第1話 転生という奇跡

 転生した。

 この際、それはオレリア・アルノワにとってそれほど重要ではなかった。

 前世ではこれといって信じる宗教を持たなかった。だから、死後について具体的なビジョンがあったわけではなかった。

 問題は、この予想だにしなかった第二の人生とどう向き合うかだ。

 人間は貧しさそのものには耐えられても生活水準の低下には耐えられない。コンビニがない、ネット環境がない、電子レンジがない、追い焚き機能付きのガス給湯器がない。失った快適さのために人間はどこまでもわがままになれる。

 その点、オレリアは幸運だった。ガロア王国という大きく豊かな王国の王族に生まれたからだ。多少の不便にさえ目をつむれば、健康で文化的で怠惰な生活を営むことができた。


「オレリア様! オレリア様ー!」


 秋の風に乗ってオレリアの名を呼ぶ声が聞こえる。

 授業から抜け出したオレリアを教師が必死に探し回っているのを傍目に、オレリアは木陰で読書に勤しんでいた。


「あの、オレリア様……よろしいのですか?」

「何か問題でも?」

「そのう……先生がお探しですけど」

「時間は有限ですよ、アンナ。かといって彼に過度な期待を負わせたくもないです」


 侍女のアンナが不安がるのもわからないでもない。

 本来、この時間はオレリアを探し回っている彼の授業を受けていなければならない。オレリアだけのために雇われた家庭教師だ。

 しかし、その授業をサボって木陰で読書に勤しんでいる。

 あの教師が組むカリキュラムには柔軟性がない。文字の読み書きなどオレリアはとっくに身につけているというのに、3歳児にやらせるような書き取りの初歩ばかりやらせて時間稼ぎをするのだ。

 とはいえ、戦地に赴いている父にそのような瑣末事を手紙で送るのも馬鹿馬鹿しく思えたし、あの髪の薄い学者崩れが稼ぎ口に苦労しているという噂も耳にしているから、放っておくことにした。


「私は自由時間を得られる。彼は当面職を失わずに済む。いい取引だと思いませんか、アンナ」

「うーん、私にはちょっと……おそれながら、わからないです」


 困ったように頬を掻く侍女を傍目に、オレリアはページをめくった。

 彼の判断がそれほど間違っているわけではない。事実、オレリアはまだ3歳なのだから。

 こうして授業をサボることでオレリアは「賢いが奔放な変わり者の姫様」という隠れ蓑を得ることができる。

 それとなく尋ねてみたが、転生者という過去――前世の記憶を過去と呼ぶべきかはわからないが――はありきたりなものではなかった。である以上、この秘密は不用意に明かすべきではない。

 最初は遠慮して年齢相応の授業を耐えていた。脱走癖がついたのは、姫という身分が存外にわがままを許容されるものだと気づいてからだ。


「……そろそろブランケットを出さないとな」


 吹き抜けた秋の風にページが巻き上げられ、そのまま髪を揺らしていく。

 オレリアが指先で宙に魔導文字を刻むと、オレリアとアンナを囲うようにして風除けの力場が展開された。初歩的な防護魔術だ。

 そう、この世界には魔術がある。原初の神秘を偉大な魔導の王が体系化した学問として、学べば誰もが使える技術だ。

 風の冷たさに縮こまっていたアンナが、オレリアの魔術に気づいて驚いたように目を丸くした。


「わ……ありがとうございます、オレリア様!」

「福利厚生は大事ですからね」

「ふくりこーせー?」

「真面目な部下は大事にしましょう、というおまじないです。大して役に立たない言葉ですから、気にしないでください」


 いまいち納得のいっていない様子で頷くアンナも、魔術が使えないわけではない。ただ、彼女の適性である土属性は大地に干渉する。風除けのために宮廷の庭園を荒らすわけにはいかないだろう。

