第3話 人狼の見た夢

「あれを見ろ! EXITと書いてあるぞ!」

 素晴は、砂漠で遭難寸前についにオアシスを発見したかのように指差した。

 妖二名が隔離されていた建物は、窓が無く、なかなか広く、正面玄関ではなさそうな小さな出口に辿り着くまでにも、それなりに時間を要したのである。そしてやはり、二人は誰とも会うことが無かった。

「なんだい、かんぬきじゃないか! これなら、おまえに殴り付けてもらわなくとも開けられそうだね!」

 存外古風な仕掛けの両開きのドアに、咲久弥は、声を弾ませた。

「……俺たちのために造られた非常口かもしれねー」

 晴天色の瞳と翡翠色の瞳は、しっかりと頷き交わしたのだった。

 二人は、武器を所持していない。

 猿楽一座の旅にも武装は付き物だったと咲久弥は主張したのだが、武装すると銃器を持った人間に遭遇した際むしろ厄介なことになるという素晴の意見を容れたのだ。

「裸族狩りに遭わないことだけ、祈らせてもらうとしよう」

 咲久弥は、その嫌味だけは言わずにいられなかった。彼とて非戦闘員どころか病人のような出立ちだが、素晴は、ついに屋外へと出ようというのに、全裸というフリーダムを頑なに維持しているのだ。もしも銃器を持ったお巡りさんと遭遇しても、自力でなんとかしてもらうとしよう。


 二人は協力して、関を外し、扉を押し開いた。

 そこは、広々とした中庭のような場所だった。

 そして、低い唸り声が聞こえた。

 二人は黙ったまま、開けたばかりの扉を閉じてしまったのである。

 そして、閉じた扉の内側で、二人はずるずると座り込んだのだった。

「素晴……おまえのバトルシミュレーションにゾンビが登場したという理由がわかった気がするよ」

「俺もだ」

「……ということは、シミュレーションの中のゾンビも、あんな感じだったわけかい?」

「ああ、その通りだ!」

 二人は、見たのである。

 そこは、広々とした中庭のようだったが、雑草も木の枝も伸び放題だった。

 そこへ、酔っ払いか病人のような足取りで、一人の男性が通り掛かったのである。

 彼は、僅かにボロ布を纏っただけという姿だったが、素晴という裸族が親交を深めたくなるような相手では決してなかった。

 彼の肌は、緑青をふいたような尋常ならざる色をしており、そんな男が、低い唸り声を上げながら、どこへ向かうでもなくヨタヨタと歩き回っているのだ。

 そして、奥の方の木陰からも、同じようなのがもう二人ばかり現れたのだ。

 少年たちは、そっと扉を閉じて、ある種の脱力感に苛まれつつも作戦会議を行うことにしたのだった。


「シミュレーションではさー、ゾンビってえのは、力は弱いわ、動きは鈍いわ、頭も悪そうだわで、ちっとも怖くなかったぞ」

 素晴は、強がるふうでもなく述懐したが、「実在するとは思わなかった」と真顔で付け加えた。

「そうかい。ただ、どうしても気になるのは、ゾンビに噛まれたり引っ掻かれたりしただけでもゾンビになっちまうっていう、ゲームなんかにゃよくあるあの設定さ。シミュレーションではどうだった?」

 すると素晴は、あからさまに何かを思い出したらしく震え上がった。そして、咲久弥が所持していた予備の衣服を譲ってくれと懇願したのである。

「シミュレーションで一回だけ引っ掻かれちまったことがある。だからってゾンビにゃならずに済んだが、あん時の気色悪さは、今思い出しただけでももう……」

 素晴は、咲久弥から受け取ったズボンを履くわけではなく、器用にまるで下帯のように、足の付け根に巻き付けたのだった。

 キーンと冷ややかな翡翠色の瞳が、裸族がピンポイントで文明を享受するその様を眺めていた。

「咲久弥、おまえは、風を使えば接近戦を避けられるし、引っ掻かれたりせずに済むんじゃね?

 あー、ワンチャン、さっきの人たちが、ゾンビのコスプレ同好会だったりしねーかな……」

 少年たちは、淡い希望も抱きつつ、再び慎重に扉を開いたのだった。

 

