第5話 獅子殿

 標高500m程の小高い山頂に、一宇の寺院があった。

 麓から寺院に続く道はアスファルトで舗装され自動車でのアクセスができるように整備されてはいたが、山門からは一気に時代が戻る。

 昭和、大正、明治……。

 いや。

 もっと、昔を遡る。

 江戸、安土桃山を越え、室町、鎌倉、平安、奈良にまで至る。


 長い


 言葉にしてしまえば、あっけないが、四季の彩が夢幻とも感じる程に繰り返されて今に至る。栄枯盛衰の時に思いを馳せる程に、長い時に忘れられた空間が、そこにある。

 苔むした杉林に、石畳。

 そこを登り続けると、少し霞がかり神秘的な気配が感じられる。途切れることのない石段に歩き慣れない者だと額に汗が滲み始めた時、陽の降り注ぐ杉林の先に寺院が見える。

 千鳴寺。

 本堂そのものは15世紀に建立されてはいるが、開基は奈良時代と伝えられている寺院。厨子と須弥壇は、芸術性と格調を備えたものとして国の重要文化財に指定されていた。

 境内には100種・1600本以上もの石楠花しゃくなげが植えられており、四月から五月の開花時期には咲き揃い参拝者や観光客の目を楽しませる古刹としても知られていた。

 元住職の法信ほうしんは、よわい80歳。

 五年前に病に倒れたのを境に隠居し、弟子に住職を譲る。今では木々の手入れをしつつ、時折訪れる参拝客や観光客を相手に境内を案内する日々であった。

 その日、法信はけたたましく鳴る黒電話の受話器を取った。

 法信が寺院名を名乗り、相手が名乗った。

 知らぬ名であった。

 檀家集であれば、声を聞くだけで姓名と顔が思い浮かぶが、電話の主に法信は心当たりが無かった。

 だが、相手がもう一つの名を名乗ると、法信は驚きのあまり言葉が出なくなった。

 その気配を察した相手方は、法信を気遣う。

 取り乱したことを法信は、相手に詫びた。


 今から伺います。


 相手方は、そう述べると電話を切った。

 法信が庭仕事をするための作務衣から、法衣に着替えを済ませ、境内に目をやると本堂前に一人の姿を見た。知らない人物ではあったが、直感的に何者であるか理解した。

 電話の主であることを。

 そして、本堂にて、法信は人物と会っていた。

 会うのは初めてであった。

 だが、知っていた。

 もはや会うことは無いと思うを通り過ぎ、記憶の彼方に追いやられていた。それが現実になった。何の前触れもなく。

 洗いざらしたジーンズに、黒いジャケットをラフに着こなした青年が座していた。

 その右膝頭の右横に、紫の鞘袋がある。

 鞘袋にこそ収められていたが、刃は内側に向けられている。

 青年は左手から前方に出し床につけ、後から右手を出す。左右の人差し指、親指の爪先を合わせてできた三角形の隙間に鼻を近づけ、両肘を床に付けて礼を行った。

 仰々しくも、決して付け焼き刃では無い青年の礼に、法信は遅れて座礼を行った。

 青年は礼を行うと、右手を先に引いて膝に戻し、次いで左手を引いて膝に戻した。

 青年の礼は、侍の座礼であった。

 抜刀する時は、左手で鯉口を切ることで刀を抜くことができる。つまり刀を右に置くのは攻撃意思が無いという証明であり、刃を内側に向けるのは刀を抜きにくいようにするためである。

 更に礼の際に、左手から先に出すことで鯉口を切る意思が無いことを悟らせる。戦国の世では、礼をすると油断をさせ、右手が先に付くと同時に、左手で小刀の鯉口を切り、襲いかかることは、よくあった話だ。

 だから、こんな逸話が残っている。

 ある御館様の前で家来が右手を先に付いて礼を取った。即座に御館様は家来を斬り捨てた。家来の家族は、これに対し誰も文句を言えなかった。いや、言わなかったというべきか。家来は、常在戦場がつくる武士の心得を失したのだから。

 また、人指し指と親指が形作る三角形に鼻を近づけ、肘を床に付けるのは平身低頭のポーズではない。訪問先の家人にはかりごとがあり、背後から押さえつけられた時、床に鼻を押し付けられて呼吸ができなくなるのを防ぐ用心。両肘を床に付けるのは、重心が利き、横、後ろから押されても簡単には崩されないからである。

「お初に、お目にかかります」

 青年は法信を、まっすぐに見て言った。

 法信は、一本花の茎のように痩せた体をしてはいたが、その眼に宿る光は痩せてはおらず、壮年期と同様に気力が充実していた。

「こちらこそ。貴方様のことは先代よりお聞きしておりました。まさか、ご連絡を頂くとは夢にも思いませんでした」

 住職の目が、青年の右膝頭に置かれた鞘袋に向いた。

「では、それが……」

「ご覧になりますか」

 青年は鞘袋の口紐を解くと、青年の手に導かれて、柄頭が、鍔が、鞘が姿を現した。

 柄を鮫皮で包んで黒漆塗り、目貫には丸に三巴紋が高彫りされている。

 鍔は練革製の木瓜ぼけ形で、四方には猪の目の透かし彫りが施され、木瓜形の大切羽おおせっぱが付属。

 鞘は猿皮で包んだ上から黒漆が塗ってある。二の足の金物には黒糸渡り巻きが施されており、金物類は無地の山銅やまがねで黒漆塗り。柄頭には猿手が付けられていた。

 青年は、それを太刀を差し出した。

 法信は、膝を前に進め授かるように差し出された太刀を両手ですくい上げようとして、驚いたように思い止まる。法衣の両袖に手を隠し直に触れぬようにして、太刀を包み受けた。

