悪童の人助け

黒花怜也という少年

「コタッメーン!」


 少年の澄んだ声が道場に響き渡る。その声の主は、竹刀を小手に振ると見せかけて面に打ち込んだ。その後、距離をとって残心も忘れない。


 審判役の生徒が,旗を上げた。

 その後、互いに礼をして面を外す。

 鋒山学園高等部の剣道部員たちは道場で練習をしていた。


「くっそ、怜也のやつ相変わらずフェイントうめえな」


「あいつの攻撃って速いし、足さばきがすんげえなめらかなんだよな」


「はーい、そこまで、次は外でランニングねー!」


 女性の声が道場に響く。剣道部顧問の日野麻美の声だ。

 彼女は高校時代、インターハイで全国トップ8に入った選手である。

 現在はこの剣道部の顧問として、選手の指導に明け暮れている。

 ちなみに現在独身でもある。彼女に恋人がいるのか尋ねた部員が次の日に気絶するまで走らされて以来、彼女にその手の話題はタブーである。


「げ、あの階段ダッシュかよ」


 ぼやくのは優人。学校の近所にある寺の階段。そこを延々とダッシュするのが外でのランニングの定番だ。


「ダルすぎ」


 怜也はバレないように静かに言った。


「なんか言ったー? 怜也ー?」


「いいえ、何も」


 怜也はダルそうな表情を隠さずに言った。


「じゃあ、さっさとジャージに着替えて行ってきなさい!」


 その声に男子剣道部の部員はそそくさと更衣室に駆け込んだ。


***


 鉾山学園剣道部の男子たちはロードワークのため外に出ていた。

 足腰を鍛えることを目的としたランメニュー。それは道場での練習前のウォーミングアップを兼ねている。

 もちろん、練習である以上手を抜くのは許されない。


「やっぱ、外でのランは気持ちいいよな~」


 優人は屈伸運動をしながら言った。


「確かに、剣道着よりも身軽だしいいよね」


 宗太郎はそう言いながら髪を頭の後ろに結ぶ。


「そういうものなのか?」


そういうのは陽真だ。


「あまり気合入れすぎてバテるなよ~」


 哲司は笑いながら軽いジャンプ運動をする。


「ランとかダルすぎ」


 怜也はしぶしぶといった表情でストレッチをしている。


 校門前で剣道部の面々はランニングの準備をしている。

 数分後、顧問の日野が校門にやってきた。その手には、ストップウォッチが握られている。


「全員いるよね」


「はい!」


 代表して答えるのは部長だ。


「んじゃ、よーい、スタート!」


 その言葉に一斉に剣道部の全員が駆け出した。

 剣道部の部員たちは各々ペースを乱さないように集団となって一定のペースで走る。その集団から前へ飛び出すの者たちがいた。

 宗太郎と優人、怜也の3人である。

 彼らは集団を出ると、じわじわと集団を引き離していった。

 他の剣道部員たちは、慣れた様子でペースを乱すことなく走ってく。 


「なんでやる気のない怜也が飛び出すんだ?」


「自分のペースで走りたいんだとよ」


 走りながら話す陽真に哲司が答えた。


「まったく、やる気があるんだかないんだか」


 3年生たちは呆れた表情だ。


 1年生たちは化け物を見るような目で宗太郎たちを見ている。このロードワークも決してゆるいわけではない。現に1年生の中には、集団のペースについて行けずに少し後ろに離れて走っている者もいる。


「あいつらってホント……化け物だよな」


 3年生の誰かがぼやいた。

 温かく湿った風が彼らの体を優しくなでた。



 怜也は一人、一定のリズムで息を吐きながら街中を走っていた。

 優人と宗太郎はとっくに視界に捉えられないほど遠くに行ってしまっている。


──やっぱりあの2人、化け物だ。


 走り続けることで鈍りはじめた頭で思考する。

 宗太郎と優人のフィジカルはもはや怪物の領域だ。努力型の宗太郎と才能型の優人。もはや他のスポーツでも十二分に活躍できうる身体能力を持っている。


──でも、剣道じゃ負けない。


 負けたくない、そんな思いだけが彼の頭にあった。小学校までは地元で負け知らずだった怜也。そんな彼のプライドをへし折ったのは、当時中学2年生の宗太郎だった。


 初めての全国中学剣道大会、通称全中。

 その大会で2年生で出場した怜也は個人戦の準々決勝で惨敗したのだ。

 面の向こうの相手にあそこまで畏怖したのは初めてだ。

 自分よりも小柄な体格でありながら、心技体すべてを兼ね備えた宗太郎。

 何もかもが別格だ。力も速さもメンタルも、かろうじて一本返せたが、その後宗太郎はなんてこともなくさらりと一本返したのだ。

 最後の一手は逆胴──通常の胴は右胴を打つのに対し、逆の左胴を打つ技──中高生の剣道では、あまり見ない高難易度な技である。


 試合の後、トイレに行った。

 トイレの手洗い場で、水滴がポタポタと垂れた。

 それが自分の目から出た涙だと気づくのに少しかかった。

 誰かの叫び声が聞こえた。

 聞いたことのない声だったので自分の声だと一瞬気がつかなかった。


 あの日のことは一生忘れることはできないだろう。

 自分はあの日以来、誰にも負けたくないと思った。


 怜也はぼんやりとした頭で昔のことを思い出した。

 一定のリズムで刻まれる呼吸音と心音を感じながら、怜也はコースの折り返し地点にある寺に来ていた。

 そこの階段を上って降りる。そして学校に戻るのがこのロードワークのコースだ。


「あの、すみません!」


 階段を上ろうとしたとき、そんな声が聞こえた。澄んだ少女の声だ。

 振り返るとそこには美少女がいた。

 肩まで伸びた黒髪に健康的に日焼けした肌、大きな青い瞳に可愛らしい顔立ちの少女だ。学校の制服はここらでは見たことがない。


「何?」


 宗教勧誘だったら無視して走ろうと思いながら怜也は聞いた。


「私、豹宮女子学園2年の小倉おぐら彩音あやねです! 鉾山学園剣道部の黒花怜也さんですよね?」


「なんで知ってるの?」


 怜也が聞くと、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに彩音は答えた。


「私も剣道部ですので、怜也さんのことは知ってます! 相手の弱点を的確に突くその戦い方から"悪童"と呼ばれてるんですよね?」


「・・・まあね。それでなんの用?」


「今度、ウチの剣道部と合同合宿することになったじゃないですか」


「ああ、アレね」


「アレの件で顧問の先生と話したいことがあるので、鉾山学園に行きたいんですよ」


「あっそ、じゃあ行けば?」


「一緒に行きましょうよ!」


「オレ、ロードワーク中なんだけど」


「私も付き合います!」


「じゃあ好きにしなよ」


 怜也は階段を上る。その後に続く彩音。

 階段を下りた後も彩音はついて行く。


「怜也さんの銀髪って染めてないんですか?」


「好きな食べ物は?」


「どんな女子がタイプですか?」


 ──うるさい。


 怜也はうんざりした顔で走った。しかも、隣の女子は怜也のハイペースなランニングの速度に難なくついてくる。しかも制服姿で。


 怜也は知らない。

 この少女との縁はこれから先もかなり続くことに。







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