 晴天色と翡翠色の目が、それぞれ何度か瞬いた。

 そしてまたもや、扉はそっと閉じられたのである。

「なんだよ、今のファランクスもどきは!」

 素晴は、扉の内側でいささか小声で吠えた。「ファランクス」とは、歴史用語にしてゲーム用語でもあり、「重装歩兵」などと訳される。

 二人は目撃してしまったのである。槍と大盾を装備した五人組が、整然と横一列に並んで歩を進め、ついさっきの推定ゾンビの男性を、躊躇無く槍で貫く光景を……

 彼がもしコスプレした人間だったなら、殺人が行われたことになる。

 そして、手を下した五人組は、隆々とした筋肉こそが重装備とでも言わんばかりに上半身を露出した……人狼たちだったのである。

 素晴は、少年の姿をしている今も、頭半分ほど咲久弥よりも背が高い。人狼形態へと変身したならば、身長も体格もさらに一回り大きくなる。

 しかし、ファランクスもどきの人狼どもは、そんな素晴よりも一層の巨躯であることが明らかだった。

「なんだよあいつら、あからさまにオーバーキルじゃん!」

 素晴は憤慨して、またも小声で吠えた。

 被害者が本物のゾンビだった場合、槍に貫かれる以前に既に動き回るだけの死体だったのでは……というのは、彼にとっては論点とはならないらしい。

「まさか……私たちが隔離されていた間に、この世にはゾンビがうようよ生まれて、人狼がそれの退治を生業なりわいにしているとでもいうのかい?」

 咲久弥は、トモダチ計画により、人間社会の役に立つべく人工的に生み出された妖だ。かの人狼たちも、それに通じる存在かもしれないと考えてみたのだが……

 

 次の刹那、二人の体は吹っ飛ばされた。二人掛りで閉じて背中を預けていた扉が、呆気無く打ち破られたからだ。

 外にいた人狼の一人が、少年たちの存在に勘付いて、易々と遮蔽物を蹴破ったのだった。

 受け身を取り損ねて廊下に這いつくばった咲久弥が呻く。

 素晴は、彼を庇うように立ちはだかって、人狼形態に変化したのだった。

「見てくれ! 俺も人狼だ! あんたたちと同じだよ! こいつだって妖で、俺のバディなんだ!」

 槍と大盾を装備した人狼たちは、俊敏でもあった。みるみる五人で少年二人を包囲したのである。

「同じなものか! おまえは貧相だ!」

「ああ、臭い臭い。もう一匹も、妖臭いのは確かだが……」

 ファランクスもどきの人狼たちは、いきなり槍で突くことこそしなかったが、至って非友好的だった。

「この棟にいたということは、きみたちは、トモダチ計画の成果物かね?」

 その場に、新たな人狼が姿を現し、問い質したのである。彼は、姿形こそ五人組と全くと言って良いほど同じだったが、武装する代わりに白衣なぞ羽織っているのだった。加えて、あたかも研究者のような物言いである。

「そーだ!」

「その通りです」

 素晴は堂々と言い切ったし、咲久弥も、相手方を無駄に刺激せぬよう、あえて廊下に伏せたままで応じたのである。

 白衣の人狼は、値踏みするような目をした。

「いささか貧相なのは仕様だろう。彼らは、きみたちとは違って、民生用なのだから」

 その言葉からして、武装した人狼たちは、軍事用に製造されたというのだろうか?

 彼らは、素晴と咲久弥を嘲笑したが、白衣の人狼が片手を上げると、ピタリと沈黙して姿勢を正した。

「実は、トモダチ計画には、私の知る研究者も参加していたのだよ。

 どれ、きみたちが、今この世界で生き抜く力を備えているかどうか、検証させてもらうとしよう」

「イエス! マスター!」

 五人組の人狼は、異口同音に応答したのである。

「一號、きみは、そちらの人狼の少年を」

「はっ!」

 白衣のマスターは咲久弥のことを、そして、五人組の中で一號と呼ばれた人狼は、素晴のことを羽交締めにしたのである。

「二號から五號は、やつらを確保しておけ」

「はっ!」

 五人組は番号で呼称されているようだが、そこに疑問を抱く様子も無く指示に従う。

 しかし、少年たちは、疑問を抱くなと言われても無理だった。

「何をする気だ!」

 素晴は、自分ではなく咲久弥を捕えたマスターに吠え掛かったのである。

「すぐにわかる」

 マスターの返事は素っ気無い。

 咲久弥はバディに目配せした。私たちを殺すと決めたわけではないらしい。ひとまず大人しく従おうと……

 そして、従うしか無いというのが実情だった。

 咲久弥は元より、素晴ですら、もがくことさえままならず、マスターや一號との膂力の差を痛感しながら屋外に連れ出されることになったのである。


 中庭のように見えた場所は、実際、いくつかの建物の棟に囲まれていた。

 そして、少年二人は、雑草の生い茂る地面へと押さえ付けられた。

 そこへ、二號たち四名が、頭数を増やして戻ってきた。人狼たちは、唸り声を上げる二名のゾンビの身柄を確保していたのである。今度は槍で傷つけたりしないまま。

「今から二年ほど前、厄介な病原体が世界的に流行した」

 マスターは語り始めた。

「通称ゾンビウイルス。接触感染はもちろん、空気感染までする代物でね。人間たちは為す術も無く感染して、感染者は悉く知性を失った。国立研究所に所属するような学者でも例外ではなかった。

