第6話 目撃者

 叫びが病室にこだました。

 その叫びは、病室を飛び出し廊下、下階、上階という垣根を超えて外にまで響く程であった。

 日中の暖かな日差しに散歩を行っていた患者は突然のことに周囲を見回し、家族連れでお見舞いに訪れていた子供は母親にしがみついて怯え、病院の施設警備員は事態の把握を務めようとした。

 その病室のベッドにて、女性は喉が裂けんばかりに声を上げ唾液を垂れ流していた。視点の定まらない見開いた目、病衣を自分で引き裂き手足をばたつかせているさまは、深淵の底に引きずり込まれているかのようであった。

 公恵は、ベッドから転がり落ちそうになる患者に駆け寄ると、腕と胸を押さえつけた。

「鎮静剤の準備を!」

 公恵は、若い看護師・田辺里香たなべりかに言った。

「は、はい」

 里香は動揺した返事をすると、すぐに注射器とアンプルの準備にかかった。

「お父さん、お母さんは、娘さんを押さえるのを手伝ってください」

 公恵は娘のあまりの姿に呆然と立ち尽くしている両親に言う。両親は、戸惑い遅れて暴れる娘の手足を押さえつけた。

「大丈夫だからね。落ち着いて」

 母親は必死に娘の身体を押さえた。

 娘は大きく見開いた眼を周囲に巡らせ、髪を振り乱した。

 血迷い、気が触れたように。

 女性とは言え、か細い身体からは信じられない程の力であり、公恵と両親の三人で押さえるのがやっとだ。

「先生。準備できました」

 公恵は、里香の用意した注射器を手にする。

「代わって」

 患者を抑えるのを里香と代わると、公恵は患者の腕に静脈に針を刺した。鎮静剤が患者の血管に静かに、ゆっくりと流れた。

 10秒……。

 30秒…………。

 50秒………………。

 70秒……………………。

 時と共に、先程の常軌を逸した姿を見せたのがウソだったかのように、落ち着いて行くのが見て取れた。

 患者の表情に疲れた痕跡こそあったが、様子だけは穏やかである。

「これで、しばらくは落ち着くと思います」

 公恵が言うと、娘の父は疲れたように泣いた。家族が、ましてや娘の苦しむ姿に耐えがたい苦しみを感じているのだ。

 あの夜、公恵が介抱した女性・志水洋美しみずひろみが入院して、今日で9日。

 ICU(集中治療室)を出て、一般病棟に移ったのが昨日であったが、容態は喜ばしいとは言えなかった。背中の傷による命の危機は峠を越えてはいたが、精神には外科手術では治療できない深い傷が残っていた。

 無理もないだろう、女性があれだけの傷を受けるだけの恐怖とは、どれほどのものだったのだろう。

 考えてみても。

 想像してみても。

 親身になってみても。

 どうやっても、女性の心に受けた傷の深さを同じ立場になって、本当の意味で理解してやれなかった。それは公恵だけでなく、娘の両親も含めてだ。

 生物は、食う食われるの関係をたどっていくと、ある一定の場所の生物間に一つの鎖状の関係性を見出すことができる。これを一繋がりの鎖として取り出した時、食物連鎖と呼ぶ。

 その相関図はピラミッド型の図形を用いて表される。下位に居る生物は自らより上位の生物に喰われ、その生物もまた上位の生物に喰われる。この弱肉強食という自然界の《掟》は、善でも悪でもなく自然が作り上げた重要なバランスである。

 捕食者、天敵。

 生物にとって、これほど直接的な恐怖の対象となるものはない。

 ならば人間はどうだろう。

 往々にして人間が動物に襲われる事件はあるが、人間を食糧として常食する生物が居ない以上、人間が食物連鎖の頂点に位置しているといえるかと言えば、否である。人間は《自然》での生活を捨て、自らが作り上げた《文明》という社会でのみ、強者として君臨している特異な生物なのだ。

 仮に人間に《敵》という生物をあてはめるなら、それは同じ人間と言える。食欲、金銭欲、物欲、色欲、権利欲、名誉欲、睡眠欲など人間は数えきれないほどの欲を持ち、それらを満たすために、人間は人間の敵となる。

 その最たる攻撃が殺人だ。

 被害者は、目が合い、襲われ、殺される。

 心臓は破裂せんばかりに拍動し、呼吸が苦しくなり、冷汗で全身が濡れ、毛穴が絞られ鳥肌が立つ。

 恐怖を感じる大脳辺縁系がダイレクトに壊死し始める殺人の恐怖。心拍数、血圧、呼吸数、体温の上昇、発汗恐怖が引き起こす生理的反応。

 あの夜、公恵は日本刀を手にした青年に、それに似たものを感じた。幸いにも被害を受けることは無かったが、本当に《死》を感じた出来事であった。

 この患者の場合は背を斬られ、追われる恐怖を身に受けたのだ。痛みも苦しみも、本人しか知り得ない。

 志水洋美の意識はある。

 だが、こちらの受け答えができる状態ではなかった。

 最も親しい両親の呼びかけはおろか、第三者である医師の問いかけにも答えることもなく、ただ天井を見上げていた。生気のない瞳で。

 口にする言葉と言えば、

「嫌、嫌、嫌……」

 と、拒否する言葉ばかりであった。

 志水洋美が錯乱したのは、今回で二度目だった。

 一度目は、一般病棟に移っての深夜。

 巡回中の看護師が悲鳴を聞いての発見だった。

 そして、二度目は担当医である公恵が、志水洋美の両親に状態を説明していた時であった。看護師から緊急の呼び出しを受けて、今回の事態に至ったのだ。

 一命を取り留めた時には、どんなに良かったと思ったことか。公恵は自分の手で尊い命の一つを救うことのできたことを医師の使命を果たせたと思ったが、今は歯がゆさを感じずには居られなかった。