 想像以上の重さに法信は、身体が前に倒れそうになるのを、膝を今一度前に出すことによって防いだ。

「……これが、かの霊刀」

「そんな大層なものではありません。ただの、殺しの道具です」

 法信の言葉とは裏腹に、青年は唾棄すべき物として太刀を見下げた。その間に、法信は酒を口にしたように目眩を覚え始める。まるで生気を、魂を吸われるように。

「ご勘弁下さい。拙僧が手にするには身に余ります」

 法信が頭を下げて差し出した太刀を、青年は棒きれでも扱うように手にすると右膝頭に置いた。

 法信は目頭を押さえた。疲れたように。老僧は息を整え気持ちを落ち着かせ、青年を見た。

「失礼致しました。して、何用でこちらに」

 法信は訊く。

 青年は表情も変えず告げた。

「人が鬼魅に変わり始めました」

 法信は眼を剥くように表情を変え、身が圧搾されるような感覚を憶えた。唇が寒風を受けたように震え始める。

「ま、まさか……」

 過呼吸症候群を抑えるように口元を覆う。法信の呼気が、静かな場に聞こえる。

「……何人が、鬼魅に」

 恐る恐る尋ねる法信に、青年は間を置かずに即答した。

「3人。1人、逃しました」

「それでは、あと1人で終わるのですか?」

 法信は、身を乗り出す。この現実が終わるのを望むように。

 青年は境内を見て、青い空を見た。

「……空に、うねりが起こっていました」

 青年の言葉に、法信は青年と同じく空を見上げる。

 明るく淡い色を持つ空。

 何の変事も感じることも無いにも関わらず、身の毛のよだつものを法信は憶えた。

 そして、青年に視線を戻す。

 青年は、まだ見続けていた。空を。

 何かを待つかのように。

 何かに祈るかのように。

 青年は、見ていた。

 雲一つ無い空を。

 何も起こらぬ空を。

 ただ一点だけを見つめていた。

 青年の見ている空に、法信は恐怖を感じた。

 それは、死が待つ場所に向かう者の眼であったから。

 だが、同時に青年の姿が羨ましくもあった。

 己が、生きる道を選ぶ者。

 その選択の重みに耐えているからこその、姿であると思えてならなかったからだ。

 だから、法信は目を逸らさずに、その横顔を見続けた。

 その横顔を焼き付けておくために。

 やがて、青年は目を閉じた。

 法信は狂おしい気持ちを口にする。

「……貴方様が、こちらをお尋ねになるというのを聞いてよもやと思いましたが、終わりでは無いのですか」

「人が更に鬼魅になるやも知れません。すでに幾人もの犠牲者が出ています。それも更に」

 青年は予測した。

「人が悪に堕ちる。何と、恐ろしいことか……」

「堕ち、鬼魅と化した人間を助ける術はありません」

 青年は一度言葉を切って、唯一の対処法を述べた。

「……斬ります、俺が」

 殺生が行われようとしている事実に、法信は自分の無力さを感じずにはいられなかった。

「こちらに来られたのは、祈りのご依頼ですな」

「大威徳明王の調伏を」

 青年は法信に調伏を依頼した。

 調伏は降伏とも言い「人を呪い殺す」という意味を持っている。

 密教は仏教の中でも、最高深遠で、その境地に到達したもの以外には容易にうかがい知ることのできない世界だとされる。密教では何事も秘密裏に行われるが、その効験の凄まじさから一般にも知られるようになった秘儀の一つが、調伏法である。

 中でも大威徳明王の効験を伝える逸話は少なくない。

 葛川修験道を開いた明王院の相応和尚が文徳天皇の后の染殿に取り付いた天狗を調伏で退治したことは説話集の『古事談』にあり、平将門が東国で乱を起こした時に、たちまち鎮圧されたのは、京都八坂の法観寺の浄蔵が大威徳明王法を修した効験だと伝えられている。

 『阿婆縛抄』には、文徳天皇が譲位し、皇位継承をめぐる抗争が皇子たちに生じた時、天台宗と真言宗の護持僧が彼らの代理を務める呪術戦争を勃発させる。比叡山の恵亮が惟仁親王のために大威徳明王法を修し、これによって惟喬親王(清和天皇)が皇位に就いたと伝えられる。

 永久元年(1113年)、清水寺の別当補任権(経営権)について興福寺と延暦寺の僧兵が朝廷を巻き込んでの武力抗争を繰り広げていた。朝廷が仁和寺の僧・寛助に大威徳明王の調伏法を修法するように依頼したところ、その効験があって抗争を終結させることに成功したという。