 オレリアの適性は風属性。亡き母の一族が得意とする属性らしく、祖母の代から仕えているという老侍女はオレリアの魔術を目にして涙ぐんでいた。

 人によっては冷たさを感じるらしい顔つきも、紫がかった青い瞳も、魔術の適性も母譲りだ。しかし、髪色だけは母に似なかった。

 オレリアの鈍い鋼色は父、テオダルド3世と同じらしい。らしい、というのはまだオレリアが彼と対面していないからだ。


「父上……いえ、陛下は今どのあたりでしたか」

「先月のお手紙では南部に進路を定められたとのことでした。メルウェグ族の反乱を鎮圧された後、南海沿岸に新たな拠点を設ける、と」

「我が父はご多忙なようですね。ガロア王国の統治者とはそういうものなのでしょうけれど」


 ガロア王国。こうしてオレリアが宮中でのんびり本を読んでいられる程度に豊かで広大なこの国は、各地に属州を抱えている。異なる民族を従属させ、ある程度の自治を許し、兵役と納税を義務付けているわけだ。

 この属州はガロア王国の財源であり、そして火種でもある。

 テオダルド3世は異民族に国王の威光を知らしめるため、将を束ねる将として自ら軍を率いて各州へ赴く必要がある。オレリアは王の軍勢が旅立つ前日に仕込まれた子で、それ以来テオダルド3世は帰国せずに各地を転戦している。

 日本で生まれ育った記憶がある身として、戦争による征服と拡張には思うところがないでもない。それはそれとしてオレリアが快適に暮らすためにはガロアの国力が必須で、その国力は属州によって維持されている。


「父に四勇者の守護星の加護がありますよう」


 胸元から吊るされた木のお守りに小さく祈りの言葉を囁くと、応じるようにして淡い光が灯る。

 すっかり祈りの言葉も口に馴染んでしまった。前世では盆と正月にしか神の類を認識しない類の不信心者だったというのに。

 この祈りはただの気休めではない。神と守護聖人の力を借りる、れっきとした超常現象だ。

 この世界で広く信じられているのはミトラス教という一神教で、太陽と同一視されるミトラスとその守護聖人が天に昇った姿である星々が信仰の対象だ。ミトラス教はオレリアを納得させるだけの強く、わかりやすい力を持っている。

 ミトラス教徒は祈りの言葉を唱えることで守護聖人の力を借りることができる。その力は多岐に渡る。治癒、豊穣、安産、嘘をついていないことの証明、勇者の召喚、魔王の封印などなど。

 教義を盲信する気にはならないが、少なくともその力は信仰に値する。こうして昼下がりの穏やかな時間を聖典の読解に費やすくらいには。


「――流暢な祈りだな」


 涼やかな声に顔を上げると、オレリアと同じ鋼色の髪が傾きかけた日差しの中で静かにきらめいていた。

 兄だ。

 静かに後ろへと控えたアンナを気にすることなく、オレリアの兄――シャルル・アルノワはオレリアの隣に腰を下ろした。


「シャルル兄上」

「サボりか、オレリア」

「はい」

「お前はサボりの達人だな、今度教えを請うとしよう」


 シャルルに差し出された干し果実を受け取る。

 シャルルは16歳。オレリアとの間には13歳の差がある。その差が気にならないほど良好な関係を築けているのは、シャルルが柔軟で寛容だからだ。

 まだ3歳の妹が書き取りの授業から抜け出していても見逃してくれる、そんな柔軟さが彼にはあった。


「何を読んでいた?」

「四勇者の福音書です」


 オレリアが聖典を開いてみせると、シャルルは少し嫌そうに眉間の皺を深めた。

 ちょうど四人の若き勇者の肖像画が載せられたそのページには、彼らの功績が美辞麗句に満ちた壮大な物語仕立てで語られている。


「四勇者、魔王封印のために現れた守護聖人たちか」

「はい。アキト・ハラダ、ヒロ・フユハラ、サユリ・ナカモト、ナツメ・コシガヤ。初代勇者は兄上と同い年ですね」

「宮中の坊主どもと同じことを言わないでくれ。連中、二言目にはそれだ」


 初代勇者が召喚されたとき16歳だったことから、16歳が教会における成人とされている。兄はもう大人だ。その気になれば王位を簒奪することもできる。もちろん失敗すればその責任も自分で取ることになる。