 ここから先は、もしきみたちがゾンビウイルスに耐えられるようであれば、話してやるとしよう」

 人狼たちに文字通り背中を押されるまま、ゾンビたちが咲久弥と素晴に顔を近づける。

 妙に黄ばんで濁った眼球が、言葉を失くした咲久弥と、語彙力を失くして喚き散らす素晴を、どちらも食料だと認識したらしかった。

 ゾンビたちは、乱杭歯を剥き出して、二人に襲い掛かったのである。


「当初の目的は、食糧危機への対策として、栄養豊富で長期保存が可能な食肉を生産することだった。

 やがて研究は実を結び……と言っても、うちではなくライバルの研究所においてだが……とあるウイルスが合成された。その人工ウイルスを、屠殺直前の家畜に感染させることによって、栄養価が高く常温での長期保存が可能な食肉を生み出すことに成功したのだ。

 その人工ウイルスは、人間には感染しないはずだった。しかし、ウイルスは突然変異した。今から約二年前のことだ。

 そして、世界は、ゾンビ化した人間で溢れ返った」

 白衣の人狼は、自身の研究室へと戻り、革張りの椅子に身を預けた。

「新型ウイルスのパンデミックが発生したせいで、トモダチ計画が一時中断されることになったと聞いた覚えがあります。それがその……ゾンビウイルスだったのですか?」

「その通りだ。きみはそれなりに聡いようだね」

 白衣のマスターは、咲久弥の問いを肯定して、少しばかり目を細めた。

 それは褒め言葉なのかもしれないが、咲久弥たちの待遇は、とても褒められたものではなかった。咲久弥と素晴は、元いた建物とは異なる棟へと連行され、マスターの研究室内に設置された檻に放り込まれた状態なのだ。

 ゾンビに噛み付かれるという痛恨の濃厚接触を強いられた後、二十四時間の観察が必要だからと、二人は檻に閉じ込められたのだ。

 二十四時間のうちに発症しなければ、ウイルスに対する耐性を持ち、ゾンビ化しないと判断されるのだという。

 咲久弥も素晴も、妖ゆえに治癒能力が高いため、ゾンビに噛まれた傷自体は、一時間ほど経過した今、既に塞がっているのだった。

「私は、妖が発症した例を把握していない。もちろん、私自身や部下たちについても耐性を確認済みだ。きみたちもおそらくは大丈夫だろうが、私には、あの部下たちを守り、納得させる責任があるのだ。

 私は、人間に成りすまし、山田一雄やまだかずおという名で、研究者として生きてきた。彼らは、私が造った私自身のクローンでね、情緒や思考回路については、軍事用に調節してあるのだ。ゾンビウイルスのパンデミックさえ無ければ、とっくに某軍事大国へと輸出され活躍しているはずだった」

 大きなビジネスとなるはずだったんだよ——と、マスターこと一雄は溜息を吐いた。

「この国立研究所が、地熱を活用した自家発電によって、現在に至るまで支えられていることに感謝したまえ。そして、その電力の安定供給を頼みに、トモダチ計画を中断しつつも、きみたちをここに預けてくれた、生みの親たる研究者たちにもだ。研究者たちのほとんどは、成果物のことなどそっちのけで、自身の発症を心配していた。

 結局のところ、心配したかどうかなどとは無関係に皆ゾンビ化してしまったがね、人間だったから」

 咲久弥の脳裏を、一雄の言う生みの親がよぎった。相変わらず彼女の顔も名も思い出すことはできなかったが。

「私が生みの親に感謝したら、それは彼女に届くでしょうか?」

「もう、無理だろうな」

 一雄の返事は、素っ気無かった。

「山田先生、ゾンビウイルスによって、人の世は滅びたのでしょうか?」

 咲久弥は、質問を変えてみた。

「知らんな。私は、この二年間、この研究所の敷地の外へ出たことが無いのだ。ここにいれば、電力も食料も井戸水も手に入るし、ここに残された最後の研究者としての責務も果たせるからね。

 ただ、この二年間、外部からの連絡も干渉も皆無だ。援助物資が届いたことも無ければ、核ミサイルが降ってきたことも一度も無いのだ」

 咲久弥は、一雄の返答を咀嚼した。

「人間が滅びたかどうかはともかく、ここを頼ったり、未感染の生き残りを探して支援するような人間は、現状、近隣には存在しない。一方で、パンデミックの混乱に乗じて世界の覇権を握ろうとするような野心家も存在しないらしい……ということでしょうか?」

「そんなところだな」

 一雄は、あっさりと肯定した。

「なー、オッサン! 食料が手に入るっつっても、コレのことかよ!」

 素晴は吠えた。咲久弥は、一雄から情報を引き出すため、一応の礼を尽くしていたが、彼にはそうした発想は無いらしい。

「そうだが」

 素晴の目の前には、大きな皿が置かれている。その皿には、緑青色の人体のパーツが、雑然と盛り付けられ、ピクピクと蠢いているのだ。てっぺんに飾り付けられた頭部の黄ばんだ眼球は、左右別々にギョロギョロと動き回っていた。