 また、日本の歴史上、全国の寺院や神社で大規模な調伏の祈祷が行われたことがあった。

 鎌倉時代の半ば、文永十一年(1274年)と弘安四年(1281年)の二回、蒙古(元)が日本侵略のために襲来した、元寇の祈りである。

 高麗を服属させたフビライ・ハーンは、高麗を仲介に国書をもたらした。日本はこれを侵略の先触れと受け止め、異国降伏の祈祷を寺社に命ずる一方、九州の防備体制を固めるなど、国内は緊張に包まれた。

 文永十一年十月五日、四万の兵・九百隻の軍船の蒙古・高麗軍が対馬を襲撃、十九日には博多湾に侵入、各所で激戦が展開された。蒙古・高麗軍の集団戦法に苦戦したが、決着がつかぬまま、二十日夜になる。そこで蒙古・高麗軍は暴風雨を受け、壊滅的な打撃を被った。

 この神風は弘安の役でも吹き荒れ、異国の侵略を阻止することとなる。

 大威徳明王の調伏法は、異国降伏を企図するものから、天狗退治、更には悪夢解消のためにまで行われ作法も多種多様だが、最も験力が発揮されるのは悪魔や人魔の調伏であるという。

「お聞きして、よろしいですか?」

 無論、法信は青年の頼みを断るつもりはなかったが、訊かねばならないと思ったからだ。

「何でしょう」

 青年の返しに、法信は訊いた。

「拙僧の調伏で、事が解決するのでしょうか?」

「……無理でしょう。調伏だけで鬼魅だけが倒れていく。そんなことがあろう筈もありません」

 青年は自らの依頼の無意味にする答えをし、続けた。

「ですが、調伏による障壁が築かれることによって、奴らの干渉を遮り少なくとも悪化を防ぐことはできます」

 青年の返答は、法信の予想を越えるものではなかった。

 だから、法信は言ってしまった。

「小雨ならば蟻塚に流れる水を手で防いでやれましょう。ですが、豪雨の時に傘を差したとて蟻塚は流されます。

 貴方様は、お分かりである筈です。何を相手にし、何に刃を向けているのか。台風や竜巻を前に戦おうとする者が居りますか? 誰もが身を隠し過ぎ去るのを待ちます。例え誰かが死ぬと分かっていても、どうしようもないことがあるのです。

 それと同じです。貴方様がされていることが、どんなに恐れ多いのか! 知らぬ訳では……」

 法信は興奮しすぎて説教になっていることに気がついた。

 だが、青年は清水のように澄んだ眼で法信を写している。法信は青年の瞳に写った自分の焦燥した顔を見て恥ずかしくなり、青年に手をつき頭を下げた。

 鬼魅と化した人を斬る。

 青年が、その使命をまっとうする覚悟を持って、ことにあたっているのは知っていた筈なのに。

「ご無礼を申し上げました。お許し下さい」

 非礼を、法信は深く詫びた。

 青年は目を伏せて呟く。

「そうですね。奴らの前にあって人は蟻に等しい存在。本当に、俺は無力です。斬って人を地獄に落とす力は持っていても、人を救う力なんてありません。

 ですが、あなたが傘を差して雨を除けて下さるなら。俺は、人と同じ蟻の立場であっても目の前で流され溺れる蟻に手を差し伸べることはできます。

 無力な俺に、どうか力を貸してやって下さい」

 心から頭を垂れて、青年は頼み入れた。

 日差しが青年を覆う。

 誰にも等しく降り注ぐ陽光であるにも関わらず、光を帯びた青年は神々しくもあった。

 法信は、頬に伝うものを憶えた。

 人を哀れみ、苦を取り除き、慈しむ。

 それは、慈悲であった。

「私のような老僧に、大層な御役目を賜り。もったいない限りです」

 意識せずとも、言葉が法信の姿勢をありのままに動かし、青年に深く礼を取っていた。

 本堂を出て寺を離れてゆく青年を、法信は見送った。

 境内に人の姿があった。

 40代程僧だ。法信の弟子で、当寺院の住職で彗慈けいじと言った。朝から法要に出ていたのが終わり、寺に帰り着いたところであった。

 青年は彗慈とすれ違う際に、軽く会釈をし、彗慈もそれで返し法信の元に着いた。いつも作務衣ではなく法衣を着ていることに疑問を持ったのだ。理由は間違いなく、あの青年であるには違いなかった。

「和尚様。今の御方は、どちら様ですか?」

 彗慈の問に、法信は自身も忘れていたことを恥じる思いでいた。

「お前がまだ10代の時だったな。儂が先代から。いや、もっと昔から伝え聞いた話をしたのは。代々、口伝で伝えてきたことであったのに、不信心になっておるところであったよ」

 その言葉に、彗慈は目が覚めるように思い出す。

 立ち去る青年の背を、そして左手に下げた鞘袋を目にする。

「では。あの方が……」

「そう。獅子殿じゃよ」

 法信は仏を拝むような気持ちで、去ってゆく青年に手を合わせ、武運を祈っていた。

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