 成人して何が変わるわけでもないが、年長者が新成人に対して「成人したからには」とあれこれ説教したがるのはどこでも変わらないようだった。


「言わせておくのが一番です、ああいう手合は説教すること自体が目的ですから。目的があって鳴くだけ秋の虫のほうが可愛げがあるというものですよ」

「……まったく、お前も少々説教臭いぞ。聖職者を虫呼ばわりできる3歳児なんてお前以外には聞いたこともない」


 シャルルは聖職者をあまり好いていなかった。

 祭事には参加するし、週末には教会で祈ることも欠かさないが、宮中の聖職者との関係はあまり良好とはいえない。

 理由については様々な噂がある。女を聖職者に寝取られた、寄進をけちって治療の際に痣を残された、修道院のビールで腹を壊した、などなど……。

 誰も本人に確認を取ろうとしないのは、シャルルが表情の冷たさと口調の堅苦しさから宮中の人々に恐れられているからだ。

 吹雪を纏った魔王。そんなあだ名がオレリアの耳にまで届いている。


「お好きでしょう、こういう痛快な話が」

「そうだな。だが、肝が冷える。中に入ろう」


 すい、とオレリアを抱き上げる手は優しい。

 オレリアは知っている。シャルルは身内贔屓なのだ。自らの家臣や従僕をことさら大事にする。そしてその中には異教徒の血を引いていたり、洗礼を受けられずに育ったりと様々な理由でミトラス教から存在を祝福されない者もいる。

 病没した母オリアーヌの面影を感じているのか、オレリアには特に甘い。たまにオレリアが歳に不相応な聡明さを発揮しても、ただ面白がって「聡明な妹」として扱ってくれる。

 兄の腕に身を委ねて聖典を片手で抱きかかえ、もらった干し果実を口に放り込む。濃い甘みと刺激的な風味。南国の香りだ。


「その果物と一緒に父上が手紙を寄越した。南海対岸にある異教徒の都市群を攻め落とすそうだ。平定の後は属州とし、安定するまで俺に知事を任せると」

「むぐ……もう落としたあとの話ですか」

「それだけ自信があるのだろう。攻城戦には俺も将として参加する。しばらく留守にするが、あまり侍女たちを困らせるなよ」


 オレリアが運び込まれたのは母の寝室だった部屋だ。大国の后に相応しいだけの家財道具に満たされているが、その主である母はオレリアを産んでじきに病で亡くなったという。

 彼女の逝去に伴い、オレリアがこの部屋を使っていた。家具はオレリアには大きすぎるが、どのみち扱うのは侍女であってオレリアではない。

 ベッドに放り出されたオレリアは、シャルルが暖炉に薪を焚べる様子を眺めながら指先で胸元のお守りをいじった。

 せっかく親しくなった唯一の親族。その人物が戦争に行くと言われて即座に背を押せるほど、オレリアはまだこの世界に馴染めていない。


「……約束はいたしかねます。兄上がご無事での帰還をお約束くださるのなら、私もなんとか大人しくしていましょう」

「お前が俺のために祈ってくれるなら、無事は約束されたも同然だろう」

「おや、教区長の祈祷を受けたのでは? あちらが本職ですよ」

「その意地の悪さは誰に似たんだ、まったく。兄が新たな勇者になることを期待してほしいものだが」


 振り向いて、わざとらしいくらいに嘆いてみせる兄は、どちらかといえばこの世に絶望した魔王に見える。

 きっと宮廷に屯する貴族や聖職者はこんなふうにおどけてみせる彼を見たことがないのだろう。そしてシャルル自身もまた、いずれ王位を継ぐ身として等身大の姿を見せる気はないのだろう。

 そんな兄のため、オレリアは小さな両手でお守りを包み込んだ。


「冗談ですよ。……我が兄シャルル、テオダルドとオリアーヌの息子に、四勇者の聖星と光明なるミトラスの加護がありますよう」


 大仰な祈りに相応しい派手な光。果たしてこれがどれほどの力を持つのかオレリアは知らない。この世界の戦争がどのようにして行われるのかも、どの程度の死傷者が出るのかも。

 しかし、うっすらと微笑んで部屋をあとにした兄が無事に帰還するために多少でも役に立つのなら、これくらいはなんの苦労でもない。

 ただ、ひとつだけ、オレリアの胸中を締め付ける小さな罪悪感の種は、どんな祈りでも消えてくれなかった。


「……勇者、か」


 アンナが本を棚に片付ける背を眺めながら、膝を抱き寄せて丸まる。きっと大半の民が目にすることもないであろう清潔なシーツに皺が寄る。暖炉の隣に置かれた振り子時計が示す時刻は午後5時半。

 オレリアにはわかる。兄は勇者にはなれない。

 この世界で、勇者はなる者ではない。教会によって召喚される者だ。それもおそらく、現代日本から。

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