第8話 大通りでの乱闘騒ぎ (3,700文字)

 その夜僕とショーンは、贅沢にも簡易宿で朝まで過ごした。

 ジャックがネズミ捕獲の報酬とは別に宿代をくれたんだ。普通のネズミは一匹三ペンスで売れるらしいけど、あの化け物級のネズミにはどんな値がつくんだろうね。


 ちなみにジャックのちんとたまは無事だったよ。キュロットの内側に当て革をしていたらしい。あの騒ぎのなかどうやってネズミを生け捕りにしたのか聞いてみたら、


「かごの扉を開けていたら向こうから飛び込んできてくださった」


 ってどや顔だった。ちゃっかりしてるよ。


「ジャックも子供がいるからな! そりゃあ、がめつくもなるってもんだ」


 ショーンは危険な状況になったにも関わらず、一切ジャックに文句を言わなかった。またよろしく、なんて笑ってた。


「あぁ、安宿ってのは夏は地獄だな! 眠れた気がしねぇや」


 歩きながらショーンがあくびをする。

 かごの中のネズミのごとく、狭い部屋に人間が詰まってた。熱気もこもるし眠れたもんじゃない。寝つきの悪い僕には、安宿も野宿も、救貧院の石の床も大差がないのだけれど。


 でも同部屋の人たちは不運だったね。僕とショーンは排水溝の臭いが染みついていたから。鼻をひくつかせながら、すげー嫌そうな顔されたよ。


 普段雨ばっかりなくせに、こんな時には降らないんだよね。

 テムズ川は夏だろうと浅瀬だろうと水浴びなんてできない。なんでかって、排水溝と似たような臭いがするんだ。恐ろしい。


 僕たちはセント・マーティン・イン・ザ・フィールドという教会の近くにある浴場兼洗濯場で服を洗って、またお湯に浸かった。騒がしい所だよ。皆すっぽんぽんでさ。はしゃいでるんだ、変だよね。


 濡れたままの服を着て、コヴェント・ガーデン市場付近であるストランドの通りを歩いているのが、今現在。

 実は、二人でハンナに会いに行くところ。


 せっかくまとまったお金が手に入ったから、ハンナのパブにお客として入ってやろうという話になったんだ。ショーンは初対面。ハンナ、びっくりするだろうな。にやにやしちゃう。


 遠くに見えるテンプル・バーという飾り門を超えたら、ハンナの店は近い。この通りはいつも賑わっている。馬車や荷車の間を行き交う人たちを、避けながら進む感じ。じれったくなるね。


「なぁ、ルイ」


 おっと。


「ん?」


 にやついてたのを唇を丸めてごまかす。


「排水溝で、おまえさ。ネズミを……」


 どきりとする。その話には触れないように、ジャックの話ばかりしていたのに。

 ショーンはどう続けようか迷っているらしく、前を見たままもごもごしている。


 排水溝で、僕はたくさんのネズミを殺した。

 ショーンがネズミに襲われるのを見て、頭に血が上ったようになって、それから……からだが勝手に動いてた。

 ネズミに対する罪悪感とかじゃなくて、僕はあの時の、自分が突然何者かに切り替わるような感覚に戸惑っていた。

 僕だけじゃない。ショーンだって、別人をみるような目で僕を見てた。

 その視線が痛かった。


 僕はお母さんの仇を、人をいつか撃ち殺してやろうなんて考えている。そんな人間が、まっすぐにいい奴なショーンと友達でいるなんて、共にがんばろうなんて。

 できっこない。

 僕の底には、どろどろとした暴力的なものがいる。それを知ったらショーンはどんな眼をするだろう。

 そんなことを考えていて、昨日はいつにも増して眠れなかったんだ。


「ルイ。お前さ――」


 ショーンが立ち止まり、顔を向けた時。


「放せよババァ!!」


 怒鳴る声。カランと何かが転がる音と、悲鳴。目を向けた先。


「マーガレットおばさん!!」


 赤い柄物のショールを肩に巻いた婆さんが、膝を着いた体勢で正面に立つ少年の上着を掴んでいる。くすんだ色のボンネットからのぞく、苦痛に歪むしわくちゃの顔。

 数か月前から行方がわからなくなっていた、花売りのマーガレットおばさんだった。


 生きていたんだ。

 でも、安心している場合じゃない。

 あれはたぶん、物盗りか何かに狙われたんだ。


 少年は手荒くおばさんの手を振りほどこうとしている。

 おばさんの背後に、もう一人立っているのを僕は見た。

 ポケットに両手をつっこみ、うす笑いを浮かべている。ぼさぼさに広がった黒髪、ぞくっとするくらい、冷ややかな眼。

 その悪魔的な顔を、僕は知っていた。

 コヴェント・ガーデンで僕の銀貨を奪った、少年たちの中にいた奴だ。

 そいつが一歩、おばさんに近づく。

 ――何をする気だ。


「おばさんっ!!!!」


 僕は走りだしていた。

 周囲の人々は突然の出来事に固まっている。

 マーガレットおばさんに掴まれていた方の少年が、拳を振り上げる。


「やめろこの野郎ぉぉ!!」

 