「ゾンビの肉を食べられないというなら、この世界では早晩、飢え死にする」

 一雄は、断言したのだった。

 先程、咲久弥と素晴を噛んだゾンビたちは、その直後、人狼たちにより適当に切り分けるだけという食肉処理を施されたうえで、檻の中の二人へと提供されたのである。

 そもそも、五人組が中庭で槍をふるってゾンビを仕留めたのも、軍事訓練を兼ねて食肉を得るための狩りだったのだという。

「おい、オッサン! ゾンビ肉の強烈な臭いで、俺の鼻を誤魔化してるつもりかもしれねーが、この部屋には、俺たちの他にも誰かいるだろ? 気配でわかんだよ!」

 素晴は、大皿のゾンビ肉から目を逸らしたうえで、またも一雄に吠え掛かった。

「彼女のことかね?」

 一雄は、革張りの椅子のすぐそばに掛けられていた、緞帳どんちょうのように上等な布を捲り上げた。すると、その向こうにも檻が存在して、その中に、スカートを履いて横座りした人影が垣間見えたのである。

「彼女は、この研究所の敷地内で最初にゾンビ化した人間だ。元は優秀な研究者だったが、やはりゾンビ化した途端に知性を失った。

 もはや研究には従事できんから、こうして、ゾンビ化した人間の余命についてのデータを提供してもらっているのだ」

 一雄は、「彼女はシャイだから」などと言って、さっさと緞帳を下ろしてしまった。

 しかし、彼女の服装が、中庭のボロを纏ったのみのゾンビたちとは段違いに整ったものであることは明らかだったし、彼女の左手に指輪が光っていたことも、咲久弥は見逃さなかったのである。

「山田先生、彼女は、トモダチ計画の研究者でしたか?」

「だったら、どうだというんだね?」

 咲久弥は、それ以上質問を重ねることはせず、代わりに、「いただきます」と、行儀良く手を合わせた。そして、自分の眼前の大皿から、蠢く肉片を一つ手にすると、おずおずと口を付けたのである。

「やっぱりだよ、素晴。あの干し肉と同じ味と香りだ」

 翡翠色の瞳から、涙が零れ落ちた。咲久弥は、素晴が倉庫で見付けてくれて、二人して舌鼓を打ったあの肉のことを言っているのだ。

 鼻が利く素晴は、おそらく咲久弥よりも先にその真実に勘付いていたのだろう。咲久弥の覚悟を見届けて、彼もまた「いただきます」と手を合わせたのだった。

「干し肉? ああ、あれなら、家畜のゾンビ肉だ。変異前のウイルスを家畜に感染させて生産したものを、未だ食糧危機の救世主気取りだったウイルスの開発者たちが、ドヤ顔で送って寄越したんだよ。どうにも腹立たしくて食う気にもなれず備蓄倉庫に放り込んだんだが……きみたちの役に立ったのなら、せめてもの救いだな。

 しかし、時は流れ、ウイルスは変異した。

 今この世界で食料を入手するには、人間のゾンビを狩ることを避けては通れないのだよ」

 少年たちの食事を見守りながら、一雄は、どこか厳かに言い聞かせたのだった。


「あの民生用の人狼と戦ってみたい」

 一號が言った。

「私は……私たちは、戦いに飢えている。シミュレーションを除けば、易々と狩れるゾンビどもしか相手にしたことが無いからだ。これでは、なんのために製造されたのかわからないではないか!」

 研究室から出て来たマスターを、部下の人狼たちが呼び止めた。そして、一號が代表者として切々と訴えたのだ。

 いかにも軍事用のクローンらしい言い分ではあった。彼らは本来なら、紛争地帯の最前線に送り込まれていたはずなのだ。

「ゾンビよりも強い敵との実戦を経験したいというのだな?」

「イエス! マスター!」

 マスターの問い掛けに、一同は異口同音に応じた。

「わかった。ちょうど明日は、きみたちが楽しみにしていただ。

 明日、きみたちは、祭で腹を満たした後、戦いの餓えも満たすことになるだろう。ゾンビとは比べ物にならないほど強い敵と戦わせてやる。マスターたる私が今ここに約束しよう!」

 マスターの力強い宣言に、部下たちは色めき立ったのだった。


「きみたちに会わせたい人がいる」

 一雄は、咲久弥と素晴の食事が一段落した頃合いに、研究室へと戻って来た。

 しかし、その物言いに、咲久弥は違和感を覚えたのである。

「人? ゾンビではないのですか?」

「百聞は一見に如かずと言うだろう。案内しよう」

 一雄は、二人を檻から出してくれたが、「まだ二十四時間たったわけではない。部下たちの目もあるのでね」と、頑丈な手錠を掛けたのである。

「国立研究所って、檻だの手錠だのを完備した場所だったんだなー。俺が生まれた研究所ラボは、そんなことなかった気がするけど……」

 素晴は、逆らわないまでも、ぐちぐちと零したのだった。


 二人が案内された部屋は、言わば寝室だった。

 そこには、彼らが隔離されていたシミュレータを思わせるカプセルがずらりと並んでいた。全部で十六基が、真上から見れば、八弁の花が二輪咲いているように並べられていたのである。

