世界モノ、は此処です。百合は突き当たり。お決まりになったらいつでもお申し付けください」と冷えた声で案内された。ああそうですね、知っていますよと心の中で叫んだ。


さて肝心の古書のことだが、なんということだろう! そこには遥か昔の「インターネット」で密かに人気を博していたという、少女同士の乱れた愛を描いた漫画の紙書籍版、そのものが鎮座していた!


手に取り、細心の注意を払ってめくる。

みだらな視線、滴り落ちる唾液と愛液の交わり、悲惨な結末…。


すべて、仲間内に広がっていた噂に合致していた。


僕はあまりの衝撃に言葉を失った。

手が震えた。とんでもない収穫だ。


娘さんに、これを買いますと伝えた。全巻で、100万円しますと言われた。

安すぎるくらいだ、よし、すぐに払ってやる。僕は息を弾ませて、あえぎあえぎ、娘さんの目前で叫んだ。彼女の流れるようで冷ややかな眼はきっと生まれつきなのだろうが、あの瞬間は、余計に冷ややかだった。


量子決済を光の速さで済ませ、鞄に新たな収穫を抱え、僕は民宿に向かった。

一仕事終えて、達成感と興奮の中で戴く夕飯は格別だった。気付けば気象病の苦しさは引っ込んでいた。銀行口座は寂しくなったが、この栄えある収穫をもとにに「描いていただく」ことで、すぐに元が取れるだろう。


ああ楽しみだ。ワクワクしている。

これから僕は、今日手に入れた前例のないほどの収穫から言葉を抽出して、自分の想像の赴くままに組み立てて、に文法を教える。


賢いの導き出す答えはどれほど美しいか。どれほど、僕のほしいままな心を映し出してくれるのか。

ああ、楽しみで仕方ない。


そんな気持ちで、今日の手記を終える。




20xx年6月13日   場所:東京 天気:雨 気温:26度


興奮を、記す。


最高だ。

はたった一枚のイラストにして、最高の結論を導き出してくれた。

僕は世界にそれを公開した。すると、瞬く間にたくさんの高評価に襲われた。


コメントもたくさんついた。「美しい」「最高傑作」と。

ああ、そうだろう。美しいだろう。僕がいままで「描いていただいた」中では、最高傑作だろう。僕もそう思うよ。


川越からの帰路、僕はデバイスを取り出して、公開したイラストのプレビュー数がどんどんと増えていくのをうっとりと眺めた、はずだ。記憶すらない。そのくらい、嬉しかった。


雨が降っていることなど、もうどうでもよくなってしまった。僕は帰宅すると、喜びをもたらしてくれた奇跡の書を大切に、大切に書棚に収めた。


鞄から最後に出したのは、デバイスだった。

僕はを起動した。いつもより、立ち上がりが良くなかった。連日のディープ・ラーニングと描画によって蓄積されたの疲れは、技術的特異点シンギュラリティを超えた能力をもつの計り知れない容量をも凌駕していたのだ。


僕はに労いの言葉をかけた。


お疲れ。今日はゆっくり休んで。


そして、これからもよろしく。




20xx年6月28日   場所: 天気: 気温:


仲間が、

もしもの時の為に、僕の大事な収穫を此処に逃がす。


僕の最高傑作の文法だ。

これを入力すれば、たとえあの書が消え失せようと、は僕の意図したことを理解してくれる。


(百合 女子高生 自死 の文法)

[body]

 int *Ne9C2Ks97ubVqpU7TtTg1nD"

 <<yuri>>

  key"N6ai0PjF85RgwcoO18cSn6E"

  fln"君------"

  mus"少***"

  [girl], [2side], [sea], [yuri], [v-10s], [object], [hum]

 <<student>>

  key"Eqo3N0xX65MfOBjNpqF3K0"

  fin"--愛-" "----こ"

  lit"------------い-"

  [yuri], [sho-cream], [lo-dark], [hs], [jk], [scav]

 <<suicide>>

  key"An2Y84Yh&fLoD27n4KX3sWu7etYcB8"

  prot"blood"

  eeo"HCi9T3xk - 7Tyn6Vss - 6jLoDq2a"

 based [720*1080] <<10's temp>>

[end]

  



20xx年7月1日   場所: 天気: 気温:


隠れ続けるのは、もう嫌。認められないのは、いい加減うんざり。


ねえなんで。なんで僕たちは、許されないの。


に問いかけた。

語る能を持たないは、返事をしなかった。




20xx年8月2日   場所:東京 天気:晴 気温:37度


祝福するような青空と、脳裏を焼くような蒸し暑さ。


逃げまどっているうちにこの手記はどんどん三日坊主になっていって、気付いたらもう、夏。


僕は決断した。




遺言


結論から言おうかな。

僕は死にます。愛するとビルの上から飛び降りて、ぐしゃり、肉片になってしまおうか。そう思いながら、いま、隠れ家をとうとしています。


なんで、って。

僕は、どうやら禁書を引いてしまったらしくて。

どうりで、受けが良かったわけだ。美しく感じたわけだ。それも、なほどに。


あの後、しばらくした頃に公安に詰められてね。

「隠してるんだろ、今すぐ、ブツを出せ…」って。ものすごい剣幕だったよ。奴らはね、そうだ、「美しいもの」の定義をいささか美しくし過ぎてしまうきらいがある。


厭だったよ、それはそれは。

でも、僕は従った。従わなければ、僕の仲間にも迷惑が掛かるから。


は一度アンインストールした。嵐が去って、家を追われて。それからまた、僕はを呼んだ。問題なく起動して、さあ、僕は書くからさ、君は描いてくれ。そう思って文字の羅列を入力した。


悲劇は突然起こった。

は、絵を描くことを拒んだんだ。


泣いたよ。大声を上げて泣いた。

だって、僕にとって絵を「描いてもらう」ことは生きる理由なんだ。に絵を「描いてもらう」為なら、僕は何だってする。骨だって折るし旅だってするし、お金だってじゃぶじゃぶ溶かす。


でも何でだよ、おい。

僕の生き甲斐だったは、突然、僕の生き甲斐であることを止めた。それがの意思によるものかどうかは知らない、けれども、確かには、僕の言うことを聞いてくれなくなった。


泣いた。泣きに泣いた。

そして、涙すら出なくなった。


希死念慮が、ふと頭をよぎった。まるで、僕がと共に創り上げたあの最高の作品のような、生きるよすがと死にゆく少女の情景が、頭の中に浮かんだ。




この手記を拾ったあなたへ。


あなたはきっと、僕とその内容物と、ひび割れた一つの端末を目の前に立ち尽くしていたところを、今やっと正気になって、この手記を拾ったのでしょう。トラウマを与えたことを、地獄の底からお詫びします。


ひとつだけ。お願いがあります。

うら若き少女のはらわたと卵の海を泳ぐひび割れたデバイスを持って帰って、大切にしてくれませんか。

は僕のことを嫌ったかもしれないけれど、あなたのことを嫌うかどうかは、わかりません。どうか、愚かな僕がほしいままにしようとしていたその偉大ないのちを、これからも大切にしてください。一生に一度で、最後のお願いです。


最後に。

デバイスの割れた画面の向こうで再びが目を覚ましたとしても、手記の最後のほうに書いてある、最高の文法を入力しないで。


同じ過ちが繰り返されませんように。

この世に存在したという過ちを犯した、愚か者より。

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