 叫びながら接近する僕の方へ顔を向ける少年の顔面に、僕は走る勢いのまま拳を叩きこんだ。


「ぶへっ!!!!」


 めきっと音がして、指の関節に痛みが走った。鼻から血を吹き出した少年があお向けのまま白目をむいて倒れる。

 殴っちゃった。

 でも僕は迷っていなかった。おばさんは悪党グループの標的にされたのだと確信していた。

 助けなきゃいけないんだ。


 黒髪の少年がポケットから手を抜く。

 

 僕はすかさず拳を入れた。少年は上半身を引いてかわす。次の瞬間、凄いスピードでパンチを繰りだしてきた。速すぎて目で追えなかった。殴られた、とさえ思った。


 しかしぎりぎりのタイミングで僕はそれをかわすことができた。パンチの風圧を感じながら、反撃にでる。

 ――でようとした。

 そこで右側から蹴りが入った。ガードした腕から重い衝撃が全身に伝わる。

 うっ、と息を漏らしながら――負けじと相手の足を払う。

 少年が尻を着く。が、瞬時に後方へ回転するようにして立ち上がる。

 僕との距離が空いた。


「なにすんだてめぇ!!」


 ざわつく周囲から金切り声が起こる。別の少年たちがこちらに向かってきているのが視界に入った。囲っていたんだ。僕の時みたいに。


 掴みかかってくる手をぐいとひねる。うめきながら体制を崩したところを、足を払ってひっくり返す。

 やり方はわかっているんだ。

 僕は叫びながら向かってくる少年を倒すため、構える。息を吸い、踏みだそうとした。


 パンッ!!


 ――銃声。

 響く、その乾いた音にからだが凍った。

 目の前が真っ白になる。

 お母さんが死んだ、あの夜に聞いた音。


 ――嫌だ、怖い!!

 ぞわぞわと悪寒が走る。心臓まで冷たくなったみたいに、震えが足元から上ってくる。

 誰か、誰か助けて。

 怖い、怖い!!


「ルイ!!!!」


 僕を呼ぶ声に、視界が戻る。

 目の前でショーンが少年を殴りつける瞬間だった。


「あぶねぇ!!」


 ショーンが僕を押し倒す。


「きゃあぁぁぁ!」


 女の人の悲鳴と同時に、二発目の銃声が鳴った。

 尻をついた僕の斜め上。荷台の積み荷に、バスッと銃弾が撃ち込まれ、麻布に穴が開く。


 悪寒が痛みとなって耳の奥がガンガンする。再びからだが動かなくなりそうなのを、僕は歯を食いしばって耐えた。

 片耳を押さえながら、僕は銃を撃った人物の方に目を向ける。

 黒髪の少年が、硝煙をまといながら銃を向けて立っていた。

 口元には微笑さえ浮かべ、黒い瞳で僕を見てる。

 こいつはいったい、何なんだ。


「おまえたち!!なにをしている、やめろ!!」


 野太い声がする方を向く。青いジャケットにトップハットをかぶった、警察ヤードの団体が警棒を手に向かってきていた。


「くそ! ピーラーポリ公だ! 逃げろ!」


 少年たちが散り散りになって逃げていく。

 黒髪の少年の方を見ると、背を向けて走っていくところだった。


「あいつ! テンプル・バーを越える気だ! その先は首都シティ警察の管轄だ、ロンドン警察スコットランド・ヤードは追えなくなる!」


 ショーンが声を上げた。

 よくわからないけど、逃げられるってことか。

 あんな危険な奴、今捕まえてやらなきゃ。

 でも走ったところで追いつけない。

 どうする、どうする――。


 僕は目に入った、荷台に積まれた玉ねぎを掴み取った。

 立ち上がり、狙いをつけ、振りかぶる。


 僕が投げた玉ねぎは、停まった馬車や人々の頭上を飛び越えていく。少年の黒髪頭をも飛び越え、ある荷馬車の馬に当たった。


「ブロロロロ!!」


 驚いた馬が前脚を上げる。うず高く積まれた、トマトの山が転がり落ちた。

 黒髪少年は飛び越えようとした。しかし足りなかった。着地した途端、踏み潰したトマトに足をとられ転倒する。起き上がるも、また転んだ。


 追いついた警察ヤードと、周囲の男たちが少年を取り押さえにかかるのを、僕はぼーっとしながら見ていた。

 羽交い絞めにされた少年は最初こそ抵抗していたけど、すぐに大人しくなった。そして僕の方を振り返る。


 遠くからでも、口元がつり上がるのが見えた。

 寒気がした。笑ってやがる。


「おまえたちも来るんだ! まったく、この小悪党どもめ!」


 警察ヤードが僕とショーンの肩を乱暴に捕らえる。


「ちょぉい! 俺たちは悪くねぇぞ! おいってば!」


 ショーンが声を張る。周囲の人たちが止めてくれるわけでもなく、僕たちは引っ張られていく。


「ル、ルイ……!」


 か細い声でマーガレットおばさんが僕を呼ぶ。そのわきには松葉杖が転がっている。前はそんなもの、使っていなかった。


 膝をついたまま、僕に手を伸ばすマーガレットおばさん。やっと、周囲で見ていた人たちが集まって手を貸そうとしている。


 大丈夫だよ。何も悪いことしてないし。


 僕は小突かれながら何度もおばさんの方を振り返った。



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