 そして、各々のカプセルに一人ずつ、咲久弥や素晴と肉体的に同年代であろう少年少女が眠っているのだった。

「彼らは皆人間で、ここの研究者に縁のある子供たちだ。こうしてカプセルで眠り続ける限りはゾンビウイルスから守られるが、現状、眠り続けるしか手立てが無いのだよ。

 貴重な成果物であるきみたちにとっては心外かもしれないが、成果物よりも我が子を守りたいと思った研究者は、少なくともこのカプセルの数だけいたというわけだ。

 私や部下たちが、墓守りか引きこもりであるかのようにこの研究所から動かなかったのは、実は、この子たちの眠りを見守るためなんだ。

 そして私は、抗ウイルス薬を開発すべく、日夜研究を続けているのだ。いつかはこの子たちが、カプセルの外でも、ゾンビ化することなく生きてゆけるようにとね」

 翡翠色の瞳が輝いた。咲久弥の頬も上気する。

「山田先生、何か、私にお手伝いできることはありませんか?」

「いや……もちろん、その気持ちは嬉しいが……」

 一雄は言い淀んで考え込む。

「なんでもいいのです! 今、眠る彼らを見て実感しているのです。私は、人間のために役立つべく製造された民生用の妖なのだと」


 咲久弥は、素晴ともども檻に戻された後も、どこか夢見心地だった。

「楽しそうだな」

「ああ、楽しくなりそうだなと思ってる。私は、あの子たちが目を覚まして笑っているところを見てみたいんだ」

 素晴は、くすりと笑った。

「なんか、おまえらしいよ。おまえ、高校のダンスバトルに出場した時にも、『みんなの喜ぶ顔が見てみたい』とか言ってたもんなー」

「そうなのかい? そこらへんのことは、まだ思い出せないな。

 そうだね、私は高校生に過ぎないし、高校のことすら記憶が曖昧だ。山田先生の研究のお手伝いなんて難しいかもしれないが、雑用でもなんでも……」

「なあ、咲久弥……なんかおかしいとは思わねーか?」

 素晴は、おずおずと割り込んだ。

「オッサンは、なんでこのタイミングで、俺たちにあの部屋を見せたんだろうな。

 それに、研究者ってえのは、一斉に子供を作るものなのか? カプセルに眠ってるやつらって、みーんな、十五才くらいに見えたぞ。

 あと……これは説明するのが難しい感覚なんだけど……カプセルのやつらからは、がしなかった。俺がちょっとだけ先に目を覚まして、おまえのシミュレータを覗いた時に感じたような、みてーなもんが、ちっとも伝わってこなかったんだよ……」

 翡翠色の瞳は、不思議そうに瞬いた。

「素晴は、意外に詩人だねえ。いや、意外というのは悪かったよ、許しておくれ!」

 二人は、暫し檻の中でじゃれ合った。

「これは私の考えだけど、先生があの部屋を見せてくれたのは、私たちが、ゾンビ肉を食べてでも生きる決意を固めたからではないかな。私に至っては、それを生みの親の前で示したわけだからね」

 咲久弥は、研究室の一画を覆う緞帳のほうを見遣った。

「そうなのか?」

「ああ、確証は無いんだが、私という成果物を預けるべくこの研究所を訪れて……発症してしまったんじゃないのかな、彼女は」

 緞帳の向こうに匿われているゾンビの女性は、今は静かだった。知性を失ったはずの彼女だが、咲久弥の言葉を静かに聞いてくれているのかもしれないと思えた。

「それに、カプセルに眠る子供たちがみんな十五才くらいに見えるというのは、私は、希望者が数多くいたせいで、基準を設けて選抜せざるを得なかったんじゃないかと思ってる。例えば、年齢、学力、健康状態なんかで篩に掛けざるを得なかったんじゃないだろうか……」

 なるほど、それなりに筋が通る……素晴は、顎に指を当てた。

 一方で、咲久弥は小首を傾げた。

「けれど私には、寂しさの臭いのことはわからないんだよ、すまないね」

 その刹那、不意に室内の照明が落ちた。

「あれ? 停電か?」

「先生は、自家発電だと言ってたけど……」

 しかし、程無く照明は回復したため、その話はそれっきりとなった。


「すまんが、力を貸してくれ。緊急事態なんだ!」

 咲久弥と素晴が、一雄の声と檻を開ける音に目を覚ましたのは、真夜中のことだった。

 こんな寝床は一晩限りでたくさんだなどと悪態をつきつつ、二人は身を寄せ合って眠りに落ちていたのである。

「あの眠れる子供たちが、カプセルはおろか部屋の外へと出てしまった! 一秒でも早く連れ戻さなければ、ゾンビウイルスに空気感染してしまうだろう。自家発電の不調がシステムの誤作動を招いたか……」

 眠れる子供たちの様子や、その後の照明の不具合を思い出して、翡翠と晴天の瞳は、たちまち冴え渡ったのだった。

「オッサン、他の人狼は?」

 素晴が尋ねたのは、三人で駆け出した後でだ。

「部下たちは折悪しく定期メンテナンス中で、使えない。きみたちにしか頼めないんだ!」

 一雄によると、謎めいた不具合により、八基のカプセルの蓋が開き、中の子供たちが室外にまで出てしまったというのだ。言わば、八弁の花が二輪咲いていたうち、一輪の花弁がすっかり舞い散って行方不明というわけだ。


 一度訪れたその部屋の前には、髪の長い一人の少女がいた。彼女は、壁にもたれるようにして、廊下に座り込んでいた。

「風刃!」

 咲久弥が妖術の風を放ったのは、もう一つの緑青色の人影が、少女と向かい合っていたからだった。

 そして、その風を追い抜くかのように、漆黒の狼と化した素晴が疾走する。

 ゾンビは、狼の体当たりとかまいたちの直撃を受けて、少女のそばから吹っ飛ばされたのである。

 ゾンビの体とともに、肉色のリボンが宙を舞った。

 ゾンビは、既に少女を襲い、その腹を食い破りはらわたを咥えていたのである。

 少女の髪よりも長い肉色のリボンが落下した場所で、漆黒の狼は、迷わずゾンビの首を食い千切ったのだった。

「どうしてゾンビが建物の中に!」

 翡翠色の瞳が、一雄を振り仰いだ。

「わからん……研究室の彼女以外は、屋内にゾンビはいないはずなんだが、建物の出入り口にも不具合が発生したのかもしれない……」

 漆黒の狼は、血塗れの足跡が、すぐそばの階段を降りていることを発見した。少女の流した血は、仲間の行先を素晴たちに教えてくれたのである。

「オッサン、この階段の先は?」

「元々は地下駐車場で……今は倉庫のようなものだ」

 漆黒の狼は、バディに駆け寄った。

「咲久弥! 既に八人は助かってんだよ! そんで、あと七人助けられるかもしれねーんだ! どうする?」

「後で……後でたんと悲しませておくれ」

 咲久弥は、目元をぐいっと拭うと、少女の元から立ち上がったのだった。

「先に行ってくれないか。私は、可及的速やかに後始末を済ませ次第、追う」

 一雄の言葉に、少年たちは頷いた。

 素晴が首を落としたゾンビは、未だ手足をバタつかせている。内臓を食われた少女もまた、未だ事切れてはいるが、放置すればゾンビウイルスの作用でまた動き出すことになるだろう。

 後始末が必要なのだ。それは、食肉処理とさして変わらない。


「ゾンビ臭え……これは、下にもいやがるぞ」

 素晴は、階段を降りるには四足は不向きだからと、人狼形態に変化した。

 ゾンビがいるということは、その強烈な臭気ゆえ、人間の子供を臭いで捜すことは難しそうだ。しかし、たとえ襲われずとも、ゾンビと同一の空間で過ごす時間が長引くほど、空気感染のリスクも上がるのだから、一秒でも早く救助せねばならないのである。

「死角が多いな」

 素晴は、舌打ちした。

 地下駐車場は広々としていたが、倉庫と化した今となっては、あちこちにうずたかく荷物の箱が積まれているのだ。

 血の足跡も、階段を降り切る頃には、掠れたようになって消えていた。

 二人は頷き合い、姿形が人間と変わらず服も着ている咲久弥が前に出た。

「私は、山田一雄先生の助手だ! 皆を捜しに来たんだ! 出て来ておくれ!」

 身分詐称も方便とばかりに呼び掛けたのである。

 すると、荷物の山の陰から、少年が一人、横顔を覗かせた。

「もう大丈夫だぞ!」

 脚力に勝る素晴は、早速少年の元へと駆け寄り……息を呑んだ。

 最初に見た少年の横顔は、間違い無く人間のものだった。しかし、彼の腕には噛み傷があり、そこから広がる緑青色が、彼のもう半面を覆いつつあったのである。

「ゴメンな……もっと早くに来られなくて……でも、なるべく苦しませないようにするから……」

 素晴は、明らかにゾンビ化しつつあるその少年を、活動停止へと追い込まねばならない。しかし、一旦人間の姿へと戻って、そう言葉を掛けずにはいられなかった。

 次の刹那、素晴の後ろで、咲久弥もまた息を呑むことになった。

 突然、左肩に灼熱のごとき激痛が走ったのだ。彼の背後に忍び寄った人狼により、槍で一突きにされたのである。

「おまえは邪魔だ」

 人狼は、串刺しにした咲久弥を、力任せに遠くへ投げ捨てたのだった。

「咲久弥!」

 そう叫んだ頃には、素晴は、武装した人狼たちに包囲されていたのである。

「おまえの行動は、非効率的だ」

「我々と似ているが決定的に異なる。故に、おまえを排除する」

「私たちに戦闘データを提供するのだ!」

 定期メンテナンス中のはずの人狼たちに待ち伏せされていた——そのことだけでも、自分たちが嵌められたのだと理解するには充分だった。しかし、彼らの中では筋が通っているらしいそれらの要求は、素晴にはとても呑めるものではない。

