名もなき空の下

チェシャ猫亭

第1話 鳥にしあらねば

「会えてよかったね」

 妻の凪子なぎこの口調は、うきうきしているように聞こえる。

「うん」

 渡会冬馬わたらいとうまの心中は複雑だった。

 二人は今しがた外出から戻った。

 午後二時、幼稚園が終わる時刻。

「じゃ、美咲みさきを迎えに行ってくるね」

「うん」

 凪子は鼻歌を歌いながらリビングを出ていった。


 やっと一人きりになれた。

 冬馬は、ふーっと息をつく。

 まだ動揺している。

 先ほど五年ぶりに再会したひかるの姿が声が、頭から離れない。

 初対面の時「千明ちぎら」という姓が読めなかった。

 光から直接、読み方を聞いて、千に明るい、名前は光だなんて、この子にぴったりすぎる、と思った。

 底抜けに明るくて周囲を和ませる愛されキャラ。


 二人の前から光が姿を消して五年。

 探して会うべきだ、と凪子は積極的だった。中学が光と同じで、学区内には共通の友人が多い、事あるごとに凪子は、光を見かけたら教えて、と彼らに声をかけていた。

 先月、実家の傍で見かけたと聞いて確認すると、確かに光は実家に戻っていた。

「やっと会えるね」

「うん」

 凪子はほっとした声で言ったが、冬馬は当日になっても心の準備ができずにいた。


 待ち合わせは、光の実家方面のカフェ。

 緊張の極限で待っていると、光がふらっと店に入ってきた。

 ブルーグレイの長袖Tシャツ。一瞬にしてあの日の記憶がよみがえり、冬馬は震えた。

 自分と会うからか。それともただの偶然か。

 凪子が知るはずもない、二人だけの秘密の色。

「ひさしぶり。よく来てくれたね」

 凪子がさらっと声をかける。

「うん。ひさしぶり」

 光の笑顔が胸に刺さる。

 何か言わなければ、と冬馬は焦った。

 光は凪子と同い年だ、もう二十六になったのか。

 あの頃の無邪気さは消え、翳りを帯びた横顔。

 俺のせいだよな、俺の。

「ごめん」

 伏し目がちに、やっとそれだけ言うと、

「謝るなよ」

 いたずらっぽく光は笑った。

「本当は、ずっと三人で」

 と光が言い、凪子が、

「うん、私も」

 それから何を話したのだろう、冬馬には全く記憶がない。


 冬馬 冬馬 冬馬


 光の声が聞こえる。

 たまらなくなって、冬馬は箪笥の引き出しを開けた。底にしまいこんだブルーグレイのTシャツを取り出す。ほとんど着ていないそれは、まだ新品に近い。

 手に取り、広げてみる。

 光の笑顔が、また浮かぶ。


 冬馬 冬馬 冬馬


 出会った頃の光の声。

 冬馬に駆け寄り、熱い体を押し付ける。

 生まれてはじめて、本気で愛した相手。

 ずっと一緒に生きていこうと誓ったのに、どうしてこんなことに。

 シャツに顔を押し当てて、冬馬は泣いた。


 土曜の午後。

 近くの川べりを親子三人で散歩した。

 晩春の空はどこまでも高く澄んで、見知らぬ鳥が飛んでいる。

「とりさんが、いるよ」

 美咲に教えてやると。

「どこ?」

 きょろきょろするのを、

「あそこ」

 と指をさす。

「とりさん、いたー」

 喜んで飛び跳ねる美咲は五歳。

 可愛く成長した娘が、冬馬は愛しくてならない。

 だが、この子ができたばかりに。

 誰のせいでもないよ、と、先日、光は言ってくれたけれど。

 凪子と美咲が手をつなぐ。

「パパもー」

 せがまれて、美咲を真ん中に三人で歩く。

 はたから見れば、絵に描いたようなハッピーファミリー。

 冬馬は二十八歳、凪子は二十六歳。

 俺、まだそんなに若かったんだな。

 涙が出そうになり、空を見上げる。


 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば


 そんな和歌があった、とふと思い出す。

 嫌だなあと思いながらも、飛び去ることはできない、鳥ではないのだから。

 

 もし俺が鳥だったら。

 何もかも投げ捨てて、光の傍に飛んでいきたい、そんな夢想さえ許されないのか。

 怒りがこみあげ、手に力が入る。

「パパ、いたいよ」

 美咲が冬馬の顔を見上げる、つないだ手の力が強すぎた。

「ごめんごめん」

 小さくやわらかく少し汗ばんだ手。

 俺は、この子を守っていかなければならない。

 自分は父であり夫であり、ただの人間だ、鳥にはなれない。

 見上げる空は、悲しくなるほどに青かった。



【あとがき】


 本当にしつこいのですが「誰かの罪、誰かの嘘」に引き続き、本作もアマプラの配信ドラマ「モアザンワーズ」関連。今度はラストのその後がメインとなります。

 納得できない展開とラストに、自分で話を書かずにはいられなくなりました。


 ドラマ未見の方にはネタバレになりますが、この第1話は、ドラマの最終話の一部を私なりに文章にしました。

 ドラマでは冬馬に当たるのが永慈、光は槙雄。凪子は美枝子です。

 再会で槙雄が着ていたTシャツは、確かに永慈との思い出のシャツと同じ色に思えました。そのこともあって、永慈がシャツを取り出し泣くのだと思います。きっと槙雄は「あの時と同じ色のシャツを着てきたよ」と言いたかったはず。

 そしてこの日、永慈が着ていたのは。白いシャツに黒のベスト、なんでベストまで、美枝子は肘までのブラウスだし、と違和感があったのですが。今になって思い至りました、あれは弔いの服なんだ。

 白と黒。自分を弔うのか、槙雄との恋を葬るためなのか不明ですが。

 ここは映像の勝利ですね、何も言及しなくても色で分からせる。ブルーグレイのシャツ、永慈のモノトーンの服装に気づいた者にだけ理解できることですが。

 ドラマでは永慈の登場はここが最後です。


 ラストで手をつなぐのは、永慈たちの娘と槙雄と美枝子です。

 子供に会いたい、と槙雄が訪ねてくるんですが、この展開もイヤ。そんな簡単にスッキリ終わらせないで、永慈はまだまだ過去を引きずってるよ。


 というわけで、次回からはオリジナル多めです、よろしかったら引き続きお付き合いください。

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