 これからは、精神科の医師との協議も必要だと考えた。

 公恵は病室の外に、人影を見た。誰かは分かっていた。下着や乳房をさらした洋美の姿に、公恵は同じ女性として放置してはおけなかった。

「田辺さん。志水さんを着替えさせてあげて」

 公恵は里香に囁くと、廊下に目を向けた。

「私は、外にいるのを追っ払って来るから」

 公恵のイラつくような口調に、里香は怖いものを感じつつ返事をした。

「あ、はい……」

 里香に患者のことを頼むと、公恵は病室を後にした。その姿を里香は訝しげに見送った。

 廊下に出た公恵は、無力な自分に額を押さえた。

 溜息が自然と漏れる。

 二つの影が、差したのに気づき顔を上げた公恵は、不機嫌になった。

 いや、不機嫌なのは前からだ。公恵は自身が、今どのような顔をしているのか鏡を見なくても理解できた。

「何の御用ですか」

 公恵の言葉は丁寧そのものであったが、口調と気持ちには人を拒絶するトゲがあった。

 中年に、若い男の二人が居た。少しくたびれているが、なりの良いスーツを着た連中だ。

「先日は、どうも」

 中年の男は、精一杯の作り笑いで言った。

 公恵は言葉を返さなかった。

「……ここでは迷惑になりますから、外へ行きましょう」

 白衣のポケットに手を入れると、公恵は外へと歩き出した。

 二人の男は、少しして公恵の後に続いた。

 一番近い通用口から外に出ると、続く二人の男を待った。

 靴音が止んた。公恵は振り返ると、刑事達に言った。

「私がご連絡したのは、昏睡状態だった患者の意識が戻っただけと申し上げたはずです。でも、今は面会謝絶です」

「ですが、我々警察としても被害者から事情を訊かないことには今回の通り魔事件の概要を知ることもできませんので」

 若い男、豊田明彦とよだあきひこ・巡査は、理由を述べた。

「今、患者は心に大きな傷を負っている状態であり。事情聴取など、もってのほかです」

 公恵は、自分が受けた苦い経験が過ぎった。あたかも自分が犯人であるかのように値踏みされたのだ。同様とはいかなくても、根掘り葉掘り訊いてくることは間違いない。

「せめて、二、三質問をさせて頂くだけでも」

 明彦の言葉は、公恵の癇にさわった。

「あなたは患者の容態を見ていないから、そう言えるんです。一命を取り留めたというのに、うわ言を繰り返し何かに脅えているんですよ。そこに事件のことを根掘り葉掘り訊くことで、事件の記憶をより鮮明に思い出したらどうなると思います!」

 公恵は、言葉を切って冷静に努めた。

「……ご自身の親や兄弟。あるいは恋人であっても。あなたは、そんな残酷なことができるんですか」

 公恵の人道的な言葉に、明彦は返す言葉がなかった。

「……いや。申し訳ありませんね」

 中年の刑事、香山源一郎かやまげんいちろう・警部補は、軽く頭を下げた。

「我々としても、一刻も早く事件を解決したいという思いがあってのことなんですよ。今回の通り魔事件……。

 いや、まだそうと決まった訳ではありませんが、仮に通り魔だとした場合、第二、第三の被害を食い止めるためにも。少しでも手がかりが欲しかったもので。今回の事件に関して目撃者はおろか、遺留品などもなく我々としても捜査が難航しておるんですよ」

 源一郎は、弱ったように首の後ろを二度、軽く叩く。

 公恵は、視線を合わせなかった。

 刑事の言う《目撃者》という言葉に、痛いものがあった。

 そうだ。

 公恵は、刑事達に対して真実を全て語った訳ではないのだ。自分は事件の犯人かも知れない人物を庇っている。

 被害者である洋美が証言できない以上、公恵だけが唯一の目撃者なのだ。

 道義的責任から、罪悪に近いものが公恵の心を苦しめた。気づかぬ内に腕組みをしていたのは、自分を守り心理的に安心したいという心理的防衛であった。刑事の言う第二、第三の被害者が出た場合のことを考えると、末恐ろしい気持ちになったのだ。

「……では、事情が訊けるようになったら、ご連絡ください」

 源一郎は、頭を下げると部下の肩を叩いた。

「行くぞ。豊田」

「はい。香山さん……」

 源一郎は先に行き、明彦は公恵に礼を行うと上司の追いかけ、その場を去って行った。

 公恵は、その姿を目尻で見、居なくなるのを確認した。それから思いにふける。あの人物を思い出した。

 名も知らぬ青年を。

 日本刀を持った青年を。

 あの気高い徳を感じさせる青年を。

 自分の勘は、根拠の無いままに青年が洋美を斬ったのではないと判断しているが、現状からして犯人ではなくとも重要参考人に位置する人物である。

 公恵は欲しかった、あの青年が犯人ではないという確証が。そうでなければ、被害者が次々と増えることになるのだ。自分が口を閉ざしていることによって。

 公恵の脳裏に、狂乱した洋美の姿があった。

 立ち尽くしたまま、考える人になった公恵の髪を、一陣の風が茶化しもてあそぶように乱していった。

 でも、公恵は考え続けた。

 目を閉じ、頭痛を憶えたように拳を額に当てる。

 そして、公恵は目を覚ましたように歩き出した。

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