「素晴……」

 手荒に遠ざけられた咲久弥は、血を流しながら、視界がブラックアウトしてゆくのを感じていた。


「ねね……のの?」

 程無く落ちた真っ暗闇の中で、咲久弥の前に、二つの小さな人影が浮かび上がった。

 それは、猿楽一座で苦楽をともにしていた、双子の幼女だった。

 ねねとののは、静かに咲久弥の首元を指差したのである。

 首に触れた咲久弥は驚いた。そこには、勾玉や管玉を連ねたあの首飾りが存在していたからだ。

「何をするんだい、おまえたち!?」

 ねねとののは、せっかくの首飾りにやおら手を掛けたかと思うと、呆気無く引き千切ってしまったのだ。

 暗闇に天の川を掛けるように、勾玉も管玉も飛散してしまった……

「勾玉、みっけー」

 ねねの声がした。

 咲久弥は、いつしか地下駐車場を俯瞰していた。そして、飛び散った勾玉を目で追えば、その先には、掛け替えの無い素晴と、未だ無事な子供たちの姿があった。

「管玉、こっちー」

 今度は、ののに導かれ、管玉の行方を追うことで、武装した人狼や彷徨うゾンビたちの位置を捕捉したのである。

「私は、私らしくやらせてもらうよ!」

 咲久弥は、両手を掲げて、片方の爪先を闇に浸して、優雅に舞ったのである。

「死者のごとく眠りこけるがいい!——風葬ふうそう乱舞蜘蛛陣らんぶちちゅうじん!」

 咲久弥には、どうしても救いたい者がいるのだ。強靭な人狼や厄介なゾンビを倒そうと躍起になるより、むしろまとめて自由を奪ってやる!

 舞踊る少年の額からは、いつしか一対の朱色の角が生えていた。


「咲久弥なのか!?」

 素晴は驚いた。咲久弥が遠ざけられた方向から、しなやかな旋風が次々と吹き寄せて、武装した人狼たちに纏わり付いたからである。

 屈強な人狼たちは、大盾で風を防ごうとしても無駄だった。まるで、蜘蛛の巣に囚われたか細い羽虫であるかのように、暫しもがくも次々と昏倒したのである。どうにも場違いな高鼾をかき始める者までいた。

 それでいて、人狼たちに取り囲まれた素晴は、台風の目のごとき無風状態の結界に守られており、無事だった。


「よくやりましたね、咲久弥」

「……お頭?」

 朱色の二本角を生やした少年の前に、今度は、一座の頭目たる白拍子が姿を現した。

「私は、あなたを生み出した研究者です。けれどこれからは、あなたにとって馴染みのあるこの姿を取ることにしましょう。

 あなたたち民生用のクローンは、人間社会で搾取されるために生み出されました。そもそも妖には、基本的人権など存在しませんからね」

「お頭、えげつないことをお言いですね……」

 一座の頭目は、でんと構えて、カラカラと笑ったのである。

「けれど、人間は呆気無く衰退しました。

 咲久弥、これから先はどうか、風の吹くまま、気の向くままに生きてちょうだい。あなたは、人間に近い情緒と風を操る力を持つ、風鬼ふうきという妖の遺伝子をベースに生み出されました。我が最愛にして最高の成果物なのですよ」

 お頭の言葉は力強かったが、その姿は陽炎のごとく揺らめき始めた。

「お頭!」

「咲久弥、私たち一座は、あなたに内在化された教育用プログラムなのです。あなたが必要としてくれたなら、また会うこともできるでしょう。

 だから……今は、バディの元へと帰ってあげなさい」


「きみたち、小賢しい真似をしてくれたな。戦いは祭の後だと言ったろう」

 マスターが地下駐車場に現れた時、一號は既に目覚めていた。しかし、未だ平衡感覚を取り戻せず立ち上がれずににいたのである。他の人狼たちも似たようなものだった。

 ゾンビはゾンビで、まるで頭部を切除されたかのように、床に倒れて不器用に手足をバタつかせていた。

 一方で、六人の子供たちが無事だった。

 そして、咲久弥と素晴は、既に姿を消していたのである。

「私はもう食事を済ませてきたが、きみたちが祭のご馳走を食い終えるまでは待ってやろう。その後、この私がきみたちの戦いの相手をしてやるとしよう。

 約束したろう、ゾンビとは比べ物にならないほど強い敵と戦わせてやると!」

「イエス! マスター!」

 一號は応じた。

「光栄であります! 私は常々感じていました。一雄と一號、を冠する者は、二人も必要無いのではと!」


 国立研究所を後にして、素晴は、手負いの咲久弥を背負って、随分と遠くまで歩いてくれた。そして、太陽が昇り切った頃、川辺に空家を見付けて、そこに暫く二人で暮らすことにしたのである。

「これ、オッサンから渡された手紙なんだけどさー、おまえも読むか?

 あのオッサン、自分で部下たちを引き付けておいて、俺たちを逃がしてくれたらしいけど……他にも色々と書いてあるぜー」

 咲久弥は、河原に腰掛けて、素晴から受け取った手紙を広げたのだった。


『やあ、私の芝居はどうだったかね? 私は、長らく人間に成りすまして生きてきただけに、演技には自信があったのだよ。

 きみたちにはただ、研究所の現状に触れて、愛想を尽かして出て行ってもらえればそれで良かった。ただ、風鬼は情緒の浮沈を切っ掛けに大掛かりな妖術を発動すると、美道理みどりから聞いていたもので、それを見てみたいがために、随分と嘘を重ねてしまった。そして、部下たちが私の筋書きを勝手にアレンジしたことも、謝っておいたほうがいいだろうな。

 私の部下たちは軍事用だ。自分たちと異なる者を排除することに疑問を持たないし、ゾンビ化などしていない人肉が大好物なのだ。私が彼らをそう調節した。戦場で生きることが辛くないようにと。

 私は、ゾンビウイルスのパンデミックが起きてからこの二年、月に一度、祭と称して人肉を給餌することによって、部下たちを研究所内に留めてきた。彼らを戦場以外の世界に解き放つ気にはなれなかったのでね。

 そう、あの眠れる子供たちは、一ヶ月ごとに促成栽培される食肉に過ぎないのだ。パンデミック前には、臓器移植用のクローンとして、我が研究所の主力商品だったんだがね。

 大切に託された研究者の子供たちなんて、最初から存在しなかったのだ。

 私は、抗ウイルス薬の開発もとっくに諦めている。美道理の脳が既に不可逆的に萎縮していると知った時から、そんなものは、私にとって無用の長物でしかないのだから。

 美道理は、学生時代から、際立って聡明なばかりか、アイドルのように華のある女性だった。彼女が、私の正体を知りながら、婚約指輪を受け取ってくれた時には、生まれてきても良かったのだと有頂天になったよ。しかし、それはゾンビウイルスの初期症状だったのかもしれない。私のプロポーズ受けてくれたその日のうちに、彼女はゾンビと化したのだから。

 そんな美道理も、手塩に掛けた咲久弥くんの覚醒を見届けて、すっかり満足したかのようだったから不思議なものだ。私はついに、彼女と永遠に一つとなることを選んだ。

 私は、夢を見ている。美道理の成果物と人狼が互いに助け合い、二人してこのディストピアを生き抜くという夢を』


「何を勝手なことを……」

 咲久弥が手紙から顔を上げると、そこには素晴が立っていた。

「本日も晴天だね、脳天気なまでに」

「なんで、俺の顔見て言うんだよー」

 素晴は、口を尖らせながらも、咲久弥の隣りに腰を下ろした。

「なあ咲久弥、その角って生やしっぱなしなのか? これから先、おまえの頭突きがちょっと怖いんだけど」

 咲久弥の額、髪の生え際の辺りに、一対の朱色の角は今も在った。

「これはどうやら、触角のようなものらしくて、生やしたほうが風のコントロールもしやすい。

 けれどほら、念じれば引っ込めることもできるよ、この通りだ」

「おー! 俺の尻尾と同じだな!」

 裸族の少年は、咲久弥に背を向けると、しゅるり、またしゅるりと、黒い尻尾を引っ込めたり、また出したりしてみせたのである。

「素晴……一つ訊くが、人の姿でも尻尾を出したままの理由は、なんなんだい?」

「出しっぱなしのほうが、心が落ち着くのさー!」

 咲久弥は、うっかりくずおれそうになった。

「ありがとうよ、素晴。お陰で、難しいことを考え込む気力が、いっぺんに失せたよ」

 すると素晴は、嬉しそうに黒い尻尾を振りたくったのだった。

「素晴……おまえは、おっかない狼というよりは、とても頼りになる、愛すべき犬のようだね。けれど、私はましら拍子ななわけだから……残念ながら、犬猿の仲ということになる」

「おーよ!」

 素晴が、白い歯を見せて、また尻尾を振ったものだから、咲久弥の心に疑念が湧いた。

「素晴……おまえ、国語の成績、悪かったろう?」

「な、な、なんでわかったーっ!?」

 そりゃあもう、咲久弥の期待したツッコミが、これっぽっちも返ってこなかったからである。

 その時、とある臭気に誘われ、翡翠色と晴天色の瞳が、同じ方向を見たのである。

 二人が空家を見付けた時、残念なことに、挨拶すべき近隣の住民など、誰一人存在しなかった。

 しかし、ゾンビなら時折り通りすがるのだ。

 少年たちは、目配せした。

 いくら考えても、わからないものはわからない。自分たちにできることをするしか無いのだ。どうしたって腹は減るのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

風と牙とディストピア 如月姫蝶 @k-